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第二章(後)・冬の夜

 

 作業が再開した段階でもう帰ってもいいかと思ったのだが、田上沢さんがしきりにひきとめるのと、シンさんが別にわたしがいても構わなそうだったので、何となく隅にいて、ずっと作業を見守っていた。

 その合間にちらちらと田上沢さんが説明してくれたのだが、これは田上沢さんの生徒さんの特別講義で、今日は初日なのだそうだ。

「普通ならせいぜいが引き渡した時点で教師なんか引き上げるんだけど、ほら、何せ相手がアレだから、ね」

 作業を教えているシンさんに聞こえないように小さく言うと、ウインクしてみせる。

「もう今まで何人、初日で逃げ帰ってきたことか……」

 田上沢さんの嘆き節に、先刻の切れっぷりを思い出して、さもありなん、という思いがした。これに昔は手までついてきたんじゃなおさらだ。

「じゃどうして、シンさんに?」

 聞くと、何当たり前のことを、とでも言いたげに片眉を上げ、くい、と親指でシンさんの方を指す。

「だってあいつ、腕いいもん。仕事も、教えんのも」

 ……確かに。

 わたしは相変わらず乱暴な口調で学生さんに指導しているシンさんを見た。全くの門外漢であるわたしに、あれだけ様々なことを簡潔に頭に入りやすいように教えられるのだから、ああ見えてシンさんの教育力というのはかなりのものに違いない。……切れさえしなければ、だけど。

「だからほんとはさあ、俺なんかより、あいつが学校残れば良かったんだよなぁ。別に、野々宮先生みたいに、自分の工房があったって教師やってる先生なんか、ウチではざらなんだしさ」

