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第三章(後)・レイコさん

 

 それから一週間、わたしはシンさんの家にいかなかった。

 こんなことは初めてだ。

 世間はとうとうクリスマスを迎え――けれど恋人からの連絡は無いままだった。

 シングルの子達の飲み会に混ぜてもらおうかと思ったけれど、どこで何時から始まるのか、それを電話で誰かに聞かなければ、そう思うと億劫(おっくう)になって結局聞けずじまいだった。

 でもまあいいか、と思う。

 本来わたしは、ひとり身かそうでないかとか、そういうこととはまるっきり関係なく、クリスマスそのものが好きなのだ。綺麗な街の飾りや、子供の夢や、おいしそうなご馳走や、そういう「幸福な空気」が街に溢れるのを眺めているのが本当に楽しいのだ。

 だから別に、ひとりクリスマス、結構じゃないか。

 わたしは図書館でタイトルに「クリスマス」とか「聖夜」とかが入っている推理小説を借りまくって、いわゆる「お子様シャンパン」をコンビニで買い、駅前の百貨店でひとり用の小さなケーキを買った。そこまでやると何だかむしろ楽しくなってきて、勝手に頬に笑顔が浮いた。

 これだけ冊数あったら読書で徹夜も悪くないよなぁ……。

 ほくほくしながら両手に荷物を抱え込んで、家に帰ってそれを広げる。晩ご飯は昨日つくったビーフシチューに、先刻買ってきた百貨店のちょっとお高いバゲットをあわせるつもりだ。

 うん、完璧かも。

 わたしはひとりうなずきつつ、まだ夕食には早かったのでお気に入りの歌手のクリスマスCDをかけながら、とりあえずこたつに入ってまずは定番、『ポアロのクリスマス』を読み始めた。何せ「クリスマスに起きる、思いきり兇暴な殺人事件」だ。完璧過ぎる。

 自分とはまるっきり縁のない大富豪のクリスマス情景を読みながら、だんだん読書に意識が集中し、CDの音楽も耳から薄らいできた、その瞬間、チャイムが鳴った。

「……?」

 わたしは意表を突かれて顔を上げる。

 また、チャイム――そしてどんどん、と扉を叩く音。

 なんだ?

 その音の性急さに、わたしは慌ててこたつを飛び出した。

 階段を駆け下りる間も、ノックの音が続く。

「はい……?」

 さすがにいきなり扉を開く気になれずに、玄関で声だけ上げるとノックの音がやんだ。

「あの……」

 もう一度尋ねかけると、

「俺」

 という低いシンさんの声がして、心臓が飛び上がりそうになった。

 急いで土間に下りて、玄関の鍵を開く。

 扉を開けると、目の前にものすごく不機嫌そうなシンさんが立っていた。

「シンさ……」

「ひとりか」

 名を呼ぶ間もなく、急き込むように相手が尋ねる。

「え、あ、うん」

「誰か来んのか」

「ううん……?」

「じゃ、これからどっか出んのか」

「いや、別に……」

 矢継ぎ早な問いにとまどいつつ答えると、うつむきがちなシンさんの顔にまた怒りのいろが浮いた。

「ほな来い」

「え?」

「用事無いねやろ? ほな来い。……十五秒で支度せいや」

「え、え……」

「早よせい!」

 きつく決めつけられて、わたしは何が何だか判らないまま、とにかく部屋に駆け戻った。

 CDを止めてこたつとヒーターのスイッチを切り、コートをはおって手袋をつけ、財布の入ったショルダーバッグにハンカチを押し込むと急いで階段を駆け下りる。

 玄関を開くと、外で煙草を吸っていたシンさんが振り返った。

「行くで」

 扉の鍵を閉めるや否や、ひとの手首をぐい、と掴んで歩き出す。

 ここ最近すっかり歩き煙草をしなくなっていたのに、珍しくくわえ煙草のままでどんどん先へ進んでいくので、その煙がもろに流れてきてけむたい。

 まともに鼻に煙が入って思わず小さく咳き込むと、シンさんがちらりとこちらを目だけで振り向いた。

 唇の煙草を外すと道端のガードレールでもみ消して、ジーパンのポケットから金属の物体を取り出したと思うと、カチン、と開いてその中に吸い殻を落とし込み――ああ、携帯灰皿なのか――一言も口にせず、ひとの手首を掴んだまま歩いていく。

 ……怒ってる、なあ……。

 前を歩く、短い髪の後ろ頭を見ながら思う。

 何で怒ってるのかも、大体見当がつく。

 わたしがここ最近ずっと行かなかった、その意味をきっと、勘づいているからだ。

 ……でも、そんなこと言ったってさぁ。

 わたしは何だか情けないような、泣きたいような気持ちになりながら、相手に引っ張られるままに歩いた。

 高架下の細い道を曲がっていつもならそのまま進むところを、不意にシンさんがぐい、と足の方向を変えた。

 え、と思う間もなく、道沿いの小さな公園に入っていく。

 隅にある東屋までひとを引っ張っていくと、シンさんが手を離してこちらをまともに振り返った。

 あ、怒ってる……。

 そう思った瞬間、

「なんで来んかってん」

 と、低いシンさんの声が降ってきた。

 ――用事があった、友達と旅行してた、もしもシンさんに聞かれたら答えようと思っていた適当な言葉がちらちらと脳裏を横切ったが、目の前の心底腹を立てている様子のシンさんの顔を見たら、もうそんなことが何にも言えなくなった。

