第三章(前)・レイコさん
そのひとは実に唐突に目の前に現れた。
あの後、田上沢さんとはシンさんと一緒にもう一度ご飯を食べた。最終日は学生も交えて飲むと言っていたので、さすがにそれに混ざるのは遠慮して、その前日におつきあいさせてもらったのだ。
その時にシンさんの目を盗み盗み、レイコさんのことについてあれこれ教えてもらった。
学生の頃から、そのずば抜けた明るさと天性の社交性の高さ、そして高い陶芸の才能とで割と目立った存在だったのだということ。だが、その頃完全な一匹狼で、殆ど学生達と交わることがなく、特に女生徒には一切関心がなかったシンさんは、それだけ目立っていたレイコさんのことを当時は全く知らなかったのだという。
それが何故、というと、学生の頃、レイコさんは陶芸を専攻しながら、他の専攻の先生のところにもあれこれ出入りして技術を教わったりして親交を深めていたそうで、その中のひとりが野々宮先生、シンさんの「センセイ」だったのだそうだ。
結局野々宮先生は彼女がドイツに行っている間に病で亡くなられたのだが、彼女はそれを知らずに帰国後に先生の工房に遊びに行き、そこでシンさんに出逢ったのだという。
知り合った後にどういういきさつでつきあうことになったかまでは、さすがの田上沢さんも知らないそうだが、「そりゃもう天地がひっくり返る程驚いた」と目をまん丸にしてみせてくれた。
そしてレイコさんについて、こう語った。
「あいつが言うように、確かに彼女、どえらい脳が天気で、後先考えてないみたいで……でも何て言うか、ところどころ、ものすごくクレバーなんだよね。時々、こう、きらきらっと、びっくりするくらい鋭く輝くんだよ。多分、あの明るさだけを見て彼女に近づいた男は、あれにやられて皆退散したんだろうなと思うよ」
それからこうもつけ加えた。
「レイコのレイは怜悧のレイなんだけど、それを名は体を表すって当人は言っててさ。森谷はその度に鼻で莫迦にしてたけど、でも、あながち間違ってないと俺は思ったよ。彼女はああ見えて、かなり賢いんだ」
結局シンさんは、あれからいくらつついても殆ど彼女について語ってくれなかったので、田上沢さんの情報はかなり有り難く、そして聞けば聞く程、彼女当人に逢ってみたくてたまらなくなった。
けれども年が押し迫ってきても――田上沢さんによると、個展自体は十一月末には終わっている筈らしい――彼女が帰国した様子はなく。
そして、その日が来た。
その日もわたしは、シンさんの家にいた。
冬期休暇が始まる少し前のことだ。
休暇は目前だったけれど、わたしは勿論、実家に戻る気はなかった。そもそも高校を卒業してこっちに来て以来、わたしは一切、実家に帰っていない。
去年の年末年始は、ひとりで年越し蕎麦を食べひとりでお雑煮を食べ、二日にサークルの女の子達と初詣に行って、ずいぶんと幸せだった。誰にも感情を乱されることなく過ごせる休暇とはこんなにも素晴らしいものなのか、と改めてしみじみと噛みしめた。
今年は、シンさんといられるかな、と、ちょっと思う。
まあ勿論、それまでにレイコさんが帰ってきたら、さすがにお邪魔虫はできないので去年と同じになるだろうけど。それでも、松の内の間に一度くらい初詣につきあってもらったっていいだろう。
そんなことを思っていた、休暇の始めだった。
わたしはその日、家でつくったカレーを持って、シンさんの家に行った。
早めの夕飯を一緒に済ませて、シンさんは早速仕事にとりかかる。
何せクリスマス前なのもあって、今は相当の追込み時期らしい。シンさんのつくるアクセサリーはここ数年でずいぶん人気が出て、今は京都や大阪だけでなく、神戸や滋賀の方でも置いている店があるのだそうだ。
それを知って、わたしは講義やバイトの合間を縫って、ちょくちょく食事を差し入れることにした。