 田上沢さんは顎髭をなでながらそう言ってシンさんを見やった。

「まあでも、あいつ組織の中なんかには到底いられない性格だからなぁ」

 ……それも、確かに。

 思わず深くうなずいてしまうと、説明の区切りにテーブルの端に置かれた大きな二リットルのペットボトルのお茶に手を伸ばしたシンさんが、じろりとこっちを見た。

「そこ、何いらん話してんねん。離れろ、こら」

 立ち上がりながら田上沢さんに向かって指をつきつけると、ボトルを持ってカラーボックスの方へ行き、いつものカップを取り出して注ぐ。

「はいはい。……あぁ、おっかな」

 軽い口調で言うと田上沢さんは立ち上がって、ちらりとわたしに向かって舌を出してみせてから学生さんの方に歩み寄る。

「おう、大分進んだなぁ。うん、悪くないよ、これ」

「あほ、どこがや。甘やかすな、田上沢」

 笑顔の田上沢さんと、その後ろから顔を出して相も変わらずきついことを言うシンさんを交互に見て、わたしはこっそり、笑みを浮かべた。何と言うか、実にいいコンビだ。

 先刻はあんなにきつい目でシンさんを睨んでいた笹川さんも、今はすっかり素直にシンさんの指示を聞いている。

 わたしは何だか嬉しくなって、その光景を眺め続けた。



 夕方になって生徒さん達が帰っていったが、田上沢さんは帰らずに工房に残っていた。

「あー、お疲れさん」

 ぐぐっと背中を伸ばして、腰に手を当て、シンさんの方を見る。

「さて、飯行こうか」

「ああ」

 シンさんは軽くうなずき、上着を取りにか家の方に姿を消した。

「あ、じゃあわたし、これで」

 小さく頭を下げると、田上沢さんが「えっ?」と声を上げてわたしを見下ろして、

「何言ってんの。一緒に行こうよ」

 と、まるで当たり前のように言った。

「ええっ? え、いや、わたしは」

 わたしはびっくりして手を胸の前で振ってしまう。いや、いくら何でもそこまで図々しくついていく気は。

「え、だって、その為に引き止めたのにさぁ。なあ森谷」

 田上沢さんの声に目をやると、ジージャンを羽織ったシンさんが引き戸から降りてきていた。

「ああ、こいつと二人で飯なんか食うても美味ない。来い」

「全くほんっとに、素直じゃないよなぁ、森谷は」

 シンさんのきつい言葉も全く意に介さず、田上沢さんは笑ってわたしを見た。

「こいつには礼兼ねて俺が奢るし、千晴ちゃんはこいつに奢ってもらやいいんだよ。五日間だけだけど、結構な謝礼出すんだよ、うちんとこ」

「お前、ひとの姪っ子何馴れ馴れしく呼んでんねんコラ」

「ええ? だってシノザキさんって呼ぶのおかしくない?」

「おかしないわ。それが名字じゃ」

「ええー、だってさぁ」

「あ、あの、わたしは別にどう呼ばれても、気にしないので」

 放っておくと二人だけでどんどん話が進んでいくので、わたしは急いで口をはさんだ。

「ほら見ろ、本人がいいって言ってんだから。さあ行くよ行くよ、千晴ちゃん」

 言いながら田上沢さんは両手でわたしの背中をぐいぐいと押して、外へ連れ出した。

「コラお前、気軽に触るな!」

 その後ろから、シンさんが全く手加減なく、パン、と田上沢さんの頭をはたく。

 ああもう何て言うか、逆らえない、このノリ。

 わたしは諦めて、うながされるまま歩き出した。



 シンさんの家から程近い、わたしの就職先のホテルの向かいの小さな居酒屋に入ってテーブルに腰を下ろすと、田上沢さんがわたしの隣に座ろうとしてまたシンさんに頭をはたかれた。

「お前はこっちじゃ、あほ」

 向かいの奥の席にぐいぐいと押し込むと、塞ぐように自分が横に腰を下ろしてしまう。

「何だよもう、ほんとけちくさいなあ」

「けちとかそういう問題ちゃうわ。お前ほんま、こいつにいらんちょっかい出してみろ、バーナーで焼いたんぞ」

「ああこわ」

 肩をすくめてちら、と舌を出すと、田上沢さんはわたしに笑ってみせて。

 何と言うか、ここまできついこと言っててもちっとも場が荒れて見えないのは、ひとえに田上沢さんのこの性格と、シンさんがなんだかんだ言って田上沢さんのことを好きで信頼しているのがほの見えるからなんだろう。何だか見ていてなごむ。

「……あ、まずい」

 メニューを開いた田上沢さんの横で、シンさんが小さく言って、舌を鳴らした。

「ん?」

「今日何日やったっけ」

「二日」

「ああ、しもた」

 口の中で呟くと、シンさんは立ち上がって片手を出した。

「ガミ、携帯貸して」

「ん? ああ」

 理由も聞かずにあっさり差し出された携帯を受け取ると、シンさんはそれをわたしに振ってみせる。

「来週の納品の打ち合わせの連絡せんなんの忘れてた。ちょっと、かけてくるわ」

「おう、そのまま一時間は戻ってくんな」

「お前は! ここから一ミリたりとも動くなよ、ええな!」

 陽気に手を振る田上沢さんに、ぐい、と顔をつきつけると、シンさんは背を伸ばしてわたしを見た。

「お前も、この男が妙な動きしたらすぐ逃げろや。ええな」

 ……ここは、「はい」と言うべき場面なのか?