 わたしはゆっくり、息を整えるように呼吸して。

 ああ、でも、なんて言ったらいいんだろう。どう言えば、伝わるのか。

 唇を開きかけながらどうしても何も言えずにいると、シンさんが小さく舌打ちした。

 その音に、つい肩がびくっとする。

「お前あほやろ」

 吐き捨てるように言われて、わたしは顔を上げた。

 シンさんはじろりと、そんなわたしを睨む。

「どうせいらん気まわしたんやろ。えっ? 違うか」

 詰問するように言われて、どうしようもなくわずかに顎を動かしてうなずいた。

「ああもう……」

 苛々と短い髪をかきまわして、シンさんは天を仰ぐ。

「ほんま、お前あほちゃう? つまらんこと考えてんなや、腹立つ」

 その言葉に、ぐっと喉が詰まった。

 もう一度、何とか深く息を吸い込む。

「……つまらなくないよ」

 喉の奥からやっと声を絞り出すと、シンさんがえ、という顔でこちらを見た。

「つまらなくなんかないよ。なんでそれがつまんないのよ!」

 もう一度言うと、自分でも思わぬ程の大声が出た。

 シンさんの目から一瞬険が取れて、きょとんとした顔つきになる。

「だって、一緒にいて、欲しかったんだよ……せっかく久々に逢えたんだから、少しでも二人で、一緒にすごせたらいいなと思ったんだよ。全然つまんないことなんかじゃないよ」

 懸命に訴えていると、急に泣きそうになった。

 シンさんが目の前ではっきりうろたえるのが判る。

「あ、あのなあ」

 両手を上げて、半分腰がひけた様子でこちらを見るシンさんを、今度はわたしがキッと睨み返した。

「あのな、別にもう俺等、そんなんちゃうし……つきあいたての高校生じゃないねんから、そんな、お前が思うようなんとちゃうねんって」

「それでも」

 一度言い出すと自分でも止まらなくなって、先刻までどうしても出てこなかった言葉が次々と喉の奥から吐き出された。

「それでも、わたし、嫌なんだもの。自分が二人の邪魔するの、嫌だもの。二人で幸せにしててほしい。わたしなんかが行って邪魔したくない。そんなことして、嫌われたくない」

 ずらずらと出てくるままに喋っていると、最初は困惑していた様子のシンさんの目に一度は消えていた怒りのいろが再び灯った。

「……お前それ、本気で言うてんか」

 一瞬で再度怒りの頂点に達してしまったシンさんの低い声に、どきりと心臓が鳴った。

 けれど、一度口にしてしまった言葉はもう取り消すことができない。

 小さくうなずくと、シンさんの顔が大きく歪んだ。

「――はァ⁉」

 裏返るような声と同時に、バン、と強くシンさんの拳が東屋の柱を叩いた。

 その激しい音に、背筋がびくん、と縮まる。

「お前、ふざけんのもいい加減にしいや……ほんまの本気でそう思ってんのか、ええ?」

 ぐい、と肩を掴まれ――骨ばったシンさんの指が鎖骨に食い込んでひどく痛い。

「お前、本気で俺がお前のこと嫌うと思てんのか、ええっ?」

 怒鳴りつけるように放たれた言葉に、はっとなって、瞬間痛みが頭から吹っ飛んだ。

 まともに見上げると、すぐ近くでシンさんの目がわたしを射抜くように見下ろしている。

 その目がカンカンに怒っているのがはっきり判って、わたしのこころは一瞬で撃ち抜かれた。

 ああ……そうか。

 判った。

 シンさんがなんでこんなに怒っているのか、その芯がはっきり見えた。

「言うてみいや。お前本気で、俺がそうなると思てんのか」

 わたしはまっすぐシンさんを見上げたまま、首を横に振った。

 するとますますシンさんの目が不機嫌になり、にも関わらず、その後に続いた言葉はどこか奥の方にほっとしたような響きを含んで聞こえてきた。

「ほら見い。判ってんねやろ。お前に判ってへん筈がないねん。判ってんねやったら最初っからそういうこと言いないな」

 そうして唇をとがらせるようにして言うのに、胸がぎゅっと詰まる。

「……判ってるよ」

 小声で言うと、シンさんの片眉が上がった。

 判ってる、そんなこと。

 シンさんは絶対にわたしのことは嫌わない。

 そんなことは判ってる。

 知識でも経験でもなく、本能的にそれは判ってる。

 判ってて、でも。

「判ってるけど……怖かったんだよ」

 シンさんの唇が、ぴくりと動いた。

 たとえわたしが「そいつ」の娘であっても、どれだけ訪ねていって二人の間に割り込んでも、そんなことでシンさんは自分を嫌いにならない。

 それがわたしには判る。

 判るのに、怖い。

 目の前にこんなにはっきり見えているのに、そこで立ちすくんでしまう。

「…………」

 シンさんがはっきり聞こえる程の大きな深呼吸を二度して、わたしの肩から手を離した。

 同時に、じいんという熱さに似た痛みが肩口に広がる。

「……お前は俺のこと判っとるやろ」

 打って変わって静かな声で言うシンさんに、わたしの胸が鳴った。

「俺がどういう人間か何考えてるか、お前は全部判っとるやろが」

 続く言葉に、心臓がきゅうっと痛くなる。

 そうだ、シンさんは、わたしが邪魔になるのが嫌だから、と行かなかったことに怒っているのではなくて……自分がわたしを嫌うかもしれないと言ったこと、つまり、「わたしが自分を理解していないこと」に怒っているのだ。

