第一章(前)・出逢い
伯母からその奇妙な依頼があったのは、京都で就職が決まったので、来年短大を卒業してももう実家には帰らない、と伝えた一ヶ月後、九月も初めの頃だった。
わたしの就職先のすぐ裏手に住んでいる知り合いに、箱を届けてほしい、と言うのだ。
「……箱?」
オウム返しに聞き返すと、電話越しながら、伯母が大きくうなずく気配が伝わってくる。声も身振りも、何でも大きくて大げさなひとなのだ。
『あたしが送りたいものをその中に入れておくから、あんたは開けずに、そのまま届けてほしいのよ』
「なんで直接、相手宛に送らないの?」
と、わたしは伯母に聞いた。我ながら至極真っ当な問いだ。
『駄目なのよ、あの子、家にいるんだかいないんだか、送っても送っても届きゃしなくて、宅配便の人が諦めちゃうんだ』
「一体、それどういう人なの」
些か呆れて尋ねた言葉に返ってきた答えに、わたしは心底、度肝を抜かれた。
『あんたのおじさん』
「おじさん?」
また、思い切りオウム返しをしてしまい――何故ってうちの母親はひとり娘だし、父親は件の伯母と二人姉弟で、そこに「おじ」なんてものの入る余地など無い筈なのだ。そりゃ伯母の旦那さんだって自分にとっては「伯父」だけれど、勿論その「伯父」は伯母と二人暮らしなので京都にいる訳がない。
『あたしと純一の弟』
「いやっ、て、ちょ、ちょっと待って」
『あらあ、千晴、あんた知らなかったのお』
大仰に言う伯母の声は、わたしが知らなかったことを絶対に知っていた声で……全く、ほんとにどういうひとだ。
「あの人に弟がいたなんて聞いてない」
『まあ、純一はあの子の存在、認めてなかったからねえ……』
伯母の声がわずかにトーンダウンして。
『あたし達の母親、あんたのお祖母ちゃん、知ってるでしょ』
「……うん、まあ」
その声につられるように、わたしも声を落とした。
正確に言うと、わたしはその父方の祖母を「知っている」とは言えない。
ただ、子供としての伯母と父がいる、ということは生物学的に母親がいたに決まっている、それだけのこととして「そういう人がいたことを知っている」に過ぎないのだ。
他に知っているのは、散々父親から聞かされたたったひとつだけ――「あの女は俺を捨てて、家を出ていった」。
「じゃ、もしかして、その弟って」
『あんたは呑み込みが早くて助かるね』
先刻トーンダウンした気配はどこへやら、伯母がずいぶんと満足そうな声でそう言った。
『どうもねえ、うちを出てった後、あっちこっちで男とつきあっては別れて、って繰り返してたみたいなんだけど、最終的には京都に落ち着いて、でもそこで病気で亡くなってね』
「へええ……」
実のところ、生死すら知らなかった祖母の最期の話なんぞを突然に聞かされても、どうもまるでテレビドラマを見てるみたいで、わたしには他人事のようにしか感じられなかった。何と言うか、壮絶な人生だなあ、といった程度の感想しか抱くことができない。
『で、その直前に母親本人が連絡取ってきた訳。その時リュウジは、まだ中一でさ』
「リュウジ?」
『あんたの叔父さん』
一体それは何年前の話なんだ、という疑問が胸をよぎったが、伯母は合間をおかずに話を続ける。
『その時には父さんはもう亡くなってたし、純一は「それがどうか?」って感じで全く無関心でねえ』
あの人らしい、皮肉と苦笑まじりにそう呟くと、伯母は小さく息をついた。
『まあ正直に言って、あたしも母親本人がどうなろうがそれは本人の自業自得だろうと思ったんだけどさ、でも子供はそういう訳にはいかないしねえ……だって、いくら父親が違うったって、一応は自分達の弟な訳だしね。放っとくなんて、寝覚めが悪いじゃないか』
こっちはこっちで実に伯母らしく、今度ははっきり、本物の微笑が口に浮かぶのが自分で判った。口はうるさいが、鷹揚で磊落で面倒見が良い伯母が、わたしは昔からずっと好きなのだ。
『あたしはその頃はほら、最初の結婚で旦那とアメリカで、まあ子供もいなかったし、じゃあたしが面倒見よう、て言ってさ……でも本人がこっちに来たがらなかったんで、中学と高校は里親さんとこから、大学は寮から通って、仕事見つけた後もそっちに住んでるんだよ』
「ねえ、それ、いつの話?」
『ええっと、あたしが三十何歳かの時だったから、十五、六年前くらいかねえ』
聞いた瞬間、軽く目眩がした。てことはつまり、当時は既に、わたしは生まれてたってことじゃないか。しかもその時に中一ということは、相手は今もまだ三十手前な訳だ。
「それ、全然知らなかったんだけど」
『だからさ、純一が徹底的に無視してたから。一度だけ、相続関係で顔を合わせたんだけど……そりゃもう、ひどくってさ』
判るでしょ、と言いたげな伯母の声で、確かに判った。あの人は、自分が一度完全に「不要」と切った相手は、本当にすべてを自分の人生から排除するタイプなのだ。おそらくまだ子供の当人に向かって、ろくでもないようなふるまいをしたのだろう。
『だからその後も、リュウジとつきあいがあったのはあたしだけなんだよ』
「そうなんだ……」
寝耳に水の話に驚きながらも、ふと疑問が浮かぶ。
「伯母さん、じゃなんで今頃わたしに話したの?」
『ああ、うん』
電話の向こうの伯母の声が、何となく苦笑いを含んだような響きに変わる。
『いやね、あんたの就職先の場所見てみたら、ちょうどあの子んちのすぐ表でさ、ああ、て思ったのと……あんたがそっちで就職決めてきた、って言うからさ』
咄嗟に伯母の言葉の意味が判らず、わたしは首を傾げる。
『そっちで就職決めた、てことは、もう家には帰らない覚悟でいるんだな、て思った訳』
伯母の言葉に、一瞬唇が引き締まった。
「伯母さん、わたしが実家に帰ると思ってたの」
我知らず、つい言葉がきつくなるのが判る。自分でもいけない、と判ってはいて、止められない瞬間だ。