 わたしが悩んでいると、田上沢さんが軽く頬をふくらませた。

「人聞き悪いぜ森谷。俺は女性を口説くんなら、もっとムーディーな店に連れていく。今日はとりあえず、その足がかりってとこだ」

「だ・か・ら」

 シンさんは握った拳をぐりぐりと田上沢さんの脳天に押しつけると、こっちに指を振ってみせて。

「ほんま、なんかされたらすぐ大声出せよ。……あ、それから、飲ますなよ、ガミ」

「えっ?」

「こいつ未成年やから」

 親指でわたしを指すのに、つい口が開いてしまった。……だって。

「ええ、だって、二回で今十九ってことは、もうすぐ二十歳だよね?」

 確認を求めるようにこっちを見る田上沢さんに、わたしはうなずく。

「なら」

「あーかーんー言うてるやろコラ。お前教師やろが」

「いやここ学校じゃないし、千晴ちゃん俺の生徒じゃないし」

「だからその呼び方やめえや。とにかくあかん、ええな」

 シンさんはびしっと決めつけると、わたしの方を見た。

「お前ももし勧められても飲むなよ、ええな」

「……はあ」

 我ながら気の抜けた声しか出なかったが、シンさんはそれで満足したのか、ひとつうなずいて「すぐ戻る」と一言言うと店を出ていった。

 自分はこないだ、思いきりひとに飲まそうとしといて……何だあれは、矛盾って言葉がこんなに具体的なかたちになってるとこ初めて見たぞ。

「……くくっ」

 シンさんの態度に呆れ返っていたわたしは、田上沢さんの押し殺した笑い声にふと我に返った。

 見ると、テーブルに突っ伏すようにして田上沢さんが笑っている。

 その姿に、何だかわたしの唇からも、くすんと笑いが漏れた。

「全くあいつときたらほんとにもう……」

 くつくつと喉の奥で笑いながら、田上沢さんが顔を上げる。

「あんな過保護とは知らなかった。全く、あんなんがいたんじゃ、せっかくひとり暮らししてんのにもう一人父親がいるようなもんだよね、千晴ちゃんも」

 その言葉に、とんと胸を突かれるような思いがした。

 違う。

 わたしには確かに「父」はいるけど、でもあんな男は「父親」じゃない。

「千晴ちゃん?」

 黙ってしまったわたしに、田上沢さんは怪訝そうにこちらを見た。

 わたしは何とか、声を乱さないように息を吸い込む。

「……シンさんみたいな父親は、わたしにはいないです」

 やっとそれだけ言うと、田上沢さんが一瞬真顔になった。

「……そう」

 優しい顔で短くうなずくと、片手を上げて店員さんを呼び、あれこれと注文を始める。

 その間に、小さく深呼吸して自分の胸の内を整えた。

 わたしにとって、「両親」が「家族」であったことはない。

 世の父親というのは、皆先刻のシンさんのように、あれこれ娘の身辺に気をもむのだろうか。

 そんな「父親」を、わたしは知らない。

「じゃあ千晴ちゃん、何飲む?」

 自分の思考の内に沈み込みそうになっていたわたしを、田上沢さんの声が引き上げた。

 はっとなって見ると、相変わらず優しい目をして、メニューを差し出しながら田上沢さんがこちらを覗き込んでいる。

「あ、ええと……えっと、あの、じゃ、ウーロン茶」

 ざっとメニューに目を走らせて言うと、うなずいて店員さんにそれを伝えて。

「……すみません」

 店員さんが去っていって、小さく頭を下げると田上沢さんは歯を見せて笑った。

「まああんだけ言われたら飲ませられないよなぁ。首締められかねんよ、あいつに」

 思考が明後日にいってしまっていたことに頭を下げたのをきっと判っていることだろうに、わざと話を変えてそう言ってくれる田上沢さんに、わたしはもう一度頭を下げた。シンさんとあれだけうまくやっていけるだけあって、このひとはぱっと見の印象よりかなり繊細なひとなんだと感じる。