 いや、もっと一段深く、正確に言えば、「こいつは俺のことを完全に理解している、だから俺がこいつのことを絶対に嫌わないことも知っている、判っている癖にそんなことを口にしている」ということに怒っていて、それと同時に、「なのにそんなことを口にしたということは、もしかして、万が一にも、こいつは俺のことを本当は判っていなかったのかもしれない」という可能性に苛立っているのだ。

 ……ああ、どうしてだろう。

 本当にどうして、こんなにも相手のこころが透けて見えてしまうのだろう。

 そしてどうして、こんなにも相手のこころが見えていることが、すべて相手に伝わってしまっているのだろう。

「なあ」

 どこか懇願するようなシンさんの声に、わたしは小さくうなずいた。

 わずかに安心したように、シンさんの眉根の皺が少し浅くなる。

「でも、不安で……怖かったんだよ」

 深く息を吸って何とかそれだけ言うと、またその皺が深くなった。

「判ってんねやったら何が怖いねん」

 問い詰めるようなその言葉に、どう答えていいのか判らない。

「……お前、そんな俺のこと信じれんのんか」

 続いた言葉に、どくん、と心臓が揺らいだ。

 思わず顔を上げると、シンさんとまともに目が合った。

 眉をひそめた、不機嫌そうな、でもどこか心配気な、こちらをうかがうようなそのまなざし。

 ああ……そうか。

 急にいろんなことが、氷解したように判った。

 わたしが、電話が怖いのも、自分以外の他の誰かに、わずかでも負担をかけることが異常に怖いのも……わたしが誰も、信じてないからだ。

 ほんのわずかでも寄りかかれば、相手は自分からこころを離す。

 どうしてもそう思ってしまうのは……わたしが相手のわたしへのこころを、信じたことが、ないからだ。

 だから、怖い。

 ああ、だけど、どうしてだろう、わたしにはシンさんのこころがこんなに見えているのに、絶対に嫌われない、そう知っているのに……それなのに怖いのは、何故なのか。

「……まぁええわ」

 シンさんは口の中で呟くように言って、ダウンジャケットのポケットから煙草を引っ張り出し、やや風下に移動すると火をつけた。

 顔をそむけて、ふー、と遠くに向け深く煙を吐き出すとこちらを見る。

「信じんでもええわ。いや、と言うか、俺のことなんか信じんな。……けど、俺のことは判っとけ」

 すっかり淡々とした口調になって、シンさんは煙と共に言葉を綴る。

「つか、もう判ってるやろ。お前は俺より俺のこと判っとるわ」

 なだめるような声に、ふと、鼻の奥がつうんとした。

「お前が俺のこと判ってへんかったら、俺は困んねん。……なんつうか、足場がなくなる」

 どこかひとりごとのようにシンさんは言うと、煙草をはさんだ指を口元に当てて深く吸い込んだ。

「俺っちゅう人間を、この世で完璧に理解してんのは、お前だけや……そやからそれがなくなったら、俺は困る」

 煙と一緒に言葉を吐くと、シンさんはぐいぐい、と短くなった煙草を灰皿でもみ消して。

 わたしは目の裏に熱いものがたまっているのを何とか押しとどめたくて、口を開いた。

「レイコさんは? レイコさんだってシンさんのこと、判ってるでしょ」

 するとシンさんは眉を上げて、心底怪訝そうにわたしを見た。

「レイコ? あいつは俺のことなんかなんも判ってへんわ」

 実にあっさりと決めつけたと思うと急にスタスタ歩き出したのに、わたしは慌ててその後を追う。

「ええ、そんなことないでしょ?」

「判ってへんよ。判ってへんから俺なんかと一緒におるんやろ。判っとったらとっととよそいくわ」

 あまりに身も蓋もないシンさんのその言いっぷりに、わたしは少し呆れる。

「そんなことないと思うけど……」

 思わず唇をとがらせて言うと、シンさんは一瞬、歩調をゆるめてわずかにうつむいた。

「あいつの為には、よそいった方がええねやけどな」

 低く、ぼそっと言われた言葉に、胸がどきっとする。

「……なんで、そんなこと言うの?」

 息が浅くなるのを感じながら聞くと、シンさんがまた目を伏せる。

「あいつには俺よりもっとマシな男が合うやろ。何も好き好んで俺なんかと一緒におることないねん」

「そんな」

 シンさんのそういう気持ちは判らないでもないけれど、でもいくら何でもそれはレイコさんに失礼だ、と言い返そうとすると、シンさんがちらっとこっちを見てふっと表情をゆるめて片眉を上げ、大きく片手を振った。

