Shine 1
視点交代制で話ごとに主人公が変わります。
初恋と言われて想像するのは、甘酸っぱい、ほろ苦い、儚い、などといった言葉だろう。学生時代、隣の席のあまり目立たないが笑顔の可愛い女の子を好きになったけれど、結局最後まで話しかけることができなかった。ずっと一緒にいた幼馴染の女の子をいつのまにか異性として意識するようになってしまったものの、自覚した時には彼女には既に恋人がおり、よき相談役というポジションに甘んじて多少の憎まれ口と「頑張れよ」なんていう言葉をかけるだけにとどまり続けた。そんなじれったくてだからこそ美しいと思える記憶を、初恋という言葉から世の人々は感じるのだろう。だが僕の初恋は違う。相手は隣の席の女の子でもないし、幼馴染の女の子でもない。正確に言うならば女の子と呼んでいい年齢でもない。僕の初恋相手は三十代のワケ有りシングルマザーである。しかし僕は熟女好きという特殊な性癖を持っているわけでは決してない。他の三十代女性を見ても良いなとは思わないし、多分オカズにはできないと思う。いやオカズにできるかできないかという即物的なことは別として、あの人だから好きなのである。
十年前に唐突に僕の住む村人平均年齢七十歳以上の山奥の限界集落へとやってきたあの人は、現在小学三年生になる娘を出産し、そのままこの村で暮らし始めたらしい。一面見渡しても山と畑としわくちゃの顔しかないこの村に舞い降りた女神としか思えない。そんな子連れ女神様は山を下りてすぐの街でパートをして生活費を稼いでいたため、帰りが遅くなる日など割と頻繁に娘を僕の家に預けていた。そうして僕はあの人と知り合うことになり、その子供がいるとは思えないほどの無邪気な笑顔、つややかな長い黒髪、誰よりもきれいな声で紡がれる暖かな言葉、そして優しく頭を撫でてくれる白くて柔らかい手に恋に落ちないわけがなかった。いつから好きだったかは明確にはわからないが、気持ちを伝えることなどできないまま僕は高校一年生になった。だいぶ長い初恋の引きづり方であることはわかっているし、粘着質な男だな、という指摘も受け入れる。しかし恋愛とは理性ではなく本能でしてしまうもので、もうどうしようもないのだ。いつか気持ちがあふれ出してあの人に告白してしまう日がくるかもしれない。そうしたらあの人はどんな顔をするだろうか。驚きで目を丸くしたあと、もしかしたら少しだけうつむいて頬を綺麗な桜色にしながら「私も実は…」と言ってくれたりしなくもないのではないか。そうしたら僕はーーー。
だが現実はそんなに甘いものではない。そんな妄想が実現する世の中だったら、教室でいじめは起きないし、政治家が汚職で捕まったりしないし、世界中で貧困にあえぐ人々は存在しない。わかっている。わかってはいるけれどこんな現実はないだろう。ここまで残酷にしなくてもよかったし、初恋が儚さを通り越して強烈過ぎるインパクトを与えてきている。
僕の初恋の相手は小学生の娘のいる笑顔の素敵なシングルマザーであり、その人は僕の養父と交際することになった。そして付け加えるならば、彼らが二人で旅行に行く間、僕は初恋の相手の娘の保護者に任命された。生き地獄とはまさにこんな状況なのだろう。僕は前世で一体何をしたのか。もしもオスとメスの区別がある生き物だったならば、多分メス関係でかなり酷いことをしたに違いない。子供に罪があるわけではないが、やはり自分の好きな人の子供の子守をさせられるというのはプライドが傷つけられるものだ。「せっかくの夏休みなんだし、東京見物でもしてきたらどうだい」なんて言っていたが、要するに厄介払いで、子供のいない間に二人であんなことやこんなことをしようという魂胆は透けて見えている。何もわからずただ畦道を馬鹿みたいに駆け回っている純な子供の時期はもうとっくに通り過ぎているのだ。悔しかった。壮絶に悔しかったが、好きな人の手前、号泣するなんていうなけなしのプライドさえ粉砕する痴態は見せられない。だから僕は拳をきつく握りしめながら、せめてもの意地で初恋の相手だった女性を見つめながら頷いていた。
