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第一章(後)・出逢い

 

 先日と打って変わって、「叔父」の家はしんと静かだった。

 いないのか、一瞬そう思ったけれど、よくよく耳を澄ますとかすかに金属の音が聞こえてきて、辻に面した梨地ガラスの窓の向こうに、小さな明かりが見えていた。

 わたしは扉の前に立つと、一度大きく深呼吸する。

 そして引き戸に手をかけ、ひと息にガラリと開いた。

「――おう」

 一拍遅れて声がして、窓辺の机に向かって何やら作業していたそのひとが、すっと顔を上げ、目をやや細めたきついまなざしでこちらを見る。

 机は手前の引き出しが開いていて、そこに机に向かってコの字形に銅板らしき板の囲いが置かれていた。机の上には奇妙な形の丸い台のようなものがあり、その周りに驚く程様々な形をした(のみ)が散らばっていて、端には古ぼけたスタンドの電球が灯っている。

「こんばんは」

 わたしはそれを見ながら、ぺこりと頭を下げ、中に入って後ろ手に扉を閉めて。しかしほんとに、家の鍵開けっ放しなんだな、このひと。

「ああ……もうそないな時間か」

 椅子の前でぐぐっと伸びをすると、相手は立ち上がって手を伸ばし、かちりと電気の紐を引いた。

 ぱっと天井の明かりがついて、辺りがすっかり明るくなる。

「今日は静かなんですね」

「え、ああ、うん、こないだはちょっと、頼まれで大きいもん切ってたさかい……普段はこんまいのしかやらんねんけどな」

 言いながら、こきこきっ、と両の肩をまわしながら机を離れ、奥の方へ向かっていく。

「コーヒー飲むか」

「あ、いえ、いいです」

「なんや、遠慮しなや」

 わたしが早口に断ると、怪訝そうにこちらを振り返る。

「俺なあ、豆だけはいいの買うねんで。美味いで」

「いえ、でも、ほんとに」

「え、なんか急いでる?」

「ううん、でも」

「ほなええやろ。淹れるで」

「いやっ、いや、待って、あの……あの、わたし、コーヒー、飲めないんです」

 こっちの言葉を聞かずにどんどん話を進めていくのに、もうこれは失礼でも言わねば仕方がない、と腹を決めて言ってしまうと、相手はきょとんとした顔で動きを止めた。

「え、飲めへんの?」

「はい、駄目なんです、味も……苦手だし、ちょっと量飲むとお腹壊すし」

 正直に言うと、きょとんとした顔のまま、相手はかりかり、と首の後ろを指で掻いた。

「ああ、まあそらしゃあないなぁ……えっと、そしたら、茶ぁでもいれよか」

「あ、これ」

 その言葉で思い出して、わたしは手の中のハーブティの袋をぐい、と前に差し出して。

「何?」

「伯母さんから。ハーブティ」

「ああー……」

 すると相手は困ったような顔になって、今度は軽く頭をかく。

「俺、あかんねん、それ……あんま好かん」

 そう言われて、今度はわたしがへえ、という思いがした。

「やっぱ男の人って、皆そうなんだ……」

 思わず声に出して呟くと、急に相手が反応する。

「やっぱ、って……何? 男? 彼氏?」

 矢継ぎ早に言われて、わたしは不意を突かれて口ごもった。勝手に頬に血がのぽってくるのが自分で判り、その事実がまた一層、血を逆流させる。

「へえ、そうかー……まあ、女子大生やもんな、彼氏の一人や二人や三人はおるやろな、そら」

「そんなにはいません!」

 つい反射的に大声で反論してしまうと、相手は高い背を折り曲げるようにして笑った。

「そらそうや、自分、そうは見えんわ。そしたら、湯ぅ沸かすし、自分それ飲みぃや。俺コーヒー淹れるし」

 頭に血がのぼっている内に一気に言われて、言葉を返す隙も無くわたしはただ立ちすくんだ。

 相手はすたすたと奥の台所に行って、やかんに水を入れ、火にかける。

「――何してんの、座りぃや」

 振り返ってこちらを見てそう言うのに、わたしはもう何だか毒気を抜かれてしまって、すとん、と部屋の中央の大きなテーブルの前に腰を下ろした。

 相手は火をつけた煙草をくわえながら、部屋の隅のカラーボックスからフラスコのような形をした大きなガラスのコーヒーメーカーを取り出し、豆をセットしている。

 煙草の煙たさに、わたしはふっと、自分がここに来た目的、伯母の依頼物を渡すことと、今後一切、依頼を断りたいこと、を思い出した。

「あの、これ」

 椅子から半分腰を上げながら、相手の方に小さな箱を差し出すと、くわえ煙草で目を眇めてこっちを見て。

「伯母から」

 そう言うと、相手はああ、と小さくうなずいてこちらに歩み寄った。

 箱を手に取り、その重さをはかるように小さく手をはずませる。

「軽いな」

 口の奥で小さく呟くと、箱をテーブルに置いて開いた。

 その唇が、ふうっとほころぶ。

 相手のその表情の急激な変化に、わたしは一瞬、目を奪われた。

 目の端に常に漂っている険がすっかり抜けた、ひどくやわらかで、やさしい微笑み。

 わたしが見とれているのにも気づかず、相手は笑みをたたえたままの唇から煙草をはずすと、ぎゅっと灰皿に押しつけて消した。

 その目は、吸いついたように箱の内側に向けられている。

 わたしは身を乗り出して、その中を見た。

「……わあ」

 可愛い。

 ぱっと胸の中にその言葉が花開くような、そんなあいらしい木彫りの少女を模した人形。それが、詰め物の中にさも大事そうに納められていた。

「可愛い……」

 声に出して呟きながら、わたしはそれを見つめて。

 可愛い、確かに、うん、でも……それだけじゃ、ない。

 見つめている自分の口元にも、勝手に微笑みが浮かんでいた。

 なんてあたたかくて、幸せな人形だろう。

 わたしの手の平くらいの大きさのその人形は、鑿跡もざっくりとした、おおざっぱなかたちで彫られた二等身くらいのおかっぱの少女の姿だった。

 表情もはっきりとしないのに、まるで全身で微笑んでいるかのようだ。

 特にカラーリングもされていない素のままの木肌は、磨き上げたようにつやつやと黒光りしていて、ずいぶん年季が入っているようで、なのにちっとも、古びた感じがなく、いきいきと輝いているように見える。