「そもそも自分のこと全部判っとるようなオンナとなんか、おっかなあて到底つきあえんわ」

 まあ、それは……一理、あるかも。

 一転してからっとしたその口調にそう一瞬思いかけたが、その直後にシンさんが続けて、

「大体、オンナなんかに俺のことが判られてたまるか」

 と言ったのに、む、と腑に落ちない気分になる。

「シンさん」

「なんや」

「わたし、女なんだけど」

「ええ⁉」

 急に大声上げてこちらを振り返るシンさんの顔が、完全にいつもの、ひとをからかう目つきになっていたのにわたしはますますむうっとする。

「いや、お前オンナちゃうやろ。前々から思ってたけど。実は甥っ子なんちゃう?」

「あのねえ!」

 片手を振り上げると、シンさんは背を曲げて笑った。

「いや、でもほんま、お前ぜんっぜん、女っ気っちゅうか、若い女の子らしさっちゅうもんが無いねんも。おっさんみたいやで」

「ほんまもんのおっさんにおっさん言われたくないよ!」

 つい声を張り上げて言い返すと、シンさんはますます、声を上げて笑う。

「いや、でも、ほんまさぁ……ほんまお前、オンナっちゅうんやないわ。なんちゅうか……兄弟、かなぁ」

 突然言われた単語に、わたしは一瞬、むくれた気を削がれ――が、次の瞬間、

「あ、キョウダイのダイの字は、妹やなくて弟の方やで、言うとくけど」

 と続いた言葉に、またむうっと頬が膨らんでしまう。

「もう、シンさん!」

 怒り返すとシンさんはけらけらと笑い、その顔に何だか、怒っている方が莫迦莫迦しくなって、わたしは振り上げた手から力を抜いた。

 ――俺のことなんか信じんな……けど、俺のことは判っとけ。

 シンさんの言葉が胸の内に甦って、口の端にふっと笑みとなってのぼる。何と言うか、本当にシンさんらしい。これぞシンさんと呼ぶべき言い草だ。

 その言いっぷりが、わたしを安心させる。

 ここ数日、ずっと胸の内にわだかまっていたもやもやとしたものが、すっきりと晴れていた。

 前を行くシンさんの、大きな背中を眺める。

 大丈夫だ……何があってもこのひとだけは、大丈夫。

 何故ならわたしは、それを知っているから。



 シンさんの家に着いた時にはもう大分暗くなっていて、ガラリと扉を開けると、ぐったりした顔のレイコさんが家の方の引き戸から顔を出した。

「もう、どこほっつき歩いてたのかと思った……後十分遅かったら、わたし全部食べきってたわよ」

「どんな胃袋やねんそれ。……煙草吸うてくるし、自分等先食べとけや」

「え?」

 レイコさんがきょとんとするのを尻目に、シンさんはいつものように勝手口から出ていってしまう。

「なんで煙草吸うのに上行くの?」

 不思議そうにこちらを見るのに、ああ、と思い、それから少し、申し訳ない心地になる。

「あの、わたしが煙草、駄目なので」

 小声で言うと、レイコさんの目がまん丸になった。

「へえ……そんな気遣えたんだ、リュウ」

「あの、多分、伯母さんが」

「ああ、佐和さん。そりゃ逆らえないね」

 丸い目がふっと笑みを含んで細くなると、レイコさんは両手でこちらにおいでおいでをした。

「上がってよ。そっち寒いでしょ」

「あ、はい」

 わたしは後ろ手に扉を閉めて工房に入ると、沓脱ぎ石で靴を脱いで家の中に上がった。実はこっちの家部分の方に入るのは初めてで、少し緊張する。

 そう言うと、レイコさんの目がまた丸くなった。

「え、なんで?」

 と言われてみて、そういえばなんでなんだか、自分でも判らなかった。機会がなかった、としか言い様がない気もするし、でもそれも違う気もする。

 わたしが来る時はシンさんはほぼ工房で仕事をしていたし、ほんの数回、家の側にいた時でも、すぐに出てきて工房の方でお茶を飲んだり仕事を始めたりしていた。食事を持ってきた時も、工房のテープルを片付けてそこを使ってご飯を食べて、温め直しも洗い物も工房の台所でやっていて、それを特に不思議なこととも思わなかった。

 ……これもやっぱり、無意識の内に引いていた線なのかな、そう思う。家、というプライベート空間に上がること、上げることを、お互いにまだ控えていたのかも、そう。

 襖の向こうに、こたつの上のカセットコンロにかかった鍋がくつくつと煮えているのを見て、わたしの胸はきゅっとなった。

 ああ、こうやって、またひとつ近づいた。

「よし、じゃ、食べちゃおうか。もうお腹ぺこぺこ」

 レイコさんは明るく言って、両手をすりあわせながらこたつに入り込み、ふっと心配そうにこちらを見た。

「ああ、そういえば……千晴ちゃん、今日ほんとに大丈夫だった?」

「え?」

「リュウ、無理矢理引っ張ってきたんじゃない? 大丈夫? デートとか友達とか、約束なかった?」

 座ろうとしていた動きを思わず止めて見つめると、レイコさんの大きな瞳がますます大きくなった。

「あ、もしかして、やっぱり? ああもう、だから止めたのになぁ」

「あっ……あ、いえ」

 レイコさんがそっち方向に勘違いしたらしいのを見て、わたしは慌てて手を振った。

「何にもないです。大丈夫です」

「そうなの?」

「はい。……彼氏、就活で忙しくて」

 再度座りながら、自分でも驚く程、するんとそんな言葉が出た。

「そうなの? え、でもやっぱり、女の子にはイベント鉄板でしょ。クリスマスに彼女放っとくような彼氏なんか、こっちからフッちゃっていいんじゃない?」

 そのあまりの言いっぷりに、つい笑ってしまう。

「だって、彼氏四回生なんですよ。そりゃクリスマスどころじゃないでしょう」

 そして、笑いながらそんな風に言える自分に再度驚く。まだ二度目なのに、なんかこういうこと言いやすいんだよな、レイコさんって。まあ同性ってこともあるけど、やたらに深刻にならなそうなところが逆に。