『いや、そうは思ってなかったけど、今は氷河期だって聞くし、ことは働き先だからさ。どうしたってそっちで見つけられない、てことだって無い訳じゃないだろ』
「のたれ死んだって帰らないよ」
ああ、駄目だ、そう思いながら、自分の口から出る言葉が弾丸のようになるのを止めることがどうしてもできない。
『判ってるよ、だからさ……もしそっちで仕事口が見つからなかったら、うちに置いてあげてもいいなと思ってた訳』
カリカリに尖っていた気持ちが、思いもよらない伯母のその言葉に一気にへし折られた。
「……伯母さん」
『でもそれだって、やっぱり家との繋がりは近い訳だから、結局はあんたの人生とは無関係の叔父の存在なんてわざわざ言わなくてもいいか、と思ってたんだよね。でも、あんたがそっちに残る、って言うからさ』
言葉を殆ど聞き流しながら、わたしは喉の奥の熱い塊をごくん、ごくんと飲み込んでいた。どうしても発することができない、ごめん、と、ありがとう、という言葉と共に。
『だったら今度は逆に、あんたの実家はあんたとまるぎり関係なくなる訳だから、じゃそっちにいる叔父さんと近しくなる、てのはあんたにも悪くないんじゃないかと思った訳。……それにさ』
わたしが何も言えずに、ただ棒のように立ち尽くしていると、伯母の声がふと、やわらかな笑みを帯びた。
『似てるんだよ、あんたとあの子』
「……えっ?」
やっと口から小さく出た声に、伯母は今度は軽く声を上げて笑った。
『こっちには来る気無い、てはねのけた時のあの子と、家には帰らない、て言うあんたとさ……似てんのよ、すごく』
受話器の向こうから響いてくる伯母の明るい笑い声に、わたしは何だか、足元から血がのぼってきて、全身がかあっと熱くなるのを感じていた。
わたしの就職先であるそのホテルは、京都駅から少し西の大通りに面したところだった。
二十一世紀が始まって数年、就職氷河期真っ只中の時分、実のところ深く考えて決めた就職ではない。
今住んでいる家が、ちょうどそのホテルとJRの線路を挟んで南に少し下がった辺りにあったのだ。
今のアパートは古ぼけた木造ではあるが二間続きでとても住みやすく、就職にあたってそこを動きたくなかった。いわゆる「京都式」の高い更新料が無いことも魅力で、それも引っ越しを思い留まらせる一因となっていた。
だから、わたしが就職課で情報を探す際の最優先事項は、「通勤可能圏内」だった。
そこで出逢ったこのあまりにも近距離案件に、「とりあえず試しに」と応募したところ、あっさりと内定が決まってしまい、それ以上の活動も面倒になってここで手打ちしてしまったのだ。
だからと言って、取り立てて後悔とか迷いとかは無かった。
例えば極端な力仕事やパイロットのような、自分の今の腕力や資格では不可能な仕事にはそもそもつくことができないし、医者とか教師とかはたとえ資格があっても自分の性格的に無理だと思うけど、そういう極端なものでない「ごく一般的な仕事」であれば、業種や内容は何だって自分には良かったのだ。
とにかくあの家に帰らないで済むのであれば。
あそこから自由になれるのなら、仕事なんて何だって辛くなどない。
伯母からの荷物は、あの電話の数日後に届いた。
その箱のやたらな大きさに、玄関先でわたしは度肝を抜かれた。両腕で一抱えはある。
恐る恐る受け取ってみたが、見た目の印象程は重くなかった。
玄関の上がりかまちに箱を置いて、その場で開けてみる。
「……うわあ」
開いた瞬間、鼻の先にふわあっと甘酸っぱい香り。
林檎だ。
箱の中には、最初の箱の1/3くらいの大きさの箱がひとつと、その周りを埋め尽くすように、一面に鮮やかな朱色の林檎が納まっていた。
「きれい……」
ひとつを手に取ると、ひんやりと冷たくつやつやの表面を、そっと頬に押しつけて深く息を吸い込んでみる。
胸の奥まで、爽やかさが一杯に広がって、何故だか泣きたくなった。
「ありがとう、伯母さん」
声に出して小さく呟くと、わたしは林檎を置き、中に手を突っ込んでその箱を取り出してみた。
ひら、とその後から白い封筒が一枚落ちる。
「?」
取り出した箱を一旦脇に置いて、わたしは封筒を拾い上げた。
表には伯母の字で、『千晴へ』と書かれている。
封をされていない中を開いてみると、伯母からの手紙だった。
中にはこの箱を開けずに相手の家に届けてほしいこと、その旨は伝えてあるから、持って行く時は特に相手に連絡は要らないのでいきなり行って構わないこと、その際に入れてある林檎を多少お裾分けしてあげてほしいこと、そして相手の家の地図に加え、その名が記されていた。
森谷竜司。
わたしは、生まれて初めて目にするその「叔父」の名を、つくづくと眺めた。
もりたに、なのか、もりや、なのか……それにしてもこの家の場所、確かに就職先のすぐ裏手だ。歩いても五分とかからないだろう。うちよりも近い。
とは言え、そういう自分の家だって就職先まで歩いて十五分もかからないのだから、すなわち、うちとその相手の自宅とは相当に近いのだ。下手をしたら、駅や近所のスーパーなんかで出逢ってる可能性もある。
よく一年半も黙ってたもんだな、これ、伯母さん……。
わたしは少々呆れながら、その手紙を封に戻した。
とりあえず相手方に渡す箱はその場に置いて、林檎の入った箱の方をよいしょ、と抱え、とんとんとん、と階段を上がると――うちのアパートは少々変わっていて、二階建てなのだが、二階の部屋の玄関もすべて一階にあり、家の扉を開くと目の前がいきなり階段、という構造なのだ――部屋に入って。
座卓の上に箱をどん、と置き、ひと息つく。
しかし、それにしても、「いきなり行っていい」たって、ねえ。
鮮やかな赤色の林檎の上の白い封筒を見ながら、わたしは首をひねった。
確かに先刻持ってみた箱は、かなり軽かった。家も近いし、万一、相手方が不在でも持ち帰るのにそれ程面倒ということはない。
それにしたって、連絡くらい入れなくていいものなのか?