 見ているだけで幸せになる、て、こういう感じだ、きっと。

「ええな、これ」

 相手が小さく呟いてそれを手に取り、ふっと気づいたように、箱の中に目を落とす。

「持ってみ」

 人形をわたしの方に寄越して、自分は箱を手に取って。

 受け取ると、人形は本当に、ちょうどいいサイズでわたしの手の中にすっぽりと収まった。

 何だか、あたたかい。

 その心地に胸の奥がほこほこしてくるのを感じながら、見ると、相手は箱の中から小さな手紙を取り出し、それを読んでいた。

「これは?」

 この間のバッグと違い、きっとこれは聞いても大丈夫だ、そう思って尋ねると相手はこっちを見た。

「佐和さんの友達の持ち物やて。子供の頃から大事にしてて……今度息子さんが結婚するのに、お嫁さんにあげようと思うがどうだろうか、て」

「へえ……」

「そらええに決まってるよなぁ、こんなん」

 相手はひょい、とわたしの手の中から人形を取り上げると、天井の明かりに透かすようにして、ふうっと微笑んだ。

「代々ずっと守ってくれるわ、こんなん傍におったら」

「うん」

 わたしが力強くうなずくと、相手はちらっとこちらを見て、歯を見せて笑った。

 同時に、部屋の奥でやかんが鳴り出す。

 相手は大事にその人形を箱に入れ直すと、台所に立った。

 ――やがて、ゆっくりと部屋の中にコーヒーの香りが満ちてくる。

 不思議だ。

 わたしは部屋の奥でゆっくりと渦を巻いて立ち上がる湯気を眺めながらひとりごちた。

 部屋の中には、先刻消された煙草の匂いがまだ色濃く残っている。そしてそこに重なるように、少し酸味を含んだ、淹れたてのコーヒー特有の香りが満ちていく。

 どちらも、わたしの苦手な――煙草に至っては、嫌いな香りだった。

 それなのに何故だか、部屋を一杯に満たしていく二つの入り交じったその香りが、ひどく落ち着いて、背骨と腰からすとんと力が抜けるような、そんな心持ちがした。

 少しほの暗い台所で相手は片手を腰に当て、もう片方の手に持ったポットをゆらゆらとゆらめかせるようにして、細い流れのお湯を丁寧にフィルターの上から注いでいる。

 不思議だ、どうして……こんなに、落ち着くのだろう。

 わたしは相手がコーヒーに集中しているのをいいことに、その姿をじいっと眺めた。

 まだ逢うのはたった二度目の、しかもずっと存在すら知らなかった自分の「叔父」という飛び抜けて特殊な相手、それなのに何故こんなにも、心安いような気持ちで自分はここにいるのだろう。

 ……異質さが、無いのだ。

 そんな言葉が、唐突にふっと浮かび上がってくる。

 この部屋の中、すっぽりとくるまれた空間に自分がいて相手がいる、そのすべてがすっかり同じ空気の色に染まっていて……どこにも違和感が、無いからだ。

 こんな感覚を抱くのは初めてだった。

 恋人でさえ、こんな風に感じたことはない。いや、むしろ、恋人といる時は、ずっと「自分と違う相手の存在」を隣に強く感じていた。意識して、緊張して、胸のどこかが常にきゅっと引き締まっていた。無論、それは嫌なことでもしんどいことでもなく、こそばゆいような嬉しさを感じさせるものなのだけど。

 これは、そういうのとは全然違う。

 あの人形の、効果だろうか。心の奥の部分を柔らかくほぐすような。

 相手はフィルターを外すと、フラスコ形のちょうど真ん中にはめられた木の部分を持って、大振りのカップにコーヒーを注いでいく。

 変な例えだけれど、まるで、ちょうど人肌の温度のお風呂の中にいるようだった。自分の体とお湯とが区別がなくなる程にしっくりと馴染んで、そのお湯の中に一部分だけぽっと、他より温かい塊がある。

 その塊が。

 カップを持って、こちらを振り返った。

 ――一瞬、どきんと胸が強く鳴る。

「ああ、自分のカップ……ちょっと待ってや」

 わたしの瞬間の動揺には気づきもせずに、相手はカップを持ったまま、カラーボックスの奥から青いマグカップを取り出した。

「とりあえず、これ使い」

 カップの中にお湯を注いで、相手はそれをすっとわたしに差し出す。

「あ、はい、すみません」

 わたしは慌ててカップを受け取ると、ハーブティの袋を破ってティーバッグを抜き出しお湯の中に入れた。

「……あ」

 手の中にすぽっと入ってきた、カップの肌触りの心地よさに、小さく声が出る。

「ん?」

 斜め向かいに座りながら相手が眉を上げて。

「いえ、あの……使いやすいカップだな、と思って」

 ほんのわずかに胴が膨らみを帯びた、厚手の群青色のそのカップは、まるであつらえたように手の中にしっくりと馴染んだ。

「……そうか?」

 そう言ってわずかに歯をひらめかせて微笑った、その顔にわたしは一瞬、息が止まった。

 もともと細い目が更にふうっと細まった、その奥にある、やさしい輝き。

 わたしはその顔に目を留め、それから相手の手の中のカップを見た。

 それは柔らかなクリーム色をした土肌の目立つ大きなぼってりとしたカップで、自分のものとは形も色も違っていたけれど、何だか同じ気配のするカップだった。

「そら良かった」

 相手はどことなく満足そうにそう言って、コーヒーをすすった。

 その急な表情の変化の意味が掴めず、わたしは何となく所在なげな気分になりながら、ふー、とカップの中のお茶を息で冷ましてゆっくりゆっくりと飲み始める。

 酸味の利いたその味に、ふわりと揺れかけた心がまたゆったりと落ち着いてきた。

「……あー、生き返った」

 相手はぐっとコーヒーを飲み干すと、大きく伸びをする。

「ええと、そしたら、これ……送り返さんなんな」

 テーブルの上の箱に目をやって、また一瞬だけ微笑む。

「ほな、頼むわ」

 あっさりと言い捨ててカップを手に台所に立つ背中に、ええっ? と声が出てしまった。え、わたし?