「ああ、四回なんだ……うーん、まあ、それでもねえ」

 小さく頬をふくらませたレイコさんがかわいくてくすっと笑うと、こたつに両手を突っ込んだままレイコさんがこっちを見た。

 ふっと、その目が優しく細まる。

「……あのさ、千晴ちゃん」

「はい?」

「わたしに遠慮しなくていいよ」

「え?」

「ガンガン来たらいいよ、リュウのとこ。と言うか、むしろ来て」

 わたしは一瞬、言葉を失って相手の茶色ががった瞳を見返した。

「わたし、今日ここ来た時さ、リュウの奴、ぱっとこっち見たと思ったら一瞬でむっとした顔になって、言うにことかいて『なんや、お前か』って。ひどいと思わない?」

 確かにそれはひどい、と思ったけれど、わたしは何だか、胸が一杯になってしまって何も言えなかった。

 シンさん、待ってたんだ、わたしのこと。

「で、あ、もしかして千晴ちゃん、こないだからずっと来てないんじゃないか、て思ってそう聞いたら、更に露骨に不機嫌になってさぁ。いきなり立ち上がってどっか行こうとするからびっくりして聞いたら、『呼んでくる』って。もう、止めた止めた」

 レイコさんはくすくす笑いながら、お鍋の蓋を開いた。

 もわりと湯気がたちのぼり――ああ、水炊きだ。

「だってイブだもん、ねぇ? きっとデートだよ、ってそう言ったら、ますます機嫌悪くして、『とりあえず行ってくるから飯つくっとけ』って飛び出してっちゃって」

 レイコさんが渡してくれる箸ととんすいを受け取りながら、心の端がちくんと痛んだ。シンさん、わたしと恋人がうまくいってないの、はっきり判ってるんだな。まあ、うまくいってたらこんなにちょくちょくシンさんちに来てないだろうから、そりゃ、丸判りだろうけど。

「どんな過干渉なお父さんだこの男、と思ったけど、まあでも、約束なかったなら良かった。だからさ、千晴ちゃん……暇な時には、リュウんとこ来てやってよ」

 ひょいひょい、と自分のとんすいに野菜や鶏肉を放り込んでいくレイコさんの横顔を、わたしは箸を止めて見つめた。

「わたしさ、帰ってきて気がついたことがあるんだけど、なんかリュウの仕事、前と違うんだ」

 レイコさんは手に持った箸の先を振って、目だけで天井を見上げた。

「どう言えば、いいのかなぁ……つくってるもの自体が変わった訳じゃないんだけど、何て言うのか、こう、打ち方が違うって言うか、ああそう、音が違うのね」

 その言葉に、はっとなる。

 ――センセイの仕事は、音が違う。

 そう話していたシンさんの言葉が胸に甦った。

 ――澄んだ音っちゅうか、気持ちがすうっとするような音で……あんな音、俺には一生出せへんと思うわ。

「音がね、前と違って、なんか雑味が無いって言うか……澄んでるな、って思うのね。純粋って言うか」

 わたしは言葉もなく、レイコさんの横顔を見つめた。

「もともと腕はいいんだけど、でも、それ以上に何か、余計なものがすっきり削がれてきた、って感じ」

 そう言うとレイコさんがこちらを見てにこりと笑ったので、わたしは思わずどぎまぎしてしまう。

 わたしには彫金のことはまるっきり判らないけど、もし本当にシンさんの音がそう変わったのなら、わたしがいることでシンさんの何かが変わった、そうなのだろうか。

「それってきっと、千晴ちゃんがいたからだと思うんだよ。だから、時間あったら、リュウのとこに来てやって。そうすると、わたしも助かる」

「え?」

 思ってもみない言葉に思わず聞き返すと、レイコさんがふっと口先で笑って、

「わたし、野望があるのよ」

 と言い出した。

「……やぼう?」

 咄嗟に漢字に変換できずに、オウム返しに尋ねてしまい――と、工房の方で、勝手口の開く音がした。

「あ、戻ってきた」

 レイコさんは眉をきゅっと上げて座り直すと、ちらっとこっちを見て人差し指を唇に当ててみせる。

「また今度。今は内緒ね」

「あ、はい」

 うなずくと同時に引き戸の音がして、襖を開いてシンさんが入ってきた。

「なんや、全然食べてへんやん」

 言いながら脱いだダウンジャケットを部屋の隅に放ると、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出しどっかりあぐらをかいて座る。

 一本をレイコさんの前に置くと、自分が手に持った方をプシュッと開けて、ぐいっとあおって。

「ああ、うま……ほら、何してんねん、食うてまうで」

 そう言ってどんどん鍋の中身をさらえていくシンさんに、わたしも慌てて箸を伸ばした。

「あ、千晴ちゃん、これこれ」

 食べようとしていたわたしに、レイコさんが瓶を差し出して。

「旭ポンズ。水炊きには必須」

「へえ……」

 渡されたそれを受け取り、とんすいの中の具にかけてみる。蓋を開いただけで、驚く程さわやかな香りが部屋に広がった。

「もうさ、向こうだって野菜も肉も魚もあるし、今時大抵の街ならしょうゆだってポン酢だって売ってるから、鍋くらいしようと思えばできるんだけど、さすがにないのよねえ、これは」