「でも俺、そんな女性に軽いオトコじゃないんだけどなぁ。あいつの言うこと、うのみにしないでよ、千晴ちゃん」

「あ、はい、勿論」

「俺が教師になった時もひどかったんだぜ、あいつ。ガミが教えたら女生徒が全員妊娠するって」

「……あの、ガミって」

 先刻から気になっていたことを聞くと、田上沢さんが眉を上げた。

「ああ、俺。タガミサワだから、ガミ」

 ああ、やっぱりそうなのか。

「あいつ癖みたいでさ。かなり親しくなると、相手の名前や名字の一部分だけで呼ぶんだよね。さすがに生徒の前では言わんけど」

「へえ……」

 うなずいているわたしに、田上沢さんが興味深げに身を乗り出した。

「そういえば、あいつのこと、あいつがそう呼べって?」

「え?」

「あいつのこと。シンさん、って」

「あ、はい」

 うなずくと、田上沢さんが何とも言えないやわらかな笑みを浮かべて、大きく椅子の背もたれに寄りかかった。

「そっかぁ……」

 どことなく嬉しそうに言うと、手で顎髭をなぜる。

「君が二人目だ」

「えっ?」

「野々宮先生に続いて、君が二人目。あいつのこと、『シン』て呼ぶの」

 意外なことを言われて、わたしは息を呑んだ。

「野々宮先生がずっとそう呼んでたから、他の学生や先生もそう呼ぼうとした奴がいたんだよね。でもあいつ、断固として他の誰にも、そうは呼ばせなくてさ」

 そう言うと、何が可笑しいのか、田上沢さんはくすくすと笑いを漏らした。

「もうからかって下手に呼んだ奴なんか、その場で殴られてたもん。貴様ごときがその呼び方を俺に使うな、て……俺をそう呼んでいいのはこの世でノノ先生だけや、て」

 わたしは急に胸が一杯になった。

 ――シン、でええよ。

 いつかの夕闇の中から聞こえてきた声が、すぐ耳元で甦る。

 この世でセンセイだけ。

 センセイと……わたしだけ。

 ――シンさん。

 何故だかふと、ここにいないシンさんのことが、ひどく懐かしいひとのように思われた。ずっとずっと昔から知っていたひとのように。

「レイコちゃんにさえ、そうは呼ばせなかったから。君は余程、あいつの気に入りなんだね」

 柔らかな笑みを浮かべてこちらを見る田上沢さんに、そういえば、とわたしは気になっていたことを聞いてみた。

「あの、レイコさんってどんなひとなんですか?」

「んー……」

 田上沢さんが顎に手を当てて考えていると、店員さんがやってきて目の前に飲み物と突き出しが置かれた。ささみと青菜をごまだれであえてある。

「あ、まあとりあえず、お近づきの印に乾杯」

 ひょい、とビールのジョッキを上げてみせるのに、わたしは慌てて自分のウーロン茶のグラスを持ち上げ、かちん、と縁をあわせた。

「……っ、そうだなぁ、もう突き抜けるくらいに明るい」

 一気にジョッキの三分の二をあおると、田上沢さんはふう、と息をついてそう言った。

「はあ」

 この田上沢さんに「明るい」と言わせるんだからそれは相当だろう、そう思っていると、相手は何かを思い出したかのようにくすっと笑った。

「前に森谷がレイコちゃんを評していわく、『あいつはすっからかんや』って」

「すっからかん?」

 およそ人間に対する評価とは思えない単語に、わたしは目を丸くする。

「ん。『あいつの頭ん中はすっからかんや、だからあんな明るいんや』ってさ」

 ぐい、と二口でビールを飲み干すと、横を通りがかった店員さんに二杯目を注文して。ピッチが早い、なぁ。

「言うにことかいて、『きっと神さんが、生まれてくる前にあいつの頭のネジ十本くらい締め忘れたんやろ』って。ひどいだろ」