手紙には家の地図と相手の名前はあったが、電話番号は無かった。
伯母に聞いてみるか、と一瞬思ったが、すぐ頭を振った。「連絡は要らないって言ってるんだから、連絡なんかしなくていいのよ」と言って教えてくれないに決まってる。
多分、何か訳があるんだろう。
わたしは林檎を十個程取り出すと、台所に行って適当な紙袋にそれを放り込み、髪をきゅっと白いシュシュで縛った。
気がかりなことを溜めておくのは嫌いだ。
すぐ、行こう。
自転車の荷台に箱をくくり、かごに紙袋を放り込むと、わたしは相手の家へと向かった。
就職先は大きくまっすぐな表通り沿いだけれど、裏にまわると途端に細い路地ばかりとなる。
その、車一台半程度の幅の細い道路から、更に細く入り組んだ路地。
「ここ……?」
わたしは自転車を降りて、その辻を覗き込んだ。
この道はあまり通ったことはないがそれでも初めてではない筈なのだけれど、こんな横道がついているなんて気がつきもしなかった。それにしても、万一迷った時のことを考え自転車で来てみたけれど、ここが正しいのならこれは本当に近い。
人が二人並んで歩くのがぎりぎりくらいのその辻に、自転車を引いて入ってみる。
左手は家の壁、右手には平屋の長屋が何軒か続いて並んでいる。
相手の家は、この長屋の一番奥の筈だ。
その途端、耳をつんざくような金属音が響いた。
わたしはぎょっとして、つんのめるように立ち止まる。
確かに、ここからだ。
ちょうど真横の家、四軒並んだ奥から二番目の長屋の中から聞こえる。
チュイーン、という、工場でよく聞くような、金属を削る音。
「何、これ……」
わたしはいぶかしげに扉を眺め、その上に小さな真鍮の板を見つけた。
『 工房 SHIN 』
手の平にすっぽりおさまるくらいの真鍮の板に、黒くそう文字が刻まれている。
「シン……?」
ちょっとひっかかったが、伯母が記した家の場所は、ここではなくこの奥隣の筈だ。
わたしは気を取り直してその「叔父」の家の扉を見たが、そこには表札ひとつかけられていなかった。勿論、ドアベルなんざ無い。
なんて不親切な……。
わたしは途方に暮れつつも、とりあえず自転車を一番奥まで引っ張った。
路地はまだまっすぐ西へと続いていたけれど、その長屋の端に北に曲がる更に小さな辻があったので、その隅に自転車を立てかけて停めて。
その間にも隣の家からは金属音が間断なく続いていたけれど、とにかく紙袋と箱を持って、長屋の扉を叩く。
「こんにちは」
音に負けじと声を上げてみたけど、中から返事は無い。
「こんにちは」
本当はこの後に名前を続けて呼びたかったが、名字の読みが判らないので呼びようもなかった。下の名前の読みは判っているけど、さすがにそれは気がひける。だからと言って、「叔父さん」などと呼べる筈もなく。
「すみません、おられませんか?」
音に張り合って声を上げて扉を叩いていると、何だかいらっとしてきた。
伯母がどういう伝え方をしたのかは知らないが、いつ来るか判らない相手が来るんだから家にくらいちゃんといてくれないと、困るのはこっちだ。
いや、でも、いるのかも……聞こえてないのかも、この音だし。
わたしは扉を叩くのをやめて、くるっと隣の玄関を向いた。
「すみません」
とんとん、と隣の家の扉を叩いて、声を上げる。
「すみません、一度静かにしていただけないですか」
やはり聞こえていないのか、いっこうに音は止まない。
「もう……」
だんだん本当に苛々してきて――大体、こんな家の密集したとこでこの騒音って、どういう神経だ――わたしはそれ以上断る気が失せ、いきなりガラッと引き戸に手をかけて開いた。
音が更に大きくなる。
「……うわ……」
わたしは扉に手をかけたまま、一瞬棒立ちになった。
思いもよらない、広い空間が広がっていたのだ。
外見はごく何ということもない長屋の引き戸なのに、中は奥までどんと抜けた、十五畳くらいの、一面がコンクリートの床の土間になっていた。
真ん中に、あれこれ物の散らばった大きく古ぼけた木のテーブル。その周辺に、革張りの丸椅子やパイプ椅子が無造作に三、四脚。
床には金属の板や、わたしには何かよく判らない機械が入った箱が幾つも置かれていて、壁一面にみっちりと様々な工具が並べられている。
左手、「叔父」の家がある筈の側の壁は、床から五十センチくらいの位置にすりガラスの引き戸が三枚、閉まっていて、その手前の床には大きな沓脱ぎ石。
壁も何もなく、まっすぐにぶち抜かれた部屋の奥には、台所の流しと、その左手にトイレらしき木の扉、右手には勝手口のようなサッシの扉。その隣の壁際に洗濯機、その手前には小さな冷蔵庫とカラーボックスが並んでいる。
玄関の脇、すなわち路地に面した側の壁の窓の下には、子供の勉強机のような小さな机があって、何かの機械や工具が置かれていた。
そして、その奥の床。
部屋の真ん中のテーブルの脇に、細い、けれど大きな背中があった。
「…………」
こく、と勝手に喉が鳴る。
床に置かれた低い椅子に腰掛け、壁に向かって、相手は何か一心に手を動かしている。
「……あんた、佐和さんの?」
と、突然その背中から声がして、わたしは飛び上がった。
「えっ……」
その瞬間、初めて、いつの間にか音が止まっていたことに気がつく。
かたん、と何かを置く音がした。
背中が、のっそりと立ち上がる。
背が、高い。
わたしの頭が肩の下にくるくらいの、おそらくこの古い長屋の扉は頭をかがめないとくぐれないくらいの高さの頭。
それが、ゆっくりと振り返った。
わたしはその雰囲気にのまれて、ただ立ちすくんだまま相手を見上げて。
……目つき、悪い。
目の前に立った相手の、それが第一印象だった。
肩幅は広いが細く痩せた体をして、顔も細面、麻らしい無地の長袖のTシャツを肘までまくりあげ、黒い髪は固そうに短く立っていて、――そしてやっぱり、目つきが悪い。
わたしがそんなことを思っていると、相手はすたすたと歩いて、わたしの正面に立った。
「……ああ、やっぱりや」
そして、わたしが両手に抱えているものを上から見下ろすと低い声で小さく呟いた。
それではたと我に返る。
「あ、あの、わたし」
「うん、聞いてる」
相手はひょい、とわたしの手の中から箱と紙袋を取り上げて、テーブルの上に置いた。
「佐和さんのお使いやろ」
佐和、は、伯母の名前だ。
「はい、そうです」
わたしは安心して、大きくうなずいた。
ということは、やはりこの人が「叔父」なのだ。そしておそらく、この長屋を二軒続きで持っていて、片方が家、片方を工房として使っているのだろう。
「全く、あのひともなぁ……」
相手は口の中でぼそぼそとぼやきながら、ジーパンのポケットからくしゃくしゃになった煙草とライターを取り出し、火をつけた。
……うう、煙たい。
煙草が苦手なわたしは、つい顔をしかめる。
それに気づきもせず、相手はくわえ煙草で箱のガムテープをぴーっとはがし、中を覗き込んだ。
「…………」
眉根が寄り、細い目が更に細まる。
一体、中身は何だ?