「なに」

 びっくりしたような顔で相手が振り返る。

「いや、だって、それおかしくないですか。伯母さんとあなたとの間のやりとりじゃないですか。それくらい自分でやりましょうよ」

 そういやよく考えてみたら、自分は今後は仲介を断るつもりで来たんだった、そう思ってつい我ながら強い口調で言ってしまうと、度肝抜かれたような顔をしていた相手の目がゆっくり瞬き、ついで、口元に笑みが浮いた。

「……うん、まあ、そらそうや」

 それだけ言って、またくるりと背を向けてしまうと、流しにカップを置いてこっちに戻ってくる。

「まあでも、そんなんが面倒やから、ずっと知らんふりしててんけどなぁ……ほんま、抜け目ないな、佐和さん」

 ぼやきながら戻ってくる、その目元がわずかに笑いを含んでいたので、わたしはつい強い口調になってしまった自分にほっと安心して、相手を見上げた。

「今日チャリ?」

「あ、いえ、歩きです」

「そう、そしたら、ついでに家送るわ」

「え?」 

 聞き返した時にはもう、相手はさっと脇のガラス戸を開けて、家の方へ引っ込んだと思うと、次の瞬間、片手にガムテープを持って戻ってきた。

 ぴっ、とテープを破って、丁寧に箱の蓋を閉じる。

「ほな行こか」

 そう言って、返事も待たずに戸口に向かう相手の背中を、わたしは慌てて追いかけた。



「家、こっちやったよな」

 細い小路から路地に出て、相手はひょい、と長い指で南を指す。

「あ、はい……どうして」

「佐和さんから地図もらった。そしたら、道渡らんなんけど、そっちのコンビニ寄るで」

 そのまま指をさっと南東に向けて、すたすたと歩き出す。

 わたしはその後を一歩遅れて続いた。

 相手は小脇に箱を抱えたまま、ジーパンのポケットから煙草を取り出し、火をつける。

 外は陽がもう殆ど落ちて、西の空が広々と赤かった。

 すうっと流れてくる煙を避けるようにして、わたしは相手の少し後ろを歩いて。

 肩幅のある、逆三角形の広い背中に、西日がオレンジ色にあたっている。

 線路の脇を東に向けて歩くと、すぐ隣を電車が夕陽の方向に向かって走っていった。

 わたしは歩きながら、それを見送る。

 電車を追いかけるように、煙草の煙がくるりと渦を巻いて西へ流れた。

 ……ああ、赤い。

 もうわずかに冷えかかり始めた空気を何とか暖めるかのように、西日の赤さが辺りを一杯に満たしている。

 黄昏の中、前を歩いていく、広い背中。

 何故だろう、何だかふっと、懐かしいような、そんな心持ちがした。

 どこの誰とも、こんな記憶は無い筈なのに。

 それなのに、その、どこか甘やかで、それでいて薄く鋭い刃先ですっと薄皮を切られたような、奇妙な切なさを含んだ「懐かしさ」は、胸の底にすくって消えなかった。



 コンビニに寄って荷物を送ってしまうと、相手は本当にわたしの家までついてきた。

「へえー……線路のこっち、そんな来んからなぁ。知らんかったわ、ココこんな古いアパート、まだあんねんな」

 アパートの前に立って、相手は感心したように腰に両手を当てて建物を見上げる。

「そちらの長屋も、相当古そうですけど」

 確かに古いが気に入った住処なので、つい言い返してしまうと相手は破顔した。

「確かに。競ってるな」

「あんなところで、あんなにうるさくして、大丈夫なんですか」

 言い返しついでに気になっていることを聞いてしまうと、相手は片眉上げてこちらを見下ろした。

「あんな、って……ああ、こないだな、そやしあれはイレギュラーやから」

「イレギュラー?」

「普段は俺は小物しか扱わんから、うるさい言うてもそれ程のことも無いねんけど、あん時は知り合いからどうしても、て頼まれて店の看板、作ってたさかい。いつもはあないやないで」

「ふうん……」

「それに、先代の時からご近所にはようしてもうてるし、昼間にやる分にはそうそう目くじら立てんよ、あの辺は」

「先代?」

「ん」

 短く言うと、相手は新しい煙草をくわえた。

「俺のお師匠さん」

 その言葉に、伯母の話を思い出した。教授の工房に弟子入りして、その人の病死後、家ごとその場所を継いだのだという。

「……シン、さん?」

 工房の表にあった『SHIN』という文字を思い出し、そう呟くと、相手が驚いたように細い目を大きく見開いてこちらを見た。

「え?」

「あ、あの、工房の、名前。シン、って」

 その驚きっぷりにこっちがちょっと口ごもりながら言うと、相手は二、三度瞬きして。

「……ああ」

 それから、ゆっくりとその顔に笑みを広がらせると、まだ火をつけていない煙草を口から外して、指に挟んだ。

「あれは俺」

「えっ?」

「あれは俺の名前」

「え、でも」

 モリヤリュウジ、という名のどこに「シン」が入る余地があるのか判らず、わたしは首を傾げる。

 相手はわたしから視線を外して、暗くなり始めた西の空を見やった。

「センセイがなぁ……最初ずうっと、ひとのこと『シンタニ』って呼んでやってん」

 ゆっくりと話し出した、その唇からかたちづくられる声音が、まるでチェロのようにやわらかく響く。

「俺、誰にどう呼ばれようがそんなんどうだって良かったしな……ずっと訂正もせんと放っといてんけど、いつやか、同期の誰かがいらんおせっかいしてわざわざ教えよってん、センセイに」