 くつくつと笑って言う田上沢さんを、わたしはつい真面目に見返してしまった。

「いえ、あの……多分それ、褒めてます」

「えっ?」

 すぐに運ばれてきたビールのジョッキに手を伸ばしかけてその動きを止め、田上沢さんがこっちを見た。

「それ、褒め言葉です。シンさん、それものすごい褒めてます」

 通常どう考えても「褒めてる」とは言えない、むしろ聞く人によってはけなしてるとしか思えない表現だったけれど、わたしには、判った。

 この田上沢さんが「明るい」と評するレイコさん、おそらくそれは本当に、シンさんといい対を成す組み合わせで――きっとシンさんは、その明るさ故にレイコさんという相手を選んだのだ。自分には無い、その眩しさの為に。

 わたしには、それが判る。

「……うん」

 田上沢さんが真面目な、けれど温かいまなざしでわたしを正面から見た。

「さすがだ、これ聞いただけで判るんだね千晴ちゃんは。うん、ほんと、大したもんだ。あいつがああ呼ばせる訳だ」

 わたしは唇をわすかに開いて、田上沢さんを見返した。ああ、そうか……そうか、判ってるんだ、このひとも。それがシンさんなりの最大級の褒め言葉だってことを。

「俺さ、森谷と十年近くつきあってるけど、あいつがあんなに笑う声、初めて聞いたよ。驚いた」

「えっ?」

「今日、あいつんちでさ。そもそもぶち切れてる状態のあいつにほいほい近寄れるのなんかレイコちゃんくらいだったし、レイコちゃんでさえあそこまであいつを笑わせたことはないんじゃないかな。ほんと、すごいよ君は」

 わたしはびっくりしてぽかんと口を開けた。だって、確かに今日は今まででもかなり笑われ度が高かったが、普段からとにかく、何かにつけてシンさんはひとのことを笑うのだから。

 まあそれが莫迦にして笑っている訳ではないのは判っているので、わたしも別段、不快に感じることはなかったが、それにしたって、あの笑い上戸は相当なもんだと思っていたのに。

「レイコちゃんはどっちかってと、笑わせるってより、呆れさせんだよね。ものすごい脳の天気っぷりで。それであいつ、切れててももうそんなことがどうでもよくなるみたいで。『あいつ見てたら真面目にもの考えてる自分があほらしなってくるわ』って」

「わたし、しょっちゅうシンさんに笑われてますけど……」

 そう言うと、田上沢さんの眉が笑うように下がった。

「きっとあいつ、ほんとに君が可愛いんだよ。見てたら判るよ」

「な……」

 また意外なことを言われて、勝手に頬に血がのぼった。

「そっ……そんな訳、ないですよっ」

 慌てて否定したが、我ながら声がうわずっている。

「え、どうして?」

「いや、だって」

 必死で言いかけた次の瞬間、後ろから頭にコン、と何かが当たった。

「あ」

 シンさん。

 その姿に、また頬の熱が上がる。

「ごめん、ながなったわ」

 シンさんはわたしの頭に当てた携帯を、ぬっと田上沢さんに向けて差し出すと、くるっとテーブルの脇をまわって田上沢さんの隣に座り――どうやらこの様子では、今の会話は聞かれてないみたいだ、良かった――そしておもむろに目を上げてわたしの方を見ると、ん? と眉根に皺が寄った。

「――ガミ、お前飲ましたやろ!」

 と、言うが早いが、すぱん、と手が飛んで田上沢さんの後頭部をはたく。

「いてっ」

「えっ……」

 わたしは頬の熱さも一瞬忘れて口を開き――あ、ああ、もしかしてわたしの顔が赤いのを、酒のせいだと思ってるのか、シンさん?