忙しい状況の邪魔をするのも何なので、最初は食事を置いたらさっさと帰ろうと思っていたけれど、シンさんはわたしがいようがいまいが集中に特に変わりはないどころか、どちらかといえば横にいてBGM代わりに歌っていたりしてほしいようで、わたしは時にはかなり夜遅くまでシンさんの家にいた。
その日もそんな夜で、わたしは仕事をするシンさんの横でお茶を飲みながら図書館で借りた本を読んでいて、その隣でシンさんも黙々と仕事を続けていた。脇では石油ストーブの上で、やかんがしゅんしゅんと静かに湯気を立てている。
――と、その時、外の方でゴロゴロゴロ、という、低い雷のような小さな音が聞こえた。
この辺りは大通りから何本か裏なのもあり、特に夜にはかなり静かで、その変わった音に、ん、と一瞬シンさんも顔を上げたが、またすぐに手元に目を戻す。
音が近づいてくる。
近づく程に、その音は耳障りなくらいに大きくなり――音の間に混じる、かつかつという靴音。
作業を再開しかけていたシンさんが、また、はっと弾かれたように顔を上げた。
その瞬間、
「ただいまあ!」
という高い声と同時に、ガラガラガラ、と勢いよく扉が開かれた。
わたしがあっけに取られていた時間が、どれくらいなのかはよく判らない。
それくらい、わたしは驚いていた。
片手で引き戸を開けて、片手でやたら大きな、鮮やかなブルーのスーツケースを引いて――ああ、あの音はキャスターの音だったのか――その人は玄関に立っていた。
真っ白いコートにモスグリーンのマフラーを巻いて、足元は茶革のブーツ。わずかに栗色がかった髪をざらっと胸の辺りまで伸ばして、落ちそうなくらいに大きな、丸い二重の瞳がこちらを見ていて。背が高く、百七十はありそうだが、体重は下手したらわたしとあまり変わらないんじゃないかと思う程細い。
……綺麗。
それがわたしの、第一印象だった。まつげの長い瞳がびっくりする程きらきらしている。
それに見惚れていると、シンさんが低い声で、「おう、お帰り」とぼそっと言って、わたしは我に返った。
見ると、シンさんはまるで何事もなかったみたいに再び作業に戻ってしまっている。
……いや、ちょっと待て?
事ここに及んで、わたしは今の状況にはたと気がついた。
今の「ただいま」「お帰り」のやりとりからも、どう見てもこの人が「レイコさん」、シンさんの「彼女」だ。
渡航中、連絡はおそらく向こうからの葉書二枚だけ、いつ帰ってくるかも知らなくて、そして多分、予告ない今日の帰国――で、夜も遅めの時間に久々に訪れた彼氏の家に、見も知らぬ若い女がひとり、て、それはかなりどうかしている場面なのでは?
そう思った瞬間、椅子から直立していた。
ぱたん、と本が床に落ちる。
シンさんと彼女が、驚いた顔で同時にこちらを見た。
「あ、あのっ、初めまして!」
腰から体を負って、九十度に頭を下げる。
「おい」
「篠崎千晴と申します。シンさん……森谷さんの、姪にあたります。よろしくお願い申し上げます!」
とにかく一刻も早く関係性を相手に理解させたくて一気に言うと、彼女がぷっくりした唇をOの字に開いた。
「……めい?」
彼女はきょとんとした声で繰り返すと、ちょっと困ったような顔になってシンさんの方を見た。
「えーと……姪って……何だっけ。イトコ?」
「いやそれは違う」
彼女の疑問を、即座にシンさんが否定して――え、いやそこ? まず疑問に思うところがなんでそこ?
わたしが呆気にとられていると、彼女は長い首をひねった。
「そうか。そうよね。ええと」
「イトコは自分の親の兄弟の子供。甥・姪は自分の兄弟の子供」
シンさんは慣れているのか、全く素のままで仕事続けながら簡潔に答えて。いや、しかし、だがしかし、これが数ヶ月ぶりで再会した恋人の交わす会話なのか!?