 せんせい、というその響きが、味気のない固い漢字ではなく、懐かしさをふくんだ夢のように聞こえる。

「センセイ、むっちゃ申し訳ながってなぁ……俺ほんまどうでも良かってんけどさ。そんで、でもその後もしょっちゅう、『シンタニ』言うてまうねんな、あのひと」

 そうぼやくように言う声も苦笑の漏れる口元も、何もかもひどく優しかった。

「後で聞いたら、小中の同級生で仲ええ子に、おんなじ字ぃで『シンタニ』って読ます人がおってんて。そら普通は『モリヤ』か『モリタニ』やねんけど、そのせいでつい頭っから『シンタニ』やと思ってもうた、って……俺は別に、『シンタニ』だって構へん、言うてんけど、いやそういう訳にはいかんやろ、って、言いながら言うた端からすぐ間違えてさ」

 ……ああ、好きだったんだなあ。

 その横顔を見ながら、心からそう感じた。

 この、一見してずいぶんととっつきにくい、内面の偏屈さがはっきりかたちになったような姿をして、きっと若い頃には更にそのエッジが際立っていて、けれど表ではそっけない態度を取りながら、実はそのひとを深く尊敬して慕っていたのだろう。そんな様子が何もかもまるで目の前に見えるようだった。

 不思議だ。

 今日何度目か、そう思う。

 逢ったばかりの、十近く年の離れた異性の相手のことが、何故こんなにも手に取るように伝わってくるのだろう。

「そんで、さすがに間違ったままの名字で呼び続けるのもあれやし、けど今更『モリヤ』とも呼び辛いし、言うて、そんで間取って『シン』」

 それのどの辺が間を取っているのかよく判らなかったが、そう言う相手の瞳がどこまでも懐かしげで優しくて、受け継いだ工房の名前をそう名付けた、その思いが透けて見えるようで、わたしは思わず目を細めた。

「……いい、センセイだったんですね」

 胸がいっぱいになるような感覚をたたえてわたしがそれだけ言うと、相手がわずかに驚いたように、片目だけを少し見開いてこちらを見下ろした。

「……ん」

 鼻の奥で短く答えると、相手は指にはさんだままだった煙草をくわえ直して、カチリとライターで火をつけて。

「ほなな」

 ごく唐突に別れの言葉を告げると、くるりと背を向ける。

「え、……え?」

 そのあまりの唐突さに、わたしは一瞬、きょとんとして――ああ、照れてるんだ。

 少し左に傾いだ背中に、それが読み取れて……何故こんなにもやすやすと相手の心が掴み取れるのか自分でも本当に不思議で、でも何だか当たり前のことのような気もした。

 自分とこのひとは、何かが繋がっている。

「さよなら……森谷、さん」

 それでもさすがにいきなり「叔父さん」とは呼ぶ気にはなれずに、そう言って背中に頭を下げると、相手が足を止め体半分だけ振り返った。

「シン、でええよ」

「えっ?」

 驚いて見上げた顔はもう殆どが闇に包まれていて、その上、そこに更に煙がぼんやりと覆いかぶさっていて表情が全く見てとれない。

「シン。そんでええ」

 薄暗い中からそれだけはっきり言うと、相手はわたしの言葉を待たずに夕闇の中へ消えていった。



 その晩の電話で、伯母はあの人形のことを話してくれた。

 もともと、伯母の友人が木彫りをやっていた彼女の祖父から贈られたものだそうで、小さい頃からずっと大事にしていたのだと言う。

 息子さんの結婚にあたり、お嫁さんになる人にプレゼントしようとしたのだけれど、夫から「そんな汚い物をあげる気か」って怒られちゃって、そう力なく笑う親友に、「それは絶対いい物だ、お墨付きにするから」と伯母が言い張り、叔父の「鑑定」にまわしたのだと。