一瞬煙たいのも忘れて身を乗り出すと、眉根を寄せたまま、相手が中から、何かを取り出した。
「え……?」
――バッグ。
ブランド物の、ボストンバッグだ。
わたしは目を丸くした。
一泊旅行に使う程度のサイズのそれは、まあ絶対とは言わないが、普通は男の人が持つようなものではなくて、しかも見た感じ、どう見ても新品ではなく何だか古ぼけた、というか……何だろう。
知らず、わたしも眉間に皺が寄っていた。
何となく、気持ち悪い。
使い古された雰囲気の表面が、妙にぬめっとしているようで、何とも言えずいやな感じだ。
伯母さん、一体、何考えてるんだ……何だってこんなもの、人に送りつけるのだ?
相手はバッグをテーブルの上に置き、開いて中を覗き込む。
こちらから見える範囲では、中は空っぽに見える。
「……ふん」
鼻をひとつ鳴らすと、相手はさっとバッグから顔をそむけ、テーブルの上の灰皿に煙草を押しつけた。
紙袋の中の林檎に手を伸ばしかけ、ふとその手の汚れに目を落としてさっと奥の流しへと歩いていく。
わたしはその隙にそっと、そのバッグに近づいた。
やはり中は空っぽのようで……でも、奥にも何にも、無いのだろうか。
正直、触りたくない。何かねとっとしたものが指につきそうで。でも気になってたまらない。
「――触りなや」
バッグの口を開こうと手を伸ばしかけた瞬間、奥の背中から声がした。
わたしは電撃に打たれたように立ち止まる。
相手はこちらに背を向けたまま、流しで手を洗っていた。
伸ばした手を空中で止め、その背中を息を詰めて見つめる。
きゅっ、と水道を閉める音がして、相手がこちらに向き直ると、首にかけた白いタオルで手を拭きながら戻ってきた。
「そんなん触ったらあかん」
相変わらず厳しい目つきでそう言いながら、相手はわたしとテーブルの上のバッグの間に割り込むようにして立った。
「でも、今、開けて」
やっとのことでそれだけ言うと、相手がわずかに、歯を見せた。
「俺はええねん。自分はあかん」
――この、二人称が「自分」になるのがこっちに来た当初はかなり混乱したが、さすがに一年半もいるとすっかり慣れた。ごく稀に、ワンセンテンスの中で自分自身のことも相手のことも等しく「自分」呼びだったりすることもあるのだけれど、微妙な響きの違いがあって聞いていれば自然と判別がつく。
つまりこの場合、「俺は触ってもいいがお前は駄目だ」と言っているのと同じで――でも、なんでだ?
判らないので、そのまま口にする。
「何故ですか」
「若い女の子が触るもんと違う」
わたしは訳が判らなくなり、その場に立ち尽くした。
古ぼけてはいるが、どう見ても女物のバッグなのに。
相手は、まるで何か壊れ物を扱うような慎重な仕草でバッグを手に取り、そうっと再び箱の中に納めた。
そしてその箱を持ち上げ、隣と繋がった引き戸に歩み寄る。
がら、と引き戸を開けると、向こうの家の中がちらりと見えた。
引き戸の向こうは廊下になっていて、その奥に襖が見える。
襖は閉じられていて、中は判らなかった。
相手は廊下に箱を置くと、そこに無造作に投げ出されていたジージャンを手に取る。
ポケットから茶革の財布を取り出して中を覗き込むと、ああ、とかすかに舌打ちして、こちらを向いた。
「あんた、携帯持ってる?」
相手の動きをただ見守っていたわたしは、急に尋ねられてはたと我に返って、すぐに「いいえ」と首を振った。
相手の細い目が、驚いたようにちょっと大きくなる。
「あそう、えっと、そしたら、テレカ持ってへん?」
「え、ちょっと待ってください……」
自分の財布を取り出して中を覗き込む。ああ、しまった、テレホンカード、こないだ使った後に別の上着のポケットに入れたままだ。
頭を左右に振ると、相手は困ったように首をひねった。
「十円玉多少無いやろか、これ、替えて」
そう言うと、自分の財布から百円玉を出してこちらに差し出してくる。
「え、でも、今、あんまり……これだけ」
わたしも慌てて財布を覗き込んで、ようやくあった七枚全部を、相手に手渡した。
「ああ、まあ、こんなけあったら充分やろ……ありがとう」
ひょい、と百円玉をこちらに渡すと相手は財布をテーブルに投げ出し、十円玉だけを手に持ってさっさと玄関に向かっていく。
「え、でも、わたしお釣り無いです」
渡された百円玉を慌てて突き返すと、今しも玄関を出ていこうとしていた相手が、顔だけ振り返って唇の端をちょっと曲げて笑った。
「ええよ、そんくらい……お駄賃」
そう言って、がらりと引き戸を開けて出ていく。
「え、ちょっと待って」
わたしは慌てて、後について外に出た。
相手はジーパンのポケットに両手をひっかけて、すたすたと歩いていく。
「あの、家、鍵」
「ええねん、すぐそこ」
辻を道路に出ていくと、正面にある煙草屋に向かって。
その店先に、緑の公衆電話があった。
相手は電話にまず一枚だけ十円玉を落とし込んで、煙草をくわえると素早く番号を押す。
――伯母の番号だ。
わたしはそのすぐ横に立って、小さく息をのんだ。
「……あ、もしもし? うん、俺」
相手は話しながら、十円玉を一枚ずつ硬貨口に押し込んでいく。
「うん、受け取った。……うん、あれはな、あかんわ。ようせん。無理や。……うん、こっちで処分しとくし。……ん、判った。ほな……ああ」
言葉を切って、急に相手がこちらを見た。
「……うん、おるよ」
こっちを見ながらの言葉に、胸がどきんと鳴る。
「佐和さん」
相手はわたしに向けてそう言って、こちらに受話器を差し出した。
わたしは黙って、それを受け取る。
相手はライターを取り出し、煙草に火をつけた。
『千晴?』
受話器の向こうから伯母の声がする。
「うん、伯母さん?」
と、その瞬間、相手が目の前で盛大にむせた。
わたしは度肝を抜かれて黙り込む。
『もしもし? 千晴?』
一体、何だ……どうしちゃったんだ、この人?
長い体を折るようにして、激しく咳き込んでいる相手に、わたしは目を丸くした。何だろう、これ……笑って、るのか?
『千晴? どうしたの?』
受話器の向こうの伯母の声に、わたしは我に返って。
「あ、うん、ごめん、何でも」
なくはないんだけど、まあわたし自身は何でもないのでいいか。
『わざわざありがとうね。家、すぐ判った?』
「あ、うん、近かったし。ねえ、それより伯母さん」
あのバッグ、何?