「そうか。そうよね。てことは……ええと」
「お前の妹さんが娘産んだらそれがお前の姪」
「ああ、成程!」
ぱあっと明るい顔になって、彼女はぽん、と手を叩いた。
「まあええからもう中入ってそこ閉めえや。寒うてかなんし」
「あ、ごめんごめん」
実に愛想のかけらもないシンさんの言いっぷりに、彼女は明るく笑ってスーツケースを中に引っぱり込んで扉を閉めた。
「……あれ、いや、ちょっと待ってよ……えええ、てことは、彼女佐和さんの娘さん!?」
よいしょ、とスーツケースを置きながら、彼女はすっとんきょうな声を上げる。あ、この人伯母さんのこと知ってるんだ。
「あれ、娘さんなんかいたっけ? そうだっけ?」
「ちゃう」
苦虫噛み潰したような声で、シンさんがぼそっと言った。相変わらず目線は、作業中のアクセサリーから上げない。
「佐和さんと俺の間にもうひとりいる。そいつ……、その人の、娘」
低い声に、胸がどきんと鳴る。
わたしは思わず、こつこつと鏨をふるっているシンさんを見た。
ああ、そうだ、忘れてた……こんな基本的な、こんな当然のことをまるですっかり忘れていた、わたしはシンさんの「姪」なのだから、それはつまり、シンさんにとってはおそらく苦い思い出しかないであろう、「兄」の娘なのだ。
かつてたった一度だけ会った時にあの人が一体シンさんに何を言ったのか、それを思うと目の前が暗くなった。
そいつ、と言いかけて「その人」と言い直したシンさんの心の中を思うと、さあっと胸の内が苦くなる。
わたしはどこまでいっても、シンさんにとっては「そいつ」の「娘」なのだ。
そのことが急に胸を悲しく、苦しくさせた。
「え、そうなの? それ、聞いてたっけ? まあいいか、てことは、ええと」
ほっそりした指を組み合わせて、彼女はしばし考え込んで。
「……佐和さんにとっても、姪。合ってる?」
「正解」
「よしよし、完璧に理解したわよ」
嬉しそうに手をこすりあわせると、彼女はすたすたとわたしの前に歩いてきた。
自分の思いにとらわれそうになっていたわたしは、はっとして顔を上げる。
彼女はわたしの足元の本を拾い上げると、ぱたぱた、と丁寧に埃を払って、両手で「はい」とこちらに差し出した。
「あ、ありがとうございます」
頭を下げて受け取ると、にっこりと笑いかけてきて。そうすると、目の下のぷっくりふくらんだ部分が更に強調されて、やたらとかわいい。
「わたし、カミヤマレイコ。神様の山の怜悧な子。ぴったりでしょ」
「姪の定義も忘れるような奴がよう言うわ」
ぼそっとシンさんが突っ込むと、彼女は眉間に皺を寄せるようにしてシンさんにべー、と舌を出した。
「こんな可愛い姪っ子をずっと隠してた男に言われたくないわ。なんで教えてくれなかったのよ?」
「いや別に隠してた訳やないけども……俺も、こっちおるって佐和さんに聞いたんつい最近やし」
シンさんはちょっと困ったような顔をして、手を止めてわたしを見た。お前適当にうまいことごまかせよ、という目をしている。
そんなこと要求されても……。
わたしも困って、ちょっと考えてみて――ずっと実家住まいだった間に、伯母がわたしに黙っていたのは、あの父親のせいだ。そして京都に移り住んだ後も、結局は家に帰るかもしれないわたしのことを慮って、今の今まで、黙っていた。
わたしが「そいつ」の娘だから。
そう思うと、また先刻の苦さが胸をよぎった。
「ふうん? なんで……って、まあ、そうだよね」
わたしが何も言い出せないでいるとレイコさんは勝手にうなずいて、シンさんの背後にまわった。
短く立ったシンさんの髪をつぶすように、後ろからぽんぼんと頭を叩く。
「こんな野獣みたいな男、大事な姪っ子にそうそう紹介したくないよね。どんな悪さに巻き込まれるか判ったもんじゃないもん」
「あのな」
じろり、と上目遣いにシンさんが彼女を睨み――ああ、でもなんか勝手に納得してくれたみたいだし、もういいよね、何にも説明しなくても。
わたしは急に安心して、ほっと息をついた。
「……ああ、でも、そうと判ってたらもっといろいろ買ってきたのにぃ」
レイコさんは急に哀れっぽい声を上げると床のスーツケースに小走りに近づいて、しゃがみこむとぱたん、とその場で開いた。
「もっとなんて言うか、女の子向けのお土産とか……あぁ、大失敗」
ぶつぶつ言いながら、せかせかと中に詰めているものをどんどん床にばらまいていく。コンクリート敷の土間は、無論、いつも土足で、仕事のせいもあって相当汚いのに、いいのか、それ?