 その相変わらずのおせっかいぶりに、わたしは電話口で笑ってしまった。

『……じゃ、ありがとね。また次もお願い』

 その笑いのせいで、そう言って伯母が電話を切ろうとしたのを慌てて止めて、けれどなかなか断りの言葉が言い出せなかった。

『え、つまり、どういうこと?』

 もごもご言っていると、伯母が混乱したように尋ねてくる。

「だから……もうわたしを使うの、やめてよ」

 こちらの意図が全然通じないのに、まわりくどく言うのが面倒くさくなってしまい、そうきっぱり言うと、伯母はえ、と小さく声を上げた。

『何……あの子何か、あんたの気に入らんことした?』

「そういうんじゃ……ないけど」

 尋ねられて、わたしはまたも口ごもってしまう。

 最初に思った「便利屋みたいで嫌だ」という気持ちは、まだ確かにあった。ただ、それは今日のあの人形の為に大分薄くなっていたから。

 けれどやっぱり、心の奥に何かがひっかかっている。

『じゃ、何……ああ、あの子煙草吸うし?』

「ああ、まあ、それは確かに嫌だけど……」

 自分の中のもやもやをうまいこと言葉にできなくて、わたしは言葉を濁した。

「何て言うか……わたし、運び屋じゃないし」

 ぼそぼそっと言ってみると、何となく自分の心の中にかちりとはまるものがあった。

 伯母から荷物が来る。それを持って、自分は「叔父」の家へ行く。

 それが、今の自分と「叔父」との繋がりだ。

 それだけが。

 そのことが……何だか、嫌なのだ。

 そう気がついた瞬間、勝手にぶわっと頭に血がのぼり、頬が熱くなった。

『別にそんなつもりじゃないんだけどねえ』

 電話の向こうの困ったような伯母の声が、妙に遠く小さく聞こえる。

『そう頻繁に頼むつもりはないんだけど……そんなに面倒くさい?』 

 違う。

 そう言いたかったが、声にならなかった。

 そうじゃ……なくて。

 自分が単なる「伯母と叔父を繋ぐ糸」でしかない、それが嫌なのだ。

 頼む荷物がなくなれば、自分が「叔父」の家に行く理由がなくなる。

 それが……わたしは、嫌なのだ。

 そんなことでしかないのなら、最初っからそんな繋がりすら持ちたくないのだ。

 頬の熱さと共に、わたしははっきり、そのことを自覚し、そして、ひどく驚いた。

『千晴? 聞いてる?』 

「わたし、便利屋じゃない」

 伯母の声と同時に、自分でも意外な程、はっきりとした声が出た。

『千晴』

「それは伯母さんと叔父さんとの間のことでしょ。それにわたしを使わないでよ。そういうことは、二人で勝手にやってよ」

 心配気な伯母の声を断ち切るようにわたしは続けた。

「便利屋じゃない」という、そのこと自体は一番最初に感じたことと同じだったけれど、その心の中の位置は、今は全然違っていた。

 最初はただお互いが面倒なことに手を抜く為に自分が利用される、それが嫌なだけだった。

 でも今は、それだけじゃない。

 自分が「叔父」に対して、「便利屋」でしかないのが嫌なのだ。

 ひとを「似たもん同士」と言って笑った、夕暮れの中で大きな背中を見て歩いた、「シンでええ」と闇の中で呟いた。あのひとにとって自分がただの「宅配人」にすぎないことが嫌なのだ。それくらいなら、最初から「血が繋がっているだけの見知らぬ他人」でいた方がいい。

『……そうか、ごめん』

 かあっとなっていた頭が、伯母の声にふっと冷えた。

「伯母さん」

 ああ、言い過ぎた、自分はいつもこうだ。カッとなると我ながら手に負えない。

「あの……ごめん」

『いや、あたしも悪かったよ。……ねえ、千晴』

「何?」

『そしたらさ、申し訳ないんだけど、あと一回だけ頼まれてくれない?』

「え?」

『もう押しつけられちゃったのがひとつだけあんのよ。それだけ、何とか頼まれてくれないかな』

「……判った」

 拝み込むような伯母の声に、自分が感情のままにきつく言い過ぎた、という自覚もあって、わたしはうなずいた。

『ああ、良かった……えっと、他に漬け物かなんか送るから、そうね、来週の頭くらい。いい?』

「うん、いいよ」

 良かった、それじゃ頼むね、と言う伯母の言葉にまたうなずいて電話を切ると、わたしはひとつため息をついて、すとん、とその場にしゃがみ込んだ。

 指の背を頬に当てると、まだ熱いそこにひんやりとした感覚が伝わる。

 これは……一体……何だろう。

 わたしは自分の中に生まれたその感覚が不思議で、そう呟いた。

 誰かにこんな風な感情を抱くのは、初めてだ。

 きちんと対峙して、きちんと繋がっていたい。

 恋人に抱く思いとは全く違う。かなり仲の良い友人にも、こんな風に感じたことはない。

 伯母にちゃんと顔を合わせたのはわたしが中二の時のことで、それ以来わたしはずっと伯母が好きで、いろいろ頼りにもしてきたけれど、その伯母にさえこんな思いを抱いたことはなかった。

 わたしは抱え込んだ膝に、まだほのかに熱い頬をうずめて、深く息を吐いた。



 言葉通り、数日後に荷物はやってきた。

 箱の中にはいつものように外箱よりふたまわり程小さい箱と、この間より数は少なめの林檎、それから伯母の地元名産のわたしの好物の漬け物が入れられている。

 わたしは紙袋に林檎と漬け物の袋をひとつ入れ、小さく軽い箱を持って「叔父」の家へと向かった。

 この何日か、わたしはその家の前の道を何となく避けていた。

 今までは時々使っていた道だった。でも、通らないようにしようと思えば他にいくらでも別ルートを選べるような場所だったこともあって、つい、避けたのだ。

 もうすっかり日の落ちた、街灯の灯り出した路地をゆっくりと歩いていく。

 ……どうして、なんだろう。

 わずかに傾斜のついた道をひと足ひと足上がっていきながら、胸の内で呟いてみる。

 ついほんのひと月前には、ここはその他すべての道と変わらない、自分にとって何の意味もない路地だった、それなのに……今はもう、こんなに特別なものになってしまった。

 どうしてなのか。

 長屋の前の細い辻に入ると、工房の窓に明かりがついているのが見えた。

 それが何故だか、奇妙に嬉しかった。

 あの明かりの向こうに、「叔父」がひとりで暮らしている。

 そう思うと、何だか心強いような、不思議な安心感があった。まるで、古い古い友人に久しぶりに会いに行っても何ひとつ変わっていなかった、そんな時のような。

 その感覚が自分でも本当に不思議で、わたしは足を止め窓の明かりを見つめた。

 カーテンを通して見える光に、遥か遥か、昔のことが甦る。

 大きな飾り窓の向こうに、明かりがついている。

 その窓の中にかけられた、華やかでかわいらしいカーテンの間から道の上に光がひと筋、漏れていて……そうっと覗き込むと、笑顔でテーブルを囲む家族がほのかに見えるのだ。

 わたしは空っぽの両手を握って、暗い道からそれを見つめている。

 きゅうっと、胸が切なくなる。

 まだ小さかった頃、よく感じた思いだ。

 ……ああ、本当に、どうしてこんなことを思い出すのか……本当に、どうか、している。

 わたしは再び歩き出し、玄関の前に立つと、すうっと息を吸い込み頭の中のもやもやしたものを全部追い払った。

「こんばんは」

 引き戸に手をかけ、ひと息に開く。

「――おう」

 テーブルの前に座っていた相手が、斜めにこちらを見上げた。

「何ですか、それ」

 そこに散らばっていたものを見た瞬間、わたしの意識から本当に他の雑念が全部飛んでしまった。

 描き散らされた、何枚ものスケッチ。

「うわぁ」

 幾つかには薄く水彩で色もつけられた、それは指輪やネックレスのデザイン画だった。

「きれい……」

 わたしはすっかり、その絵に見とれた。

 作品の大半は、恐ろしい程細かく複雑な曲線で形づくられていた。ところどころ、ごく小さな石の描かれた部分もあったが、基本的にはラインの美しさだけで勝負しているものが殆どだ。