そう聞こうとした瞬間、硬貨切れのブザーが鳴った。
「あ、ごめん、切れる……」
言い終わらない内に、電話が切れてしまう。
ああ……。
わたしは切れた受話器を見つめて、小さな息をついた。
「切れたん?」
ようやく咳が治まったらしい相手が、こちらを覗き込みながら聞いた。余程咳が激しかったのか、目の縁がにじんだように赤く、けれどもそのまなざしがほんのりと笑いを含んでいる。
その姿は最初のきつい印象と大分違っていて、わたしは相手の顔をもう一度見直した。
「悪かった、切れてしもたな」
相手が言うのに、わたしは慌てて首を振った。
「いえ、別に……それよりそちらこそ、切れてしまって、良かったですか」
「ええねん、用件済んでる」
あっさり言うと、相手は少し肩をすくめて、またさっさと道を渡って辻に入っていった。
わたしは少し遅れてその後に続く。
引き戸を開けて中に入ると、相手は煙草を灰皿でもみ消した。
「いっつもああ呼んでんの?」
「えっ?」
「佐和さん」
振り返ったその細い目は、やはりいたずらっぽい輝きを放っている。
「はあ、だって、伯母ですから」
「そうかー……」
テーブルに片手をついて、片手を口に当てると、相手はさも可笑しくてたまらない、という様子で、下を向いてくっくっと喉の奥で笑った。
「いや、あのひとな、俺には絶対、そう呼ばせんかったから……初めて逢うた時、『おばさん』言うた時のあのひとの顔ったら……」
言ってる内にますます可笑しくなったのか、笑い声で言葉が詰まる。
「二度とそんな呼び方したら承知しない、てさんざ怒られて……それがどんな顔して『おばさん』呼ばせてる思たら、もう可笑しいて可笑しいて……」
わたしは少々呆れた思いで、まだ笑い続ける相手を見つめ――けれど何だか、つられてこっちまで可笑しくなってきた。
何故なら、想像できたから。まだ三十過ぎの年若い伯母が、中一の男の子に「おばさん」と呼ばれて真剣に眉つりあげて怒ってる姿。外に男つくって、自分と家族を置いて出ていって何十年も連絡もなかった母親が、どこの誰とも知らない男との間につくった自分と二十歳も年の違う弟、それもつい先日にその母親を亡くした相手を前にして、そんなこと全部脇へ置いて、自分を「おばさん」と呼ぶことに真剣に怒っている、その姿が。
そして同時に、判った。
ああ、このひとは、伯母がとても好きなのだ。
わたしが心底からそうであるように、このひともきっと、その初対面からすぐに伯母が好きになったのだ。そうしてずっと、その温かさに触れる度に幸福を感じていたのだ。
その瞬間に、わたしはこの「叔父」のことを好きになっていた。
胸の中にあたたかいものが満たされるのを感じて、わたしは知らず、微笑む。
相手はようやく笑いを納めると、ちらっとこちらを見て、わずかに眉を上げた。
それから小さく息をつくと、さっと紙袋の中の林檎に手を伸ばして。
あ、と思う間もなく、きゅっ、とジーパンの表面で皮をこすると、かり、と音を立てて齧った。
部屋の中一杯に、さあっと霧のように香気が広がる。
「自分も食べぇや」
立ったまましゃくしゃくと林檎を齧りながら、相手は紙袋をこちらに押してきた。
「敏行さんとこの林檎、久々や」
伯母の今の旦那さん、すなわち血は繋がっていないが自分にとってはもうひとりの「伯父」の名を聞いて、わたしも思わず、林檎に手を伸ばした。地方でリンゴ園を営んでいるその伯父は、伯母と比べて随分と寡黙で、一見は頑固そうだが、本当はとても温厚で心の温かなひとなのだ。
相手の真似をして、薄手のセーターで皮をこしこしこすってその赤い表面に歯を当てると、林檎を齧りながらこちらを見ていた相手の目がわずかに微笑むようにすっと細められた。
林檎を食べ終えると、相手は当たり前のようにひょい、とわたしの手から芯を取り上げて、さっと沓脱ぎ石にサンダルを脱ぎ捨て、引き戸を開けて廊下に上がった。
襖が開かれる。
見えた、その向こうはどうやら和室のようだった。真ん中に座卓、部屋の隅に小さいながらテレビがある。
相手の姿は奥の方に消えた。多分、そもそもの長屋としての間取は同じものだろうから、隣も一番奥が台所なのだろう。
水音が聞こえてきて、わたしもはたと、自分の汚れた手に気がつく。
部屋の奥の流しに行って手を洗って振り返ると、同じように手を拭きながら、相手が廊下の端に腰をかけていた。
その姿を見ていると、聞きたかったことが聞ける気がして、わたしは口を開いた。
「あの」
相手がこちらを見やる。
「伯母のあの荷物、何ですか」
尋ねると、相手は一瞬、目を空に迷わせて、片手でまぶたをかいた。
「んー……」
言い辛そうに語尾を伸ばしながら、足元に視線を泳がせる。
「まあ……副業、みたいなもん」
「副業?」
「ん、何つうか……鑑定、かな」
「かんてい?」
「あかんもんかどうか」
その言葉がまさにその言葉のままなら、それは質屋の仕事みたいなものだった。物の真贋とか価値とかを判定する。
ただ、相手の言葉は、字面通りの意味では無い、という気が直感的にした。「あかん」という言葉の中に、ただ単純な「駄目」という意味以上の何かがある、そんな気が。
実際はそんなにじっくり考えていた訳ではなかったけれど、わたしは一瞬の内にそれを頭の中に閃かせ、同時に言葉を発していた。
「あのバッグ、気持ち悪い」
相手が大きく目を見開いて、こちらを見上げる。
「これだけどうしても教えてください。――あのバッグ、伯母の持ち物じゃないですよね?」
まじまじと相手はわたしを見つめ、やがてゆっくり、薄い唇の端にわずかに笑みが浮いた。
「違う」
その断言に、心の中の緊張が一気にほどける。
「あのひとの持ち物があんなんなる訳ない」
続けられた言葉に、知らず、大きくうなずいていた。その通りだ。伯母の持ち物なら、きっと皆、幸福そうに得意げに輝いている。