「あ、でも、ほら見てこれ」
スーツケースの隅から、パステルグリーンのハンカチに包まれた何かを取り出すと、ハンカチを開いて中のものをことん、とテーブルの上に置く。
「ほら、自由の女神と温度計!」
と自慢げに言って出したそれは、台座の上に、高さ十センチくらいの銀メッキの自由の女神とその横に何故か意味もなく温度計、という、田舎の土産もの屋の奥の方に埃をかぶったまま何年も売れ残ってるような代物だった。
「え、これアメリカ土産……?」
思わず呟くと、レイコさんは大きくうなずいた。
「そうなのよ、アメリカ人もこういうのつくるんだ、この感覚って世界共通なんだ、って感動して買っちゃったんだけど、後で妹にメールしたら、『それは日本から誰かが持ち込んだ品じゃないか』って冷静に言われちゃって」
「へっ?」
「ノミの市みたいなとこで投げ売りされてたの」
「…………」
「でもこれでつい勢いついちゃって、いろいろ買っちゃったのよねー」
わたしが半分呆れている前で、レイコさんはスーツケースの中から次から次へと物を取り出す。
「ほらこれ、自由の女神ボールペンでしょ、自由の女神型マグカップでしょ、自由の女神型メモスタンドでしょ……あ、そうそう、極めつけがこれ、自由の女神型ソフトクリームスタンド!」
と言って、どん、と置かれたそれが、殆ど赤ん坊並のサイズだったので、わたしは面食らってのけぞった。
て、スーツケースの中、ほぼ八割が「自由の女神グッズ」ではないか……数ヶ月の旅行帰りの鞄か、これが……。
「お前それ全部持って帰れや。置いてくなよ、絶対」
半分うんざり、って顔で片眉上げて、シンさんが冷たく言い放つ。
「えー……ボールペンくらい、使ってみない?」
「持ち帰れ」
「気に入ってるんだけどなー」
シンさんの冷たい言葉を気にもせず、レイコさんはボールペンを手に取って眺めた。
「もう、ひとつ買ったらはずみがついちゃって。どこ行ってもとりあえずまず自由の女神グッズ探すところからスタートしちゃうのよね。まわりのスタッフさんにもレイコは余程自由の女神が好きなんだね、とか言われて、どこそこでこんなグッズがあった、とか教えてくれるもんだからまた数が増えて」
「その後先考えん癖、ほんま何とかせえよ……」
さすがにそれ以上作業を続ける気がなくなったのか、シンさんは鏨を手放し立ち上がった。
「それ邪魔や。しまっとけえよ」
レイコさんに一言言い捨てると、台所の流しでざっと手を洗って、いつものコーヒーメーカーに豆をセットし始める。
「店に置いたら売れるかな?」
小さく呟きながら広げに広げたグッズの山をせっせとしまいこむレイコさんの姿が何だか可笑しくて、わたしはくすんと笑った。何と言うかこう、初対面なのに全然相手を緊張させないひとだ。その辺は田上沢さんとちょっと似ていて、成程、シンさんとうまいことやっていける訳だと思う。
「おかしいな、しまらない……」
適当にほいほいと突っ込んだスーツケースの蓋がしまらなくなっているレイコさんに、わたしは笑いをこらえつつ蓋を押さえるのを手伝った。
「あ、ありがとう」
ちらっと歯を覗かせてこちらを見て笑ったレイコさんの表情には、本当に翳りというものが一切なく、見ているだけでこちらまで嬉しくなるような笑顔で、それにしてもこんな素敵なひとが何故よりにもよってシンさんを、とつい思う。