「仕事や、仕事。売れるもんつくらな話にならん」

 相手は乱暴な口調で言うと、わたしが見とれているのに、ざっとスケッチをまとめてテーブルの下の箱にしまってしまった。

 ああ、照れてるんだ、褒めたから。

 それが判って、ついくすっと笑ってしまう。

 相手はじろっとわたしを睨むと、ふい、とそっぽを向いた。

「で、どないしてん、今日は」

「あ、はい、あの、これ」

 わたしははたと自分の目的を思い出し、林檎と漬け物を入れた袋と、依頼の箱とを両手で同時に差し出して。

「……ああ、佐和さんのか」

 相手は急に毒気の抜かれたような目でそれ等を見ると、同じように両手を出してそれぞれの手でそれを受け取った。 

「はい、で、あの」

 わたしが急いで、今後は自分で受け取ってほしい、と言おうとすると、相手は袋を下げた側の手を上げてわたしの言葉を止める。

「ちょっと待って、置いてくるわ」

 え、と思う間もなく、相手は立ち上がって、靴を脱いで奥の家の側に上がっていった。

 機先を制され、わたしが見守っていると、相手はすぐに戻ってくる。

 両手に荷物はなく、長袖のTシャツの上に厚手のシャツを羽織っていた。

 靴をつっかけながら、つい、と顎を動かす。

「飯行くで」

「え、えっ?」

 あまりに唐突な宣言に、わたしは面食らった。めし?

「夕飯。……なんや、もう食べてきてんのか」

「え、いえ」

「ほな行くで。ここずっとまともなもん食うてないねん、俺」

「いやっ、いや、ちょっと待って」

 もう今にも家を出ていかんばかりの相手を、わたしは必死に引き止めた。

「なに」

「いや、だって、あの、伯母さんの荷物」

 まだ今ひとつ状況が飲み込めてないまま、それだけやっと言うと、相手がちらっと家側の引き戸に目をやった。

「ああ、あれ……あれはもうええねん」

「え?」

「とにかく行くで。もう、あの漬けもん見たら急激に腹減ってきてほんまやばいねん。四の五の言うてんと早よ来いや」

「ちょ、ちょっと」

 どんどん外に行ってしまう相手の後を追って、急いで外に出る。

 さすがに相手がきちんと施錠するのを見て、何となくほっとして……有無を言わさずすたすたと歩いていく相手に、わたしは仕方なくついていった。

 辻を更に奥に入り、曲りくねった小路を西に向かっていく。

 人ひとり通るのがやっとの細い道には街灯もなく、真っ暗だ。

 やがて、突然道が大通りに出た。

 信号待ちで、相手が立ち止まる。

「あの、ご飯って」

 その横にやっと並んで、それだけ言うと、相手がちらりとこちらを見下ろした。

「ここんとこ納期詰まっとってや。ろくに飯食うてなかってん。今朝方大体片付いて、それから半日寝てもうて、実はつい先刻やっと起きたとこ。もう全然忘れとってんけど、あの漬けもん見たらいきなり腹減って腹減って」

 いや、だからそうじゃなくて、なんであなたの食事にわたしが同行しなければならないのか、ということなんだけど。

 そう言おうとした瞬間に信号が変わって、大股に歩き出した相手にまたもやついていくのが精一杯になった。

「あ、あのっ」

 ずんずん先を行く背中に、何とか声をかける。

「なに」

「なんで、ご飯」

「ああ、もうそこ。美味いで」

 こっちの言いたいことを全く聞かずに、相手はあっさり言ってのけると、急に立ち止まって道沿いの店を指差した。

 わたしはわずかに息を切らせて、その店を見つめる。

 ごくごく小さな、年季の入った定食屋だ。

「こんばんは」

 わたしが追いつくや否や、相手はさっとのれんをくぐって中に入ってしまった。

「あら、いらっしゃい」

 仕方なく後に続くと、中からおかみさんらしき人が明るく声をかけてくる。

「久しぶりやねぇ……あれ、その子は?」

 もう半分方は埋まっている店内の、小さなテープルに向かった相手におかみさんがわたしの方を見ながら聞いてきた。

 どきん、として声が出せない。

 椅子を引いて長い体を折り畳むようにして腰かけながら、相手が上目づかいにちらっとこちらを見た。

「……ああ、姪っ子」

 短く、そっけなく返された言葉に、またどきんと心臓が鳴った。

 胸の中心に、奇妙なあたたかさがじんわりとにじむ。

「へえ? 姪御さん? ……あ、どうぞ」

 驚いたように声を上げながら、おかみさんは体を引いてわたしに向かいの椅子を勧めた。

「あ、ありがとうございます」

 へどもどしながらすとん、と座ると、わたしは改めて相手を見た。

 こちらを見ずに目を落とし気味にしたまま、相手はジーパンのポケットから煙草を取り出し、口にくわえて――不意に、はたと我に返ったようにその手を止める。

「……?」

 わたしが不審に思っていると、相手は一度くわえた煙草を、また丁寧に箱の中に戻してポケットに押し込んだ。

 もしかして、わたしのことを気にしてるのか?