「お前あんだけ言うたやろうが!」

「あ、あの、待ってシンさん、違う」

 再度田上沢さんをはたこうとするシンさんを、手を振って慌てて止めた。

「飲んでない。飲んでないよ、わたし」

「ええ?」

「森谷お前なあ……人の話聞く前に手出る癖直せよほんとに。千晴ちゃんの言う通り。飲ませてないって」

「そしたらなんで、こいつこんな顔赤いねん」

 シンさんの言葉に、ぐっと声が詰まった。

「それは……」

 田上沢さんがちらりと目線だけこちらに向け――ああ、お願い田上沢さん、先刻のあれは黙っててほしい。

 祈るような気持ちでその目をじっと見返すと、通じたのかどうなのか、田上沢さんが視線をシンさんの方に向けた。

 そして何か言おうとして口を開いた瞬間、シンさんがぐい、と田上沢さんの肩口をつかんで。

「まさかお前、こんな子供相手にいつものノリでおかしなこと言うたんちゃうやろな?」

 ――ああ、今度はそっちにいったのか、シンさん。

 何と言うか、もう目も当てられないような気分になって、ああもういいや、もう正直に言っちゃって田上沢さん、と半分ヤケ気味に思った瞬間、

「おかしなことなんかひとつも言ってないよ。ただ、千晴ちゃんは可愛いなあ、彼女にするなら君みたいな子がいいな、って言っただけで」

 と田上沢さんが言って、わたしはえ、と顔を上げた。

「言うてるやないかい!」

 またすぱん、とシンさんの手がヒットして。

「痛いなもう……ほんとのことなんだから、全然おかしくないだろ」

「だからお前はどこまで無節操やねん! ええ大人が子供相手にすな!」

 わたしは声も出せずに、田上沢さんを見つめた。何て言うか、ほんとにこのひと、すごくいいひとだ。まさに教師になるべくしてなったような。

「子供だから可愛いんだよ。ねえ」

 田上沢さんはいたずらっぽく言うと、わたしに軽くウインクして見せた。

 その唇が小さく動く。

 ――ひ・み・つ。

 そう読み取れて、わたしの胸はじん、と熱くなった。

「お前はほんまにもう……決めた。今日の飲み代、全額お前出せ」

「え? ええ、なんで?」

「こいつの同席代や。金でも徴収しとかな懲りんやろお前は」

「え、いや、あの、わたし自分の分は自分で」

 急いで言ったが、シンさんはまるっきり聞いちゃいない。

「そうと決まったら飲むからな、今日は。……すみません、ビール!」

 ああもう、シンさんてば……。

 心底申し訳ない気持ちになりながら田上沢さんの方を見ると、田上沢さんはまた、「気にしない」と小さく唇を動かして、もう一度ウインクしてくれた。



 言葉通り相当量飲んで――それにしても二人ともザルだ――店を出た時には、すっかり夜も更けていた。

「そしたら、また明日もよろしく」

「おう。ほなな」

 実にあっさり、言葉少なに別れを交わしたと思うと、二人がそれぞれ逆方向に歩き出したのでわたしは慌てた。

 わたしの家の方向に歩き出しているシンさんを見て、駅の方に歩き出した田上沢さんの背中を見て、瞬時に心を決める。

「……え、おい?」

 シンさんの声を後ろに聞きながら、わたしは田上沢さんを追って走った。

「あの、田上沢さん!」

 相手が驚いた顔で振り返る。

 わたしはその正面に立って、深々と頭を下げた。

「あの、今日はごちそうさまでした。あの、それからいろいろ、すみませんでした。今日のご飯代、その内お返しします」

 言い切って頭を上げると、田上沢さんが苦笑して手を振る。

「いいって、そんな。どうせ次にあいつと飲む時は、あいつが全額出すんだから」

「え?」

「俺等大抵そんなん。だから、気にしない」

「でも」

 口ごもっていると、後ろからシンさんの声がした。

「コラおいてくぞ、早よ戻ってこい!」

「ほら、お呼びだよ」

 くすっと笑って、田上沢さんが指でシンさんの方を指す。

「ほんとに、ありがとうございました。おやすみなさい」

 もう一度ぺこりと頭を下げて、背を向けて走り出すと、後ろから「おやすみ」と声が追いかけてきた。



「何しとんねんお前、ほんまに」

 追いつくと、シンさんはかなり不機嫌そうに言って、すたすたと大股に歩き出す。

「ええか、あいつはほんま、女には見境ないねんからな。お前みたいな子供、手玉に取るくらい朝飯前やねんぞ。もう少し気ぃつけえ」

「別に、そんなんじゃ……ご飯代のお礼言ってなかったから」

「あれくらい払わして当然じゃ。……ああもうほんま、なんで女は皆あいつに簡単にひっかかんのかなー。学生ん時から女切らしたん見たことないわ、あいつ」

「そんなに、すごかったの?」

 まあでも確かに、今のあの気遣いが若い頃からの天性のものだったら、それはさぞかしモテたと思う。女の子きっと楽だもの、あんなひとといたら。

「ああ。そやし相手は変わっても基本はずっと彼女がいる状態やのに、それでもまだあちこちから女寄ってくんねんで。あれ女の方もどうかしてるわ」

 彼女、という単語に、わたしははたと例の名前を思い出した。

「……レイコさん」

 思い出したままその名を口にすると、シンさんがぎょっとしたようにこっちを見た。

「なに?」

「レイコさん。シンさん、彼女いたんじゃない。なんで教えてくれなかったの」

「ガミめ……」

 眉間を親指と人差し指でつまんで、シンさんがぼそりと呟く。

「あのカップって、レイコさんがつくったんでしょ?」

 尋ねるのを完全に無視して、シンさんは足を速める。

「ねえ」

 逃してはならじと、わたしも懸命に足を動かして。何せこんな優位に立てることなんてそうはない。絶対、聞き出してやるんだから。

「ねえ、いつ帰ってくるの? わたし、逢いたい」

「……知らん」

 息せき切って聞いた問いにかえってきた答えに、わたしは一瞬仰天して、すぐに、そんな訳ないだろ、と、むっとした。

「なんでよ。けちけちしないでそれくらい教えてよ」

「ほんまに知らんねんて」

 顔をこちらに向けずに、シンさんは早口に言って。

 その横顔に、もしかしてもしかしなくても、それが本当のことなのかという気がしてきた。

「ほんとに?」

「ああ」

「ええー……でも、なんで?」

「出発した時点では帰国日決まってへんかったし。個展の日程は知ってっけど、終わったからってその日にハイさよなら、いう訳にもいかんやろ。後始末やらなんやらあるやろし」