「古い知り合いにどうしても、て頼まれたらしいわ。正直俺は面倒くさいねんけど、佐和さんに頼まれたら断れへんしな」
相手の台詞に、伯母の言葉がはたと甦った。
「荷物、全然受け取らないって」
言うと、相手は困ったように軽く片手を振った。
「わずらわしいねん、俺、宅配とか……いちいち仕事の手止めんのもめんどいし、受け取ったらやらん訳にいかんし、やったら戻さん訳にいかんし。受け取らんかったら頼まれたことにならんやろ」
……いい大人が言うことか。
わたしはかなり呆れて、相手を見下ろした。
「そういえば、電話」
「ああ、あれもな、俺好きちゃうからそもそも持ってない……用あったら来たらいいねん」
「じゃ、なんでわたしが来るって」
「手紙」
今時手紙って……。
わたしは完全に呆れ返った。何と言うか、これは完璧に「変人」だ。
そんなわたしの表情を見てとったか、相手は片眉を上げた。
「そんなん言うけど、今時の女子大生で、携帯持っとらん子も充分珍しいんちゃうの」
思いもよらないところを突かれて、ついむっとする。
「欲しいと思ったことが無いですから」
本当に、正直にこれはストレートな気持ちなのだったが、何故か人には全く理解してもらえることが無くその度にわたしはうんざりしていた。要らないものは要らないのだ。
「なんで」
相手が興味深そうにこちらの目を覗き込んでくる。
少し意外で、わたしはその目を見返した。
何と言うか、こう……聞き返されることは初めてではないのだが、それはいつも、「ええ、どういうこと?」「何それ?」みたいな、つまりは「アナタおかしいんじゃない?」的なニュアンスを含んでいた。
こんな風に、ただただ素直に問われたのは初めてだ。
「わたし、わがままなんで」
それについ簡潔に答えてしまって、我ながら言葉が足りない気がしたので更に付け足す。
「わがままだし勝手だから、いつでもどこでも他人に好き勝手に電話かけられるなんて真っ平なんです」
「へえ」
相手は何故か、ひどく楽しそうな顔をしてわたしを見た。
「不便違うの」
「わたしが持ってなくても相手が持ってれば問題ないですもの。わたし、基本的に約束には遅れないし、もし万が一遅れそうなら、家の電話か公衆電話からでも相手の携帯にかければいいし」
「自分からはかけるんや」
「それはいいです。携帯を持ってる人は、他人に好き勝手に電話をかけてくる自由を許した人だと思ってますので」
至極真面目に答えているのに、相手は勢いよく吹き出した。
「何ちゅうか、さすがやな……さすが、あの佐和さん自慢の姪っ子や。見事な変人やわ」
つい先刻自分が内心で「変人」認定した相手に「変人」呼ばわりされるのは、どうも納得いかない気がする。
「変じゃないです。普通です」
真顔で反論すると、笑いながらも、相手は一瞬、ふっと目を細めて口を引き結んだ。
「そやな。まともや。筋がある」
でもそう言うと同時に、またくすくす、と笑う。
が、「まともだ」と言った時に一瞬よぎった真面目な表情と、笑っている、その様子が、何だか……先刻伯母の話をしながら笑っていた時と同じ、何の悪意も無い、逆にやわらかな好意の放射を感じられるものだったので、わたしは急激に反論する気を失った。
ああ、気に入られたのだ、わたし。
それがすぐに判った。
伯母と同様に、わたしもこのひとに気に入られた。
なんでそんなことがすっと判るのか判らなかった。けれどそれは、とてつもなく強固な確信で――いや、実のところはそんなに強い言葉で言うようなことではなく、ただまるで当たり前のように、「そうなんだからそうに決まってる」というような感じに自分の胸に了解された。
不思議だ。
こんな感覚は初めてだ。
「まあ、家電も携帯も無い俺から『変人』言われたないわな。すまんかった」
頬にまだ笑みの気配を残してそう言うと、相手は座ったまま、こちらに長い手を伸ばして。
「要するに似たもん同士や、俺等。……モリヤリュウジ。よろしく」
わたしは慌てて、その手を取った。
「あ、篠崎……千晴、です。よろしくお願いします」
骨のごつごつと目立った、乾いた肌の長い指をそっと握って、わたしは伯母の言った「似てんのよ、あんた達」という台詞を思い返していた。
夜になって、伯母から電話があった。
聞きたいことが山のようにあったので、林檎の出来はどうだったか、酸っぱくはなかったか、と尋ねてくるのを脇に置いて、いつになく伯母よりも遥かに多く喋り立てるわたしに伯母は苦笑しながらひとつひとつ答えてくれた。
「叔父」の生業は、彫金師なのだそうだ。
もともと専門の学校で学んでいたのだが、そこの教授に大変気に入られ、卒業後弟子入りするかたちで彼の工房に就職。だが数年後、教授が病で亡くなり、その際に遺言で工房と家とを譲られたのだという。
そして、あのバッグ。
『もともと、母親がちょっと勘の強い人でさ』
伯母は、そんな言い方をした。
『人の持ち物を見て、あれこれ言うのよ。で、それがまた妙に当たっちゃったりする訳。うちにいた頃も、それで妙な噂立ったりしたんだけど……どうも家出後は、そういうことで小銭稼いでた時期もあったみたいでね』
副業、という「叔父」の言葉を思い出す。
『亡くなって、あの子を引き取りに行った時に、亡くなったことを知らなかった依頼の人が尋ねてきてたのよ。それでまあ、亡くなったのは仕方ないから、物を返してほしい、て……その時にさ、あの子が言ったの』
――あれ、もう持たん方がええです。
『ぼそっと一言言って、それ以上は何聞いても答えないもんだから、あたしはどうしようかと焦ったんだけど……相手は妙に納得したみたいで、こっちがさんざ断るのにお礼押しつけて帰っちゃってさ。それでね、あたし、聞いた訳』
――あんたも母さんと同じことができるの?