 伯母が電話で言っていた、「あの子煙草吸うし?」という問いが胸に浮かんだ。あの後、伯母が何か言ったんじゃないだろうか。

「あ、あの、構いませんよ、どうぞ」

 慌てて言うと、相手はやっとこちらをちらっと見て、またすぐに目をそらして小さく首を振った。

「いや、ええねん、ほんまここんとこ食べてへんから、こんなんで吸うたら胃荒れる」

 そう早口に言うと、どこかごまかすように一口水を飲み、それからじろっと睨むようにこっちを見て。

「それより何食う。早よ決めや」

「えっ……あ、はい」

 もうここまで来て何も食べない訳にもいかなかったし、何せ店内一杯にあまりにもいい匂いが漂っていて、自分も急速に空腹を感じて急いでメニューを眺める。

 どれもこれも気にはなったが、初めてのことだし、大好きな豚の生姜焼きを頼むことにした。豚の生姜焼きは自分にとって試金石的メニューで、これがおいしければその店は合格、と決めているのだ。

「じゃ、生姜焼き定食」

「ん。……サービスと、生姜焼き」

 片手を上げて注文すると、カウンターの向こうの厨房から威勢のいいオウム返しが返ってきた。

「あ、飯減らすか?」

「えっ?」

「ご飯。多いで、ここの」

 言われて辺りを見ると、確かにご飯茶碗そのものが大分大きい。

「……いや、いいです」

 でも本当に急激にお腹がすいてきていたのと、何となく意地のようなものがむくむくとわいてきて首を横に振ると、相手がくすんと笑った。

「ほな頑張り。見て後悔しなや」

 後悔って大げさな、と思ったが、程なくして出てきた定食は、確かに半端ではないボリュームだった。

「……すごい」

 が、とは言え、それでもわたしの方の定食は、おかずもご飯も大盛り、程度のレベルだったが、相手側に出てきたサービス定食なるものの量のものすごさに、わたしは目を丸くする。

 お盆の上にはサラダとハンバーグが乗った皿に加えて、焼き魚の皿、煮物の小鉢に冷や奴、漬け物の小皿にお味噌汁、そしてもう殆ど「ミニ丼」と言ってもいいようなサイズの茶碗にどんと盛られたご飯。

「美味いねん、これ。……いただきます」

 その超重量的定食を目の前に、実に嬉しそうに両手をすりあわせると相手がおもむろに食べだすのに、わたしも慌てて「いただきます」と手をあわせて食べ始めた。

「……おいしい」

 口に入れたそれは自分の理想の生姜焼きよりも少し甘めではあったが、生姜と油の効いた、まさに「お腹を減らした学生狙い撃ちの味」だった。

「やろ? ……あ、忘れてた、ビール」

 やたら嬉しそうに言いながら、相手は通りがかったおかみさんに注文して。

「はい、コップは?」

「二つ。……飲むやろ?」

「えっ? いえ、いいえ」

 当たり前のように言われて、わたしは慌てて首を横に振った。

「え、なんで」

「いや、だってわたし、まだ未成年です」

「え、そうなん?」

 わたしの答えに、相手は拍子抜けしたような声を出す。

「え、だって、今二回生やんな」

「そうですけど、早生まれですから。まだ十九です」

「って、いつ?」

「二月十三日」

「あと五ヶ月やん。構へんやろ、それくらい」

「駄目ですよ」

 何と言うか、こう、あまりにも向こうのペースにひきずりこまれているのにどうにか抵抗したく頑なに断ると、相手が呆れたように首を振って、出てきたビールを自分のグラスに注いだ。