 レイコさんはわたしの手から瓶を取って、嬉しそうに自分の器に入れて。

「あー、うれしー……水炊き久しぶり」

 ほくほくした顔で箸を口に運ぶと、実に幸せそうに笑って。成程、なんでまたクリスマスに水炊きなのか、とちらっと思ってはいたんだけど、ずっと日本食から遠ざかってたんだし食べたいよね、こういうの。

 箸に取った白菜と鶏肉を、ふー、と吹いて冷ましてわたしも口に入れる。うわ、ほんとだ、おいしい。

「レイコさん、これ、すごいおいしい」

「そうでしょう!」

 実に満足げに、レイコさんが胸を張る。

「水炊きはもう、肉よりもだしよりも野菜よりも旭ポンズ! これさえあれば多少の材料の質なんか軽くカバーするから!」

 そ、そうなのか……。

 レイコさんは箸を置いて缶ビールを開けると、やっぱり実においしそうにごくごく、と喉を鳴らして飲んだ。

「……あーっ、やっぱり日本の冬は鍋にビールよねぇ。あぁ、でも、ほんとはさ、おでんも食べたかったんだけどねえ」

「おでん?」

「うん、今日、どっちにしようかちょっと迷ったんだけど、わたしがつくると何故か今ひとつおいしくないのよねえ、おでん」

 そう言って首を傾げるレイコさんに、

「ああ、前つくった奴、確かに食えたもんじゃなかったわ。やめといて正解や」

 とシンさん。

「どうして……」

 まあ、確かに鍋なんか切って煮るだけとは言え、おそらくレイコさんが準備したのであろう目の前の鍋は、野菜も実に綺麗に切られていて、火の通り具合も良かった。料理下手には見えないのだが。

「うーん、なんかねえ、わたし、こう、ガーッと切ってジャーッと炒めてバーッと味つけてハイできあがり、みたいな料理は得意なんだけど……ほら、中華とか、あの辺り我ながら天才じゃないかと思うくらい上手いんだけど、じっくり時間かけて煮込み系、って一律にダメなのよねぇ」

 何と言うかこう、実にイメージしやすいその説明に、わたしは頭から納得してしまった。

「ほら、例えば肉じゃがとか、自分でよし、と思うタイミングだと大抵生煮えだし、じゃ、と思って時間かけると全部煮崩れてるし……こう、程々ってことができないのよねえ」

「お前に中道って無いよな。むちゃ美味いか激マズかや」

 と、どことなくしみじみとした口調でシンさんが言い――これは相当、そっち方面では苦労したのだろうな、ということが察せられる。

「……ええと、じゃあ今度、わたしつくりましょうか、おでん?」

 思わず言うと、レイコさんの顔がぱあっと輝いた。

「ほんと! 嬉しい!」

「いや、あの、普通ですよ、わたしのおでん」

 その喜びっぷりに、念の為そう付け加えてはみたのだが、どうも聞こえてはいないようで「おでんおでん」とはしゃぎまくっている。

「いや、お前の腕なら、間違いなくこいつよりは美味い」

 シンさんも真顔でそう言うので、まあそれならいいか、と思いつつ、レイコさんの満面の笑顔に、ついこちらも顔に笑みが浮いてしまった。



 水炊きは締めの雑炊までパーフェクトにおいしく、その後のレイコさんの片付けも全く手をはさむ余地もなく実に素早く手際良く、すっかりこたつの上が片付いたところで、レイコさんが嬉しそうに冷蔵庫の中からケーキの箱を出してきた。