「……ん」
と、スペースの空いたテーブルの上に、シンさんが小さく喉の奥で愛想の無い声を出して、ことん、とカップを置いた。
「あ」
小さく声が出てしまい――あの、青いマグカップ。
「ああ、ありがとう」
レイコさんは目の端に皺を寄せるようにして心底嬉しそうに微笑み、その辺の椅子を引き寄せて座ると、両の手でカップを包み込むように持って鼻先に近づけた。
シンさんは自分のクリーム色のカップを持って、窓辺の作業机の前の椅子に座る。
「ああ、これこれ……このコーヒーがずうっと飲みたかったの」
ひと口すすって、うっとりと目を細めてレイコさんが言った。
「嬉しいなぁ……夢にまで見たわ、リュウのコーヒー」
細い指先をカップの縁にあてて、そっとなぞる姿と、そのやわらかな歌うような声。
そこに何だか、えも言われぬような甘い空気が広がるようで、わたしは胸がきゅうっとなった。
ああ……すごく好きなんだな、彼女、シンさんのこと。ずうっと、逢いたかったんだな。
「さよか」
けれど、そんなレイコさんとは対照的に、シンさんは実にそっけなく顔をそむけ気味に答えて、ずずっとコーヒーをすする。
ああ、でもこれ、照れてんだよな、シンさん。ほんとは、嬉しんだよな。
そう微笑ましく思った瞬間、急に自分がとんでもない邪魔者に思えてきて、わたしは慌てて立ち上がった。
「?」
「あ、あの、わたし、もう遅いし、帰ります」
不思議そうにこちらを見上げたレイコさんにそう言うと、ますます怪訝そうに大きな目を見張って首を傾げる。
「え、どうして? せっかくコーヒー入ったのに、飲んでいったら?」
「いえ、あの」
「ああ、こいつコーヒーあかんねん」
急いで断ろうとしたのに、シンさんが何を勘違いしたのか、そう言って立ち上がって奥へと歩いていってしまう。
「お湯まだあんで。ほら」
「いやっ、もうほんとに、帰るし、いいよ」
「なんで」
台所に置いたままのやかんを手に取って、シンさんはほんとに判ってない顔で不思議そうに振り返った。
「いや、だって……」
口ごもるとシンさんは一瞬不審そうに首をひねった後、あ、という感じに細い目を軽く開くと、小さく息をつき、不機嫌そうな声で、
「茶ぁくらい飲んで帰れ。外寒いで」
と言った。
……ああ、バレたなぁ。
わたしは何とも言えない気分になって、すとん、と腰を下ろした。これ後で絶対、「子供がいらん気まわすな」って怒られる。
「え、それ、佐和さんの送ってきたお茶?」
そんなシンさんには全く気づかない様子で、棚から出してきたティーバッグの袋にレイコさんが明るい声を上げる。
「あ、はい」
「わたしも前にもらったことある。おいしいよね、それ」
「……はい」
にこにことしたレイコさんの顔を見ていたら、気をまわしている自分の方が変に思えてきて、わたしは肩の力を抜いてシンさんから袋とやかんを受け取った。
とうに空になっていた自分のカップにティーバッグを入れると、やかんのお湯を注ぐ。
ふと気づくと、レイコさんがまじまじとわたしのカップを見ていた。
「どうか?」
聞くと、はっと目を上げて「ううん」と首を振って笑いかけてくる。