「かったいなぁ……」

 ぼやくように呟いて、ひと息にくいっとグラスをあけて。

「……あー、天国や」

 口の中で満足そうにひとりごちるのに、ついくすっと笑ってしまった。

 相手が笑みの残った目で、ちらりとこちらを見る。

「……ほな、誕生日になったら死ぬ程飲ますしな。覚悟しいや」

 そして、さらりとそう言った。

 一瞬、息が止まった。

 顔を上げて見ると、相手は何ということもなく、平然とした様子でどんどん箸を進めている。

 先刻、店の人に「姪っ子」と紹介された時に胸の内ににじんだあたたかさが、またじんわりと戻ってきた。

 そのあたたかみを抱え込んだまま向かいを見つめていると、相手は恐るべきスピードでぐいぐい飲んで、がんがん皿を空けていく。

 あの細い体の、一体どこに入ってるんだろう……。

 その凄さについ箸を動かすのを忘れて呆れながら見ていると、相手が何杯目かのビールを飲み干して、かん、とグラスを置いてこちらを見た。

「なんや、やっぱ食えへんねやろ、それ」

 言いながら、行儀悪く箸先でついっとこちらの茶碗を指す。

「寄越せ。食べたるわ」

 言うが早いが手が出てきたので、わたしは咄嗟に、ぴしっとその手の甲をはたいてしまった。

「ってえ……」

「駄目です。食べます」

 取られないように急いで茶碗を抱え込んで早口に言うと、相手は目をまん丸にしてわたしを見た。

 そして、勢い良く吹き出す。

 椅子の上で体を曲げて笑い出す相手に、店内の他のお客さんも、店の人もびっくりしたようにこちらを見た。

「なっ……」

 わたしは驚いたのと恥ずかしいのとで、顔が一瞬で真っ赤になるのを感じる。

「ちょっ、もうっ、何笑ってんですかっ」

「いや……ごめ……」

 笑い過ぎて軽く咳き込みながら、相手がようよう、顔を上げた。咳き込んだせいか相手の顔も真っ赤になっていて、薄く目尻に涙すら浮いている。

「自分、ほんまおもろいわ……佐和さん自慢するだけあるわ、ほんま」

「面白くないですよ。ごく普通です」

 相手の言葉に、つい口をとがらせてしまった。だってどう考えたって、今のわたしの行動は正当防衛と呼んでしかるべきものだったし。

「いや、こんな笑たん、久々や……ああ、気分ええ」

 実に上機嫌でそう言う相手に何となく釈然としない気持ちを抱きつつも、また取られるとかなわないのでピッチを上げて箸を動かす。

「ああ、もう取らんて取らんて、心配すな。あぁ、ほんまおもろいな自分」

 相手はなおも喉の奥でくっくっと笑いながら、残り少ない自分の皿に箸を伸ばした。

 どうも納得できないぞ、と思いつつ、わたしはそれでもやっぱり、わずかに急ぎ気味にご飯を平らげた。



「はい、お勘定。……ごっそさん」

 こっちを全く構わぬまま、レジでさっさと財布を出して二人分のお金を払ってしまうと、相手はどんどんお店を出てしまった。 

「あ、あの、お金」

 わたしは慌てて、鞄から財布を引っ張り出しながらその後を追う。

「あほか。しまっとけ」

 いらんいらん、と相手はひらひらと手を振って。

「いや、でも、そういう訳には」

「しつこいな」

「だって、奢られる理由がないですもの」

 食い下がると、相手は少し足をゆるめて、呆れたようにわたしを見下ろした。

「あんなあ……ああ、そしたらお駄賃」

「え?」

「何度もお使いしてもうたしな。お駄賃」

 最初に逢った日と同じ言葉を言って、相手はまた軽く手を振って。

「はあ、まあ、それなら……ごちそうさまでした」

 ぺこり、と頭を下げると相手は喉の奥でくっくっと笑った。

「こういう時には、男に財布持たしとくもんやで。……大体、子供に金なんか出させられるか」

「子供じゃないですよ」

 唇とがらせて反論すると、相手が唇の端をにやりと持ち上げて笑った。

「子供やろ。未成年やし」

 完膚無き返しに、うっ、と言葉が詰まってしまう。

「……来年は二十歳です」

 それでもくじけずに言い返すと、背を折って相手が吹き出した。

「ああもう、ほんま、ああ言えばこう言うな自分……」

 もう、なんか、こんな短時間にここまで笑われたのは人生初という気がして、本当に納得がいかない。

「……笑い上戸」

 ぼそっと呟くと、笑顔のまま相手が振り返った。

「ん、何?」

「何でもないです何でも」

 ぷい、と首を振ると、わたしは足を速め――あ。

 先刻、相手の家から出てきた筈の路地を、もう過ぎてしまっている。

「あれ、家あっちじゃ」

「ああ、送る送る」

 軽く手を振って、相変わらず機嫌良く相手はわたしの前をどんどん歩いていってしまう。

「え、大丈夫ですよ。判りますよ、道」

「あほか、この辺、結構物騒やぞ。チャリならまだしも、夜に歩きで若い女の子ひとりで帰らせられるか」

「え、そうかなあ……」

 まあ確かに暗く人も少ない道ではあったが、特に怖い目にあったこともなく、わたしは首を傾げる。

「自分知らんしや。……学校はチャリ通やんな?」

「はい」

「ほなええ。仕事も、遅なんなら近くてもチャリ使いや」

「はあ」

 まだぴんと来ないので、曖昧に答えながらも、何だか嬉しくなった。実にまともに、真正面から心配されている、その感覚が温かくて。

 やがて家のすぐ近くまで来ると、相手はやっと、煙草を出してくわえた。

 けれど火はつけずに、唇の端でぶらぶらさせたままにしている。

「それじゃ、おやすみなさい」

 煙草は嫌いだけど、早く吸わせてあげたい、という気分で急いで言うと、相手が煙草を指に戻した。

「自分、マグカップ持ってる?」

「えっ?」

 実に唐突に言われた言葉の意味が掴めず、聞き返す。カップ?

「家に余分なカップないか」

「えっ、いや、それは……ありますけど」

 相手の意図が全く理解できないまま、わたしは答えて。

「ほな一個持っといで」

「……なんで?」

「ええから」

 有無を言わさぬ口調で言うと、相手はまた唇に煙草を戻してライターを取り出し、カチッと火をつけた。

 わたしは仕方なく、相手をそこに残したまま家に入って部屋に上がると、食器棚を覗き込んで。

 実のところ、カップを集めるのは割と好きなので数はそれなりにある。だけど一体、何に使うのだ?

 悩みつつ、手前の方にあったものをひとつ手に取った。真ん中がくびれた鼓のような形の、宇宙飛行士の格好をしたスヌーピーがプリントされている大振りのカップだ。

 両手でそれを持って、すとすとと階段を下りる。

 玄関を出ると、くわえ煙草で相手が振り返った。

 カップを差し出すと、片手で受け取ってぐるっと模様を眺め、ちらりと笑みを浮かべる。

「ほな、これウチ置いとくしな」

「えっ?」

「来た時要るやろ。……ほなな」

 呆気に取られたわたしを残して、相手は手を振ってくるりと背を向けた。

「……あ」

 不意に、電撃のように悟る。

 ああ、認められたのだ。

 いつでもおいで、そう言ったのだ。

 向かいに、座ることを……何の理由もなくともいつでも訪ねていくこと、向かいに座ってただお茶を飲む、その為だけに訪ねていくことを、こうしてはっきり、許されたのだ。

 荷物なんかなくてもいい、いつでも懐に入ってきて構わない、むしろ来い、そう、その背中が言っていた。

 今日何度か感じた胸の温かさが、熱い塊になってじんわりと甦った。

 背が遠くなっていく。

 わたしは大きく、息を吸い込んだ。

「――シンさん」

 呼ぶと、相手が足を止めてわずかに振り向いて。

 闇の中に、煙草の火だけが赤く光っている。

「今日は、ごちそうさまでした……おやすみなさい」

 言って、大きく頭を下げると、赤い火がわずかに揺れた。

「おやすみ」

 声だけがして、また、背中が遠くなっていく。

 揺れる火が角に消えるまで、わたしはそれを見送っていた。

 

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