「ほら、クリスマスっぽくなったでしょう、一気に?」

 言いながら箱から取り出したそれは、直径二十センチくらいの苺のショートケーキだ。

「あのな、判ってると思うけど、俺食わんで、それ」

「リュウの分は最初っから勘定に入ってません」

 べー、と小さく舌を出して――いやちょっと待て、でももともとは、わたしが来るとは彼女は思ってなかった訳だから、これがひとり分勘定なのか、もしかして⁉

「半分こっつしようね、千晴ちゃん!」

 語尾にハートが透けて見えるような声で言われて、わたしは慌てて両手を横に振った。

「いや! いや、わたしは八分の一カットで充分です!」

「ええ?」

 ナイフを手にしたまま、レイコさんが不思議そうにわたしを見る。

「全然、遠慮しなくていいのよ、千晴ちゃん?」

「いえ、本当に! お構いなく!」

「でも」

「お前、誰もが自分と同じ基準で生きてる思うなよ、ほんま」

 シンさんが立ち上がり様、レイコさんの頭を軽く握り拳で小突いて。

「コーヒー淹れてくるわ。佐和さんの茶でええねんな、自分?」

 ストーブの上のやかんを手にしてこちらを見るシンさんにうなずくと、レイコさんが「あ」と声を上げて立ち上がった。

「どうした」

「これ。これ、使って」

 ナイフを置いて、レイコさんは部屋の隅に置かれた自分のボストンバッグに歩み寄ると、しゃがみこんで中から何かを取り出した。

「はい、千晴ちゃん!」

 ぐい、と両手で目の前に差し出されたそれに、わたしは面食らう。

 金縁の入った、太い真っ赤なリボンが結ばれた白い箱。

 その絵に描いたような王道の「プレゼントラッピング」に、体温が一気に二度程上昇した。

「開けて開けて、早く!」

 急かされるのに、ぎこちなくそれを受け取り、こたつの上でリボンをほどいて。

 箱を開いて、息を呑む。

 細く切った紙の梱包剤の中に、すっぽりと収まった青緑色のマグカップ。

 わたしは気が遠くなりそうな思いで、それをそおっとそおっと、くるむように手に取って持ち上げた。

「綺麗……」

 意識もせずに、言葉が口からこぼれでる。

 唇が触れる縁の辺りがわずかに黒みががっていて、そこからぼってりとした中央に向かって、虹色がかった青緑色が下にいく程濃いグラデーションで輝きを放つ。一番ふくらんだ胴の中心部分に、さっと刷毛で掃いたように、ほのかに桜色が走っている。

 そしてそれは、まるであつらえたようにわたしの手の中にすっぽりと収まっていた。

 どれくらいそうしていたのか自分でもよく判らず――不意に、ぽん、と肩に置かれたレイコさんの手に、わたしは我に返った。

「気に入った?」

 にこにこしながらこちらを見つめてくるレイコさんに、声も出ないまま、ぶんぶんと首を縦に振る。

「そお? 良かった」

 とろけそうな笑みを浮かべてレイコさんが言うと、いきなり後ろからシンさんの手がわたしの髪をくしゃ、と混ぜた。かと思うと、すっとそのカップを手から抜き取っていく。

「……ええ出来や」

 ぐるりと眺めてぼそっと小さく言うと、カップを持って襖の向こうに消える。

 わたしは何だかぼうっとしてしまって、まだうまく言葉が言えなかった。

「あの後つくったのよぉ。ほら、こないだ、千晴ちゃんのカップ、ここに置いてるの見て、ならせっかくだから、って。今日渡せるとは思ってなかったんだけど、とりあえずリュウのとこに置いといてもらおうと思って。持ってきて良かったぁ」

 レイコさんに言われて、わたしは思わずその顔を見た。

「え、でも……どうしよう」

 口からやっとぽろっと出た言葉に、レイコさんが首を傾げる。

「え?」

「だって、あんな素敵なの、持って帰りたいもの、持って帰って、家で毎日使いたい……ああでも、ここに皆のカップと一緒に置いとくのも素敵だし……ああ、どうしよう」

 まだ頭のどこかがふわふわしたまま、心の中の逡巡をそのままずらずらと口に出してしまうと、レイコさんがまじまじとわたしを見た。

「でも、やっぱり、持って帰りたいなぁ……帰ってあれがうちにあったら、なんか毎日、いろんなこと頑張れそう」

 本当はここに置いて、カップが三つ、並んでいるところも見たいのだけれど。でもやっぱり、家で朝起きた時も夜寝る時も、あれが傍にある方が嬉しい。

 そんなことを頭に浮かぶまま呟くと、突然レイコさんがぎゅっと首ったまにしがみついてきた。

「え……え、レイコさん?」

「最高」

 一言言うと、ますますぎゅうっと抱きついてくる。

「レイコさん……」

 その細身の体の意外な柔らかさと、髪から漂う甘い花のような香りに、女同士なのに何だかどぎまぎしてしまう。なんかもう……色っぽいんだなぁ、レイコさん。

「ああ、作り手冥利に尽きるなぁ……千晴ちゃん、それ最高だよ」

 ゆっくり腕から力を抜いて、レイコさんがどきっとする程近距離でひとの目を覗き込み、にこっと笑った。

「ああ、すっごく嬉しい!」

 ぎゅうっと両の手を拝むように合わせて、レイコさんは飛び跳ねるように立ち上がった。

「もう、どんどんつくっちゃうから……ああ、すぐ土こねたくなってきちゃった、帰ろうかな」

「え、い、いや、レイコさん、それはちょっと」

 思いも寄らない発言に、わたしは焦って手を振って止めた。

「だってもう、うずうずしてきちゃって……」

「いや! いや、レイコさん……ほら、ケーキ! ケーキ食べましょう!」

 本当に、放っとくと今にもバッグひっつかんで帰りかねない勢いに慌てて言うと、レイコさんがはたと我に返ってこたつの上を見下ろした。

「……そうだった、ケーキ」

 憑物が落ちたみたいな声で言ってすとんと座ったのに、わたしは内心、ほっと胸をなでおろす。

「ええと、千晴ちゃん、ほんとに八分の一でいいの?」

「あ、はい、それで充分です」

「おいしいんだけどな、ここのケーキ」

 呟きながらレイコさんは、それでも八分の一よりは少し大きめのサイズで一切れを切り分けてくれ、ケーキ皿に移してくれる。

 残りをそのまま、どん、と普通の皿に移して。ううむ、あれをやっぱり、ひとりで平らげるのか。

 先刻の水炊き&雑炊で、もう結構お腹にきてるのになぁ……しかしなんでまたこのカップルは、どっちもこんなに大食いなのにどっちもこんなに細いんだ?