「前にもらったの、もうとっくに飲み切っちゃったから、ここにあるなら今度わたしも分けてもらおう」
それから続けるようにそう言った。
「ああ、じゃあ、まだうちに飲んでない分あるし、また持ってきますね」
「わあ、嬉しい!」
子供のように手を叩くレイコさんの笑顔が、眩しく目の裏に残った。
結局その後、帰宅するわたしをシンさんが送ると言い、それを断るとレイコさんが自分も一緒に送ると言い出して、三人で帰路に着くこととなった。
アパートの前でレイコさんが目をまん丸にして、「え、ほんっとに、近いのねえ。今まで黙ってたなんて、佐和さんもけちだなぁ」と言ったのに、わたしはあいまいに笑ってごまかした。
大きく手を振って、シンさんと連れ立って帰っていくレイコさんの背中を見送ると、我知らずため息がもれる。
玄関を開けると、しんしんと冷えた階段を一段一段、踏みしめるようにして上がった。
部屋に入ると、何となく電気をつける気になれずに真っ暗な中ハロゲンヒーターのスイッチだけを入れて。
オレンジ色のぼんやりした光の中で押し入れから布団を引っ張り出して、こたつを隅に寄せ敷いてしまう。もう、今日はお風呂はいいや。
歯を磨きながら、湯たんぽに入れる為にやかんでお湯をわかした。
しゅーっ、と静かな音を立てて燃える青いガスの炎の光を見るともなしに眺める。
……ああ、当分行けないな、シンさんち。
かしゃかしゃと歯を磨きながら、ぼんやりそう思った。
多分シンさんは、それこそ「あほか」と一蹴して怒るだろうけど、でも、わたし、邪魔したくないんだよな、やっぱり。
程々にあたたまってきたお湯を、歯ブラシくわえたまま湯たんぽの中に移す。
残ったお湯でうがいをすると、カバーをかけた湯たんぽを布団の中に押し込んだ。
手元をぼうっと、ヒーターの光が照らしている。
そのオレンジの光のあたたかみが今日見た二人の姿を思い起こさせて、胸の中がやわらかくゆるむような心地がした。
やっぱり……行けないよな。あの間に割り込みたくないもの。
何せ通常の状態ならまだしも、数ヶ月ぶりに再会した恋人同士なのだから。そこにしばしば顔出したりしたら、レイコさんにも何この子、と思われるだろうし、シンさんにもうっとうしがられるだろう。
少しずつ体があたたまってきたので、すぽんとセーターを脱いで、パジャマに着替えて。
……いや、でも……頭では、ほんとは判ってる。
脱いだ服を洗濯カゴに放り込むと、わたしは布団の中に潜り込んだ。
足元の位置に押し込んだ湯たんぽが、あたたかい。
シンさんはきっと、そんなことではわたしを嫌わない。
それがはっきり判っていて、それでもやっぱり、わたしは怖いのだ。
電話と同じ。
自分があれこれ気をもんで考える程、向こうは自分の存在を不満にも不快にも思わないだろう、それは頭でははっきり判っているのに……それでもどうしても、怖いのだ。
ひとに少しでも負担をかける、それでその相手に自分が嫌われたりうっとうしがられるかもしれないと思う、それがわたしは心底怖い。そんなことをしたらきっと相手は自分から離れていくだろう、そう思う。
一体、いつからだろう。
いつから自分は、そんな風に考えるようになった?