「そりゃそうだけど、何か連絡とかないの?」

「んー……」

 シンさんは少し上目遣いになって、かりかり、と顎をかいた。

「確か……到着直後に、『着いた』て葉書が一枚、来たかな。先月頭くらいにも『今この辺り』みたいのんが。そんくらい」

「ええ、そんだけ?」

 わたしは今度こそ完璧に仰天した。なんだそのそっけなさは。

「そんなんで心配にならないの?」

「あいつやったらどこおっても大丈夫や。何せあほやからな」

 わたしは歩きながら、シンさんの横顔を見た。

 酔いのせいか、細い目がわずかに潤んで、澄んでいる。

 ああ、シンさん、ほんと好きなんだなあ、彼女のこと。好きだし、彼女という人間を、信じてるんだ。

 その姿に、何だか嬉しくなる。

「えーと、じゃ、電話は?」

「俺持ってへんし。公衆電話から国際電話かけんのもめんどいし」

「でも、そんなんでもし万一のことがあったら」

「そしたらトリコロールの子等から連絡あるやろし。俺になんかあっても彼女等からあいつに連絡いくやろ」

「とり……こ?」

「ああ、それは聞いてへんのか」

 レイコさんの話題になってから、初めてシンさんがちらりとこちらを見た。

「あいつ、ドイツから帰ってきた後、同期やった子とひとつ下の後輩の子と、三人で泉涌寺に窯開きよってん。家も三人で借りて、店も置いてさ。その店の名前」

「へえ」

「つくるもんが三人それぞれ、全然違ってて、結構おもろいで。まあその内な」

 その言葉に、シンさんが一応、いつかはちゃんと彼女を紹介するつもりがあるのは判った。が、こんなんでは全然、もの足りない。

「じゃあ、写真かなんかないの?」

 聞いた、その瞬間にはもしかして、と思っていたが、やはり即座に「無い」という答えが返ってきて、わたしはがっくりした。

「なんでよ、もう。あ、ねえ、卒業アルバムとかは? この際昔の写真でもいいよ」

「そんなんとっくに捨てたわ」

「もう、ほんっとにぃ……いいよもう、今度田上沢さんに頼んで見せてもらうから」

「お前なあ……」

 シンさんが足を止めて真正面にこちらを見た。

「ほんまもう、なんやねな……ひとのことばっか言うてさ、そない俺に言うねやったら、自分かて俺に彼氏の写真くらい見せえや」

「――――」

 思ってもみない反撃が返ってきて、わたしの足も思わず止まった。

 わたしの動きが止まったのをどう取ったのか、シンさんはにやっと笑って、

「てか、いっぺん連れてきいや。ちゃんとしたつきあいしてんねやったら、姪御さんとおつきあいさしてもろてますー、くらい挨拶しに来んのが筋っちゅうもんちゃうんかい」

 と、陽気に言った。

 その声音は純粋にひとをからかっているだけのもので、それは判ってはいたのだけれど、わたしはどうしても胸の底にずしんと重しがかかるのを止めることができなかった。

 連れてこい、て言ったって。

 だって、わたしだって。

 わたしだって、全然逢えてなんかいないのに。

 電話すら来ないのに。

 そんな相手を、どうやって連れていったらいいのか。

 たった今聞いたシンさんとレイコさんとの話、何ヶ月も離れていて、ろくに連絡もなくて、それでもおそらく全く心が遠ざかっていないその姿が、自分と恋人との間の深い断絶と対比されて、ますます胸が張り裂ける思いがした。

 胸の奥から熱い塊がぐうっとこみあげてきて、眼の裏までじいんと広がっていく。……ああ、やばい、泣きそうだ。

「おい?」

 黙ってしまったわたしに、シンさんがきょとんとした顔で背をかがめてひとの顔を覗き込み――ぱちぱち、と、二、三度瞬きする。

「……あ」

 口の奥で小さな声を漏らして、ぱっと背を伸ばしたと思うと、いきなり、ぐしゃぐしゃぐしゃ、とひとの頭をかきまわした。

「なっ……」

 その突然の動きに、ぎりぎりのところでこらえていた涙がすっと引っ込む。

「いや、ええわ、ええ。嘘やで」

 手だけはこちらに伸ばしながら、目は完全にそらして、シンさんがものすごい早口で言った。

「シンさ……」

「ひとのオトコなんか見たってなんもおもろないしな。連れてくんなよ」

 引っ込みかけていた涙が、またぎゅうっと上がってきて、鼻の奥がつうんと痛くなった。

 それを何とかこらえて、わたしは口を開く。シンさんが今のわたしを見てどう取ったのかは知らないが、とにかく、余計な心配をされたくない。

「あの、まだ、就活が終わらなくて……忙しくて、それで」

「あー、ええから!」

 途切れ途切れの言い訳めいた言葉を遮るように、シンさんはいきなり大声を上げて、わたしの背中をばん、ときつく叩く。

「いたっ……」

「もうええって。姪っ子のオトコなんかに挨拶されたって何もおもろいことないし。いらんわ。いらん」

 またくしゃくしゃとひとの髪をひっかきまわして、シンさんは早口に言うと、ぐい、とその手でわたしの頭を引っ張るようにしていきなり歩き出した。

 体勢上、わたしも仕方なく歩き出す。

 胸の奥の熱い塊が、足の動きと一緒にぽんぽんと跳ねた。

「……オトコと言えば、ガミには学生時代すごいエピソードがあってな」

 ひとの頭を乱暴になぜながら、シンさんは全くこちらを見ずに、まっすぐ前を見ながら飛ぶようなスピードで歩いて。

「女にはそらモテとったけど、男にも言い寄られたことあってん」

「ええっ?」

 一瞬心の上にどっしりと乗った重しのことを忘れて、わたしは隣のシンさんを見上げた。

 ちらっとこちらに目を走らせたシンさんの唇の端に、わずかな笑みが浮く。

「二回の時に、一個下の後輩に。それがもう乙女で乙女で」

「おとめ?」

 って、「男」に言い寄られたんじゃないのか?

「まああいつは筋金入りの女好きやし、そやし当然、その後輩のことは丁重にお断りしてんけど、そいつ、『好きでいることは構わないですか』って」

 わたしはもうすっかり度肝を抜かれてしまい、口をぽかんと開けてシンさんを見つめた。

「そんであいつも、『まあそれは自由だと思う』とか何とか言うたもんやさかい、もうずうっと、乙女の片思いモードでや。また、見た目も小柄で細っこくて、髪の毛なんかさらっさらして、綺麗な顔しとってん、そいつ。そんなんがほら、あの、ひと昔前の少女漫画みたいに、廊下の端からそっと見つめたりしてんねん」