 何となく理不尽な思いを抱いていると、襖がからりと開いてシンさんが現れた。

 コーヒーの入ったコーヒーメーカーをこたつの上にことりと置くと、わたしには伯母さんのお茶の入った先刻のカップを手渡す。

 もう一度襖の向こうに引っ込んだと思うと、いつもの二人のカップを持って戻ってきた。

「しかしレイ、お前ほんまようそれ食えるよなぁ」

 実に嬉しそうに残り八分の七のケーキにフォークを入れているレイコさんに、シンさんが呆れ顔で突っ込むと向かいにどん、と座って。

「おいしいよ。あげないからね」

「いらんわ、そんなもん」

 顔をしかめてカップのコーヒーをすすり――シンさん、多分、甘いものが一律に駄目な訳ではなくて、クリーム系が苦手なのだろうなと思うのだけど。わたしが出先で買ってきたシンプルなタイプのクッキーとかドーナツとかは、時々かじってるし。

 実のところわたしも生クリームはそんなに得意な方ではないのだが、このケーキのクリームはあまりべったりしておらず、後味がくどくなくてなかなかおいしい。

 これならちょっとくらいならシンさんでもいけるんじゃないか、と思って顔を上げると、こたつの向こうでレイコさんを見ているシンさんの顔が目に入った。

 フォークを片手に、実に幸せそうにイチゴとスポンジを一緒に突き刺して頬張っているレイコさんを、呆れたような、わすかな苦笑混じりで見つめている、その、やさしい目。

 その目を見てしまったら、もう何も言えなくなった。一台でも二台でも、レイコさんが食べたいなら食べさせたいんだ、きっと、シンさん。

 ……ああ、やっぱりいいなぁ。

 目の前のその雰囲気に、胸の中がどんどんほこほこしてくる。何だかもう、見ているだけでうれしいなあ、この二人。

 自然と頬に浮いてくる笑みをそのままに見ていると、ふとシンさんがこちらに顔を向け、一瞬、不意を突かれたような目をしたと思うと、何だ、と言わんばかりの目で睨んでくる。

 ふふ、でももう遅いもんね。見ちゃったもんね、今の顔。

 そう内心で思いながら、ますますにこにこと見返してやると、シンさんはふいっと目をそらしてそっぽを向いた。

 そんなわたし達に全く気づかず、レイコさんは実にすがすがしい程のスピードでどんどんケーキを平らげていく。

 ああ、何だか……うん、大仰でも何でもいいや、「幸福」って奴は……きっとこういう夜のことを言うんだ、うん。

 手の中のカップの重みをたまらなく心地よく感じながら、わたしは頬に浮かぶ笑みをどうにも消せずにいた。



 さんざん逡巡した挙句、結局わたしは、そのカップを家に持ち帰ることにした。

 綺麗に洗って拭いた後、入っていた箱に元通り詰め直す。

 シンさんに紙袋をもらって、そおっとその中に箱を収めた。

 ああ、でも、それにつけても、自分からレイコさんに何にも準備していなかったことが悔やまれる。

「ごめんなさい」と言うと、レイコさんは目をまん丸にして、

「いいのよ、これ、リュウのおもり代だし。それに今度、おでんつくってもらうから。あ、牛すじ必須ね」

 と言って明るく笑った。

「おもりってなんやねなコラ。……ほな、送ってくるわ」

 ダウンジャケットをはおるシンさんに、レイコさんが「わたしも」と言ったが、「お前はおれ」と一言で決めつけると、くい、と顎でこちらをうながす。

 まあ、外もうかなり寒そうだしな。ほんとは別に、シンさんにも送ってもらわなくても大丈夫なんだけど、と思いつつも、それは絶対相手が許さないことも判っていたので、わたしは急いで立ち上がった。

 引き戸を開けて出た工房はひんやりとしていて、玄関の外は更にしんしんと寒かった。いわゆる京都の「底冷え」だ。

「冷えるな」

 ぼそっと一言言うと、シンさんが歩き出す。

 わたしは紙袋を大事に抱えて、その後について歩き出した。

 息が湯気のようにほこほこと口からあがる。

 特に会話もないまま、アパートが見えてくる。

 玄関の前に来ると、シンさんがポケットから煙草を取り出してくわえた。

「今日はありがとう。おやすみなさい」

 ぺこ、と頭を下げて中に入ろうとすると、「おい」と呼び止められる。

 振り返ると、指先を曲げてくいくい、と招かれた。

「……?」

 何だろう、思いながら一歩近づくと、手の平を下にして軽く握った片手をこちらに差し出してくる。

「なに……?」

 小さく聞きながら手袋をはめたままの片手を出すと、その上に拳が乗り――手の平に、何かがチャラッと小さく音を立てる感触がした。

「え?」

「おやすみ」

 シンさんはさっと言うと、身を翻して去っていってしまう。

 わたしは手の平の上に乗ったものを見つめたが、暗くてよく判らない。

 顔を上げたが、シンさんはどんどん遠くに行ってしまう。

 わたしは急いで玄関の扉を開け、電気をつけた。

「……あ」

 ――ペンダント。

 銀色の、細い鎖のペンダント――トップには銀の糸が網目のように絡まった細い細い三日月が(かたど)られており、その端に座る、わずかに盛り上がった黒い石のはめられた猫のシルエット。

 わたしは玄関を飛び出した。

 もうどこにも、シンさんの姿は見えない。

 煙突のように激しく、白い息が唇から吐き出された。

「……ありがとう」

 ぽつりと口から出た言葉は、息と共に溶けるように消えた。

 

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