その言葉に中一の相手は小さくうなずき、それからまた、ぼそっと一言だけ言ったそうだ。
――しょうもないもんやったら、追っ払える。
それから何度か彼に会いに行った際に、伯母は試しに、友人や知人から「いわくあるもの」の類を借りて、渡してみたのだという。
その際に、特に何ということもない自分の持ち物も混ぜてみたのだが、それ等についてはすべて「どうもない」と脇に避けられたのだとか。
また、いわくあるものの中でも、「これは別に悪いもんやない」というものもあったという。
だがごくごく一部の物については、渡した瞬間、きゅっと顔色が変わるのが見ていてはっきりと判ったのだそうだ。
そういうものに出逢うと、彼はそれを持ってほんの二、三分奥へと引っ込み、また戻ってきて「もうどうもないから」と言ってそれを返すか、あるいは手ぶらで戻ってきて、「あれはもうあかん」と言い、二度と返さないかのどちらかだった。
そして、彼がそう断言する品はすべて、持ち主が「とにかくもう二度と見たくない」「手放したいのに何故かどうしても手元に戻ってきてしまう、もう嫌だ」などと言っていた品ばかりだった。
『正直、あたしにはどれもみーんな、おんなじに見えたんだけどねえ……』
伯母がまるっきり呑気な調子で言うのに、わたしはごくりと、唾を飲んだ。
「あの、バッグも?」
『うん』
至極緊張した思いで聞いたのに、あっさりと肯定の言葉が返ってくる。
『敏さんの伯母さんのご近所の方の持ち物なんだそうだけど、あれを持ってでかける度に変なことが起きる、どうにか処分したいけど変な祟りでもあったら怖い、て言うんで……ああ、これは久々にあの子の出番だな、と思って、ああそうだ、せっかくだからあんたに持っていかせよう、て思いついた訳さ』
茶色い革の表面の、妙にぬめっとしたいやな光り具合を思い出して、わたしは軽い目眩がした。
『あのさ、また頼むかもしれないから』
だから、そう続いた伯母の言葉には少々仰天した。
「え、また?」
『そのご近所さんが、まわりに広めちゃったみたいでさ。自分も頼みたい、て人が来てんのよ。ほら、あの子はああだから、あの子んちに直接に荷物なんか送れないし、万一うまく届いたとしても問題なけりゃ送り返してもらわなきゃいけないのに、あの子に任せてたら何年経ったって戻ってきやしないもん』
「でも」
『大丈夫、あの後、またあの子から電話かかってきたんだけど、その時に了解取ってあるからさ』
今度こそ本当に目眩がして、わたしは受話器を握り直した。
『昼間はいないこともあるけど、夜は大抵家にいるから、いつ来てくれても構わないって。家にいれば、寝る時以外は工房側の鍵は開けっ放しだから、ノックも無し、勝手に入ってきていいって言ってたよ』
そんな……。
わたしは一瞬、絶句し――断ろう、瞬間的にそう思ったけれど、その理由がひとつも思いつけず、ただ口を開いたまま一言も発せずにいた。
『送り返す時は着払いでいいし、あんたにもお礼はするから。……じゃ、頼んだよ』
わたしが何も言えない内に、伯母は一方的に言って、電話を切ってしまった。
何なんだこれ、もう……。
わたしは切れた受話器を見つめ、ひとつ息をつくと電話を切った。
座椅子に深く沈み込んで、大きくため息をつく。
本来なら、二人の間のやりとりで済む筈のことを、互いが面倒な部分を省いてわたしに小間使いをさせているようで、どうも面白くなかった。ひとを便利屋扱いして。
とりあえず、もう一度だけやろう。その時に、あの「叔父」に、ちゃんと荷物受け取るように言って、断ろう。
わたしはそう決めると、お風呂を湧かしに立ち上がった。
ふと、座卓の上に籠に入れて置いた、林檎の山が目に入る。
真っ赤にぱん、と張った表面に、ほんのわずかにさっと刷毛ではいたように黄緑色の走った、つやつやとしたまるいかたち。
それが目に入った瞬間、あのひんやりと薄暗い工房の中にいっぱいに満ちた、甘酸っぱい香気がまざまざと甦った。
次に実際に伯母からの荷物が届いたのは、その電話から一週間後、ちょうど恋人が、以前に貸した本を返すから、と学校帰りに家に立ち寄っていた時だった。
玄関先で本を受け取ってからその場で箱を開けると、この間のように中にもうひとつの箱――今回はかなり小ぶりで、片手で持てそうなサイズだったが――と、その脇に大きな蜂蜜の瓶が一つ、ハーブティーの袋が三つ入っていた。伯母夫婦の地元の名産品で、どちらもわたしの好物だ。
こんなもんでごまかされないんだから、全く。
内心で呟きながらも、かなり嬉しかったので勝手に頬がゆるむ。
「それ、伯母さんから?」
箱の中から瓶とお茶の袋を出していると、恋人が身を乗り出してくる。
「ええ、ほら、こないだ話した……例の『叔父さん』宛」
「ああ、あの変わった」
うなずきながら、わたしは小ぶりな箱を取り出し、そっと靴箱の傍らに追いやった。
実のところ恋人はこの手の「霊感系」の話が嫌いで、基本一切受けつけない。だからわたしは単に、「伯母が叔父宛に荷物を送りたいけれど、相手が宅配を面倒がって受け取らない、だからわたしに代行を頼んできた」というだけの説明に留めていた。
「ほんまに荷物受け取らへんねんな、すごいな」
「まあでも、わたしも配達人扱いされるのは嫌だし、今回で断りますよ」
「なんで、たまにやったらええやん、荷物なんかそうしょっちゅうないやろ」
「……まあ、そうですけど」
もしかしたらしょっちゅうになるかもしれない代物なのだけど、荷物のことについてこれ以上話したくなかったので、わたしは言葉を濁して小さく首を振った。
「ああ、そのお茶おいしいんですよ、少し小分けしましょうか?」
話を変えたいつもりもあってそう聞くと、恋人は大きく手を振り、
「俺そういうハーブ系苦手。ええわ」
と言った。
「そう? おいしいんですけど」
「そんなんって男で好きな奴あんまおらんで。女の子は好きやろけどさ」
「ふうん……?」
わたしは首を傾げながら、開けかけたお茶の袋を置いた。
「えっと、じゃ、どこかコーヒーでも飲みに行きます?」
「いや、ええわ。今日もう帰るし」
「え?」
急な言葉に驚いて振り返ると、恋人はもう既にかまちから立ち上がりかけていた。
「だけど、今来たばっかりなのに」
「駅に用事あんねん。せやし、本ももういい加減返さんとそっちも困るやろし、ついでに寄っただけやから」
ついで、って、と不満を言おうとしかけたのが顔に出たのか、恋人はものすごい早口で素早く言葉を継いだ。
「明日朝早いねん、俺。朝いちで大阪に面接。準備もせなあかんし、また今度な」
ひと息に言うとさっと上着をはおって、がらっと戸を開けて部屋を出ていってしまう。
去っていく足音を聞きながら、わたしは見送りに出る気力もなく、すとん、とその場に座り込んだ。
恋人とは、つきあい始めて半年程になる。
入学した短大は四大と同じキャンパスで、そこで入ったミステリ研での先輩だったのだ。
入会した理由はただ単に「推理小説が好きだから」だったのだけど、入ってみて驚いた。皆の本気度が違うのだ。