「それは乙女だ……」

 わたしは呆然と呟いて。もはやすっかり、涙は引っ込んでいる。

「あいつ学生時代、バスケやっててんけどさ、一度試合の時にそいつが弁当つくってきたことがあってや。それがすごいねん。ご飯の上に、桜でんぶでハート描いてあんねん」

「――乙女だ!」

 殆ど感動してしまって、わたしは声を上げた。それは今は勿論、十年前であってもまさに天然記念物レベルの乙女ではないか。男の子だけど。

 シンさんが嬉しそうに笑ってこちらを見下ろす。

「やろ? そんでまた、その弁当がむちゃむちゃ美味かったらしいねん」

「食べたんだ、田上沢さん……」

「ああ、食うてた食うてた。やけど断れんでアレ。もう、目ぇうるうるさして差し出すねんもん。俺も見たけど、あの迫力は断れんわ」

「へえー……」

「俺等の卒業ん時は、すんごいでっかい花束持ってきててさ。そいつチビやったから、もう両腕一杯にそれ抱えたまんま、わんわん泣くねん。なんつか……すごかったわ、あの一途っぷりは」

 その感心しきった口ぶりから、シンさんはその後輩の子が割と気に入っていたのではないかと想像された。そういう一風変わった子って、多分シンさんのツボなのじゃないかと思う。

「何が可笑しかったって、そんなんやから、そいつのこと学内中に知れ渡っとってさ。ガミが気に入った子に声かけた時、『でもあの子に申し訳ないから』とか『田上沢君にはあの子がいるし』ってフラれたことが何回かあったらしい」

「ええっ、気の毒」

 と言いながらも、わたしはつい、吹いてしまった。だってそれ、可笑しい。

「――やっと笑たな」

 と、シンさんが、口の奥で小さく呟いて、わたしははっとなった。

 思わず見上げると、シンさんが歯を見せて笑う。

「笑え笑え。しおれてるとか、らしないぞ、自分」

「…………」

 ああ、なんだそうか、同じだ、これ。

 すとんと、判った。

 今日の昼間に、わたしがやった――怒りを持て余したシンさんの気を、まるっきり明後日の方向に逸らした、あれとおんなじ。

 それが感じ取れた瞬間、先刻のそれとはまた別の理由で胸の奥がじんとなって、また、泣きたくなった。

「なんやねな、もう、笑えや」

 わたしの表情の変化を見てとったか、シンさんは慌てたようにひとの後ろ頭を小突いた。

「ああもう……お前そんなんやったら俺調子狂うねん。笑えって、ほら」

「うん」

 わたしはうなずいて、何とか笑みを浮かべて。が、その端から涙がこぼれそうになるのを、喉の奥をひきつらせるようにしてどうにかこらえる。

「あーもう、ほんまに」

 シンさんがやけになったように、またひとの髪の毛をくしゃっとかきまぜて。

 そういえばシンさんがわたしに触れるのは、あの最初の日に交わした握手以来、今日が初めてだ。

 それに気がついて、はっとなったせいでわずかに涙が引っ込む。

 あれから何度もシンさんの家に通った、けれど一度だって、シンさんはわたしの体の、どこにも触れることはなかった。今の今まで、全くそんなことを意識したことはなかったけれど。

 このふた月程の、シンさんと過ごした時間のことがざあっと頭を流れた。

 そうか、わたしは、わたし達は……急速に近づきながら、互いにどこか、まだ相手との距離を空けていたのだ。節度、と呼べばいいのか、近づいても踏み込みはしない、そんな距離を互いに無言で保っていた。

 頭の上に乗っかったままの、シンさんの大きな手が、あたたかい。

 ……ああ、また、近づいた。

 そのあたたかみが、頭の上からじいんと心臓の上まで下りてくる。

 それは先刻までの、涙を誘うような胸の熱さとはまた違っていて、自然と唇に笑みを浮かばせるような、幸福感に近いものだった。

「……そうそう、笑いや」

 ちら、とわたしの顔に目を走らせたシンさんがほっとしたように言い、ぽんぽんと頭を叩く。

「美人やったらしおれてる姿も絵になるけど、お前がやってもお話にならんからな」

「ちょっとシンさん、その言い方はないんじゃない!」

 その言いっぷりについ拳上げてしまうと、シンさんが両手上げて笑いながら離れた。

「ええぞ、もっと言えもっと言え。ああ言えばこう言うくらいでお前はちょうどや」

 その言葉に、逆にもうすっかり怒る気がなくなって、わたしはすっと手を下ろして。

 自然に、くすんと唇から笑いが漏れる。

 わたしのそれを見て、シンさんはますます嬉しそうに、歯を見せて笑った。

 その後ろに、ちらちらと冬の星座が瞬いている。

 ……ああ、このままひと晩中歩いていてもいいな。

 そんな風に思った、夜だった。

 

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