わたしは仰向けになって、額に手の甲をあて天井を見つめた。
――思えば母は、ずっと昔から、「あなたの為よ」という言葉が口癖だった。
男を取って父と伯母を捨てた祖母、そういう人を母親に持ち、そのことを子供の自分にまでまだ幼い頃から「女なんか信用できない」と言いながら、自分は外に女を切らしたことがないのがわたしの父という人だった。
どう考えたって矛盾していると思ったし、小さい頃は祖母への評価をただ言われるがままに聞いてもいたけれど、中学生くらいの頃に勇を奮って一度尋ねてみたことがある。よその男と逃げた祖母をそしるなら、何故自分は外に女をつくるのか、と。
その時のあの人の答えは今思っても凄かった。
本当は自分はそんなことをしたくはないのだ、と。
本当なら自分は真っ当な家庭人としてありたいと思っている、けれども今のこの家には安らぎがない。この家庭は家庭としての機能を自分に対して果たしていない。だから自分は、どうしても外に「疑似家庭」としての息抜きを求めずにはいられないのだ。それは不可抗力であり、自分の責任ではない。
じゃあ別れればいいのに、そう思わず言うと、相手は心底不思議そうな顔で「おかしいのは自分ではなくて母さんの方だ、母さんがそれを直して自分に合わせるべきであって、自分側がどうこうすることではない。自分は自分を捨てた母親とは違い、家長という自身の責任を放棄する気は全く無いし、十二分にそれを実行している。だから、母さんも妻としての責任を自分に果たすべきである」というようなことを答えた。
その時にはもう呆れるを通り越して怖くなってしまい、それ以上のことを突っ込む気にもなれずに会話を切り上げ、以後二度とあの人とまともな言葉を交わすことはなかったのだが――後になって思い至った、あの人が望む「家庭」とは、いわば「モデルルームのCMに出てくるような家族」だったのだ。
家の中にはチリや埃のひとつなく、台所道具はすべて新品のようにぴかぴか明るく輝いていて、まっさらのエプロンをつけていつも完璧にメイクされた笑顔で家のすべてをこなす妻。口答えなど勿論せず、学校では文武共に好成績を取り、委員長を進んで引き受け、問題のひとつ起こすことなく家事を手伝い親を大事にする子供。
わたしも母も、そんな妻子にはなれなかった。
わたしは好きな科目とそうでない科目とでかなり成績に差があったし、小学生の頃は気にいらないことがあれば男の子ととっくみあいの喧嘩だってした。本が好きなこともあって我ながらかなりませた子供で、大人に対して生意気な口をきくことも多かった。部屋は放っておけばすぐ散らかった。
母親の方はある意味わたしより悲惨だった。
何しろ「生活臭」というレベルすらあの人は受け入れないのだったが、普通に子供があって暮らしていて、そんなことって不可能なのだ。朝使ったタオルが夕方まで椅子の背にかかっている、それをもって「理想の家庭ではない」と言われた日には。
けれど母は言った、「あなたの為に我慢しているのよ」と。
あの人は確かに横暴だし人のこころというものが無い、けれどもあなたがいるから自分は離婚できないのだと。
ずっとそう言われ続けてきた。
だからわたしは、そういうものなのだと思い続けてきた。
高二の夏の、あの日まで。
――ひどく嫌なことを思い出しそうになって、わたしはため息をついて寝返りを打った。
普段は、滅多に考えないようにしているのに。
ひとり暮らしを始めるようになって、わたしは生きるのが本当に楽になった。この家の中には、わたしのこころを鋭いくちばしでついばむような人間はもう誰もいない。わたしはひとりになって、本当に充分にこころを伸ばして息ができるようになったのだ。
ひとりになって、様々なものから楽になったその感覚は本当に驚異的だった。頭で「ひとりはいいだろうな」と想像していた、そんなものを遥かに凌駕していて、わたしはつくづくと、誰にもこころを蝕まれない安らぎというものがどんなに人に幸福をもたらすのかを知ったのだ。
楽になるのと同時に、ああ、もうあんなものは捨てていいんだ、と思うようになった。
あれ等はもう、全部後ろに置いてきたもの。自分は二度とそこに戻る気はない。自分はもう、あんなもの達から自由だ。
そうやっていつもいつも考えないようにしてきた。もうあれは皆、わたしとは無関係なことだと、そう。
なのにこうして、時に思い出してしまう。
「そいつ」と言いかけたシンさんの一瞬の表情が、目の裏をよぎった。
あんなものは、皆無関係だと、そう思いたいのに……けれど否応無しに、「そいつ」はわたしの父なのだ。
ヒーターの光に手首を透かすと、血管が浮いて見える。
否応無しに、わたしと「そいつ」とは血が繋がっているのだ。
……やっぱり、当分シンさんのところには行けそうもない。
わたしは手を伸ばしてヒーターのスイッチを切ると、頭から布団をかぶって、暗闇の中で固く目を閉じた。