サークルの中核をなしているのは「ミステリを書きたい面子」で、それ以外の大半は「ミステリを評論したい面子」だった。自分のように、「ただ何となく犯人を想像しながら読むのが楽しい」てな腑抜けな人間はごくごく少数で、それもその雰囲気に押されて、日がたつ程に顔を出す子が減ってきていた。
自分も退散した方がいいかも、と思い出した時に話しかけてきたのが、三回生のその先輩だった。
自分も含め尻込みし始めていた新入生達に、気さくに「感想」レベルのミステリ話を持ちかけてくれた。気難しい上級生達に上手く話を繋いでくれ、少しずつ打ち解けるきっかけをつくってくれた。
そんな中、わたしは映画を見るのも好きなのだけど、という話をしてからしばらくして、クリスティの原作を元にした映画に誘われたのだ。
見たかった映画だったので普通に誘いに乗って、その後も何回かそんなことが続いて――そして、上回生の卒業追い出し飲み会の時に、同期の女友達に「先輩と自分、つきあってんねやろ?」といきなり言われたのだ。
唐突な発言に飲み物を咳き込みながら、「違うよ、全然」と言下に否定してしまい、その後も疑わし気な目で見られながらも、わたしは首を横に振り続けた。
だって本当にただ映画を見て、時にお茶したりご飯したりはするものの、それ以上のことは一切なかったのだから。映画も食事も、「チケットもらってん」と言ってきた最初の一回を除いて、後は全部自分の分は自分で、を貫いていたし、大体、自分みたいな愛想のかけらもない女とつきあいたがる人間がいるとは思えなかった。
ところがその次の日、思わぬ告白をされたのだ。
「実のところ自分はもう半分くらいつきあってるつもりだった、なのに昨日あんなに完全に否定してるのを聞いてかなりショックだった」と。
その時の、あまりと言えばあまりの、実に何とも見事なまでのしょんぼりっぷりがひどく胸にはまってしまい……生まれて初めて、男の人に「かわいい」という心持ちを抱いてしまった、それが始まりだった。
つきあうとかそういうことは経験がなくてよく判らないけれど、ただ遊びにでかけたりするだけでいいのなら、そう言って始まった「つきあい」、けれどそれは、思っていたよりずっと楽しく、居心地が良く、そうしていつしか、自分達は自他共に認める「恋人」となっていた。とは言っても、つい自分が逃げ腰になってしまうのがいけないのか、まだ手を繋ぐ以上のことは何にも無いのだけれど。
だけど最近は、それどころかデートすらろくにしていない。
その時期も、そして理由もはっきりしている。
わたしの就職が決まってからだ。
世の例に漏れず、恋人も無論、三回生の終盤から既に就職活動に勤しんでいた。けれどもなかなか内定を取ることができずにいた。そんな中、まだそれ程面接の数をこなしていなかったわたしが、実にあっさり、内定を決めてしまったのだ。
それを報告した時の恋人の顔は、忘れることができない。
今から思えば自分も考えが足りなかったのだけれど、その時のわたしは仕事が決まったことで家に帰らなくても済むようになった、そのこと自体の嬉しさと、帰らなくて済む、すなわち恋人と遠距離にならなくて済む、ということの二重の嬉しさで頭が一杯だった。離れなくていいことになったのだからそれを聞けば向こうも喜んでくれる、そう単純に考えていた。
内定を告げた瞬間、恋人の顔はこわばって歪んだ。
ほんのわずかに眉が上がって目が見開かれた、たったそれだけで……いつも気さくで、それでいて細やかな心遣いに満ちた微笑みを浮かべていた唇が固く結ばれて端がひきつった、たったそれだけで、今までずっと、心底「お人好し顔」だと自分が思っていたひとの顔つきがこんなにも変わるのだ、それをわたしは、その刹那に身をもって知った。
恋人の顔に心臓が凍った次の瞬間、その表情はさっと掃いたように消えていた。
「ほんま、おめでとう。良かったやん」
笑顔でそう言われた、それが八月初めのことで――あれからわたしは、いまだに恋人から「嬉しい」という言葉を聞いていない。
勿論、そんな言葉を望むのが自分の身勝手だということはよく判ってる。何しろ秋に届いてもいまだにひとつも内定が取れないのだ。それはもう必死に、死にものぐるいになって当たり前だ。呑気に彼女の内定を祝う暇があるならひとつでも面接に行った方がいい。
それでも、だ。
わたしは聞きたかった。
「離れなくて済んで嬉しい」と、そのたった一言が聞きたかった。
どれくらいの時間ぼんやりしていたのか、外で烏が鳴く声がして、わたしはふっと我に返った。
木の扉にはまった菱形のすりガラスを見やると、陽が傾きかけているのか赤みがかっている。
「ああ……」
言葉にならない声を上げて、わたしは特に意味もなく立ち上がった。
心の底が、濁った水の泥が沈んだみたいに澱んで重い。
恋人とは、最近サークルでも学食でも殆ど顔を合わせることがなかった。
まあ就活に追われている四回生がサークルに来ないのは当たり前のことではあったが、春の頃はほんのちょっと、それこそ本の貸し借りだけにでもちらっと顔を見せてくれたり、お昼の時間を合わせて食事だけでも一緒にしたり、と、何とか時間の合間に少しでも逢おう、という気持ちが透けて見えるようだった。
それが見えていたから、実際に殆ど逢えない時でも、別段辛くはなかったのだ。逢いたいと思ってくれている、それが伝わっていたから。
けれど、今は違う。
わたしは明確に避けられている。
今日返しに来てくれた本は、夏の初めに貸したっきりのものだった。それを何故今になって、かというと、その本がたまたま来月のサークルの読書会での課題本に選ばれたからなのだ。
多分、そうでなければきっと逢いには来てくれなかっただろう。
本を返さないと、と電話してきた恋人に、わたしはお昼に学食で逢おうよ、と言ったのだけれど、昼は教授のところに就職の相談に行くので授業の帰りに家に寄るから、と言われてうなずいたのだ。その方が講義の合間にお昼を食べるよりも、少しは長く一緒にいられる、そう思ったから。
けれど。
ぴたりと閉まった扉を見つめて、わたしは小さくため息をついた。
あのひとは、今わたしを見ているのが嫌なのだ。
まだ就活を始めたばかりの、短大卒の学歴しかない、年下の自分の彼女が自分よりも先にあっさり仕事を決めてしまった。なのに秋にもなっていまだに自分は内定ひとつ取れない、そのことで焦りと苛立ちで一杯なのだ。わたしの顔を見ると、その苛立ちが助長されてしまうのだ。
全部、判ってる。
判っていて、でも、辛い。
何もかも全部、わたしにはどうにもできないことなのが、辛い。
もう一度小さくため息をついてから、夕飯の支度をしよう、そう思いゆっくりと立ち上がって、ふっと、手元に置かれたハーブティの袋が目に入った。
ああ、そうだ。
ふいにしゃきっと意識が切り替わる。
そうだ、あれ、持っていってしまおう。そしてきっぱり、次からの依頼は断ろう。
ただでさえ今ぎくしゃくしている恋人との間柄、そこにまた新たな火種となるかもしれないことは何ひとつ持ち込みたくなかった。
わたしは玄関の隅に置いた箱と、ハーブティの袋をひとつひっ掴んで、勢い良く部屋から飛び出した。