そして今現在、僕は東京の地を女子小学生を背中におぶりながら踏みしめるに至っている。東京とはいっても区外のいわゆるベッドタウンであり、イメージしていた高層ビルなどは一切なく、村の近くの街とさほど変わりはないように思えた。何が東京見物だ、と小さくぼやく。僕の養父であり数日前に憎き恋敵にもなった雄助さんの古い知り合いが東京に住んでいて、東京での生活の面倒をみてくれるらしい。雄助さんに渡されたその知り合いの人の家の住所を頼りに、好きな人が自分の養父とよろしくやっている間に、僕は女子小学生を連れて、田舎村からのこのこと此処へやってきたわけである。考えるだけで情けなくて、既に東京に来るまでの間に散々泣き倒したのにまた涙が出そうになる。好きな人の前で涙をこらえさせた意地なんてものはもう跡形もなく消え去っている。しかし今は、おぶった背中にじっとりとした汗をかかせている元凶である子供体温、梓を支えるために両手が使えないので、ぶるぶると顔を振って湧き上がってきた涙を引っ込めた。
時々通る自動車の音と背中から聞こえる規則正しい寝息以外には、あたりは物音一つしない静かな夜だった。時刻は既に夜の十時を回った頃で、しかし張り付くような不快な暑さが全身にまとわりついてくる。同じ七月半ばといえど、東京と山奥の田舎村はまるで別世界のように暑さの質が違う。このいやらしい暑さに、村を出た当初は元気にプリキュアの歌を歌っていた小学生の梓がすぐにダウンして、僕の背中に収まることとなってしまったのも仕方ないかもしれない。
街灯の灯かりから少し外れた脇道の奥のほうに、白い小さな二階建てアパートが見えた。目を凝らすと壁面に『コーポ幸』という文字が読み取れる。駅員さんに頼み込んで描いてもらった地図は間違っていなかったようだ。後日お礼を持って挨拶に行かなければ。雄助さんがくれた住所のメモによると、この全く東京らしさを感じさせない至って普通のアパートが僕たちの目的地に間違いなかった。今まで散々心の中で文句を言ってきたからか、もう不満を持つ気力さえ湧かない。とりあえずこの背中の暑い荷物をおろして休みたい。夢の中に早く逃げ込んでしまいたい。その一心でアパートへ近寄って行った。
良いとはいえない視界の中で、アパートは真ん中に階段のある一階と二階に二部屋ずつの合計四部屋の二階建てのものであることと、バイクが階段わきに一台止まっていることと、道路の反対側にある駐車スペースに自動車が二台止まっていることは確認できた。僕が訪ねてきた人はここの管理人らしいが、他にも何人か住んでいるようだし、時間が時間なのであまり音を立てないようにしたほうがいいだろう。なるべく静かにメモに書かれている部屋の一階右奥の一号室の前に向かう。隣の二号室の表札には霜村という表札が掛かっていて明かりがついていたが、一号室には何も掛かっていないし部屋は真っ暗だった。若干不安になるが、もうここまで来たら雄助さんを信じるしかない。もし場所を間違えていたとしても、幼女を背負って見知らぬ土地をまた歩き回る体力なんてもう残っていないのも事実なのだ。
少し鼓動が早くなるのを感じながら、梓を担ぎなおしてサッと呼び鈴を鳴らした。部屋の中に呼び鈴の鳴る音が響き渡るのが聞こえる。しかし、中からは一切物音は聞こえてこず、呼び鈴の音はそのまま夜の静寂に吸い込まれていっただけだった。どっと冷や汗が出てきた。どうしよう。もう一度呼び鈴を鳴らしたが、人の気配は全くしない。この場所しか頼りになるものはないのに。どうしたらいい。場所を間違えたのか。だとしてももう夜も遅いし歩く体力もない。どうしよう。どうしよう。急にこの場所に立っていることが怖くなってきた。何の音もせず、今僕が途方に暮れていることなんて誰も知らないこの場所が恐ろしいもののように思えてきた。僕は無意識に梓の身体を軽く揺さぶっていた。一人起きて立っていることがどうしようもなく怖かった。
「梓…起きて。梓…!」
「紡なら今夜は留守だ」
ガチャッと扉の開く音がして、続いて女の人の声がした。見ると、隣の二号室から女の人が出てきて鍵をかけているところだった。途端に、ふっと全身から力が抜けたのがわかった。それと同時にじわりと視界がにじむ。
「何か用ならカフェの方に…って、え…ちょっと、どうした?」
ふとこちらに視線をやった女の人がぎょっとした顔をした。そりゃそうだろう。幼女を背負った高校生が半泣きでつっ立っているのを目にしたら誰だって驚く。初対面の女の人の前で半泣きの顔をさらすというのは情けない限りだが、自分でも驚くほど安堵して思わず涙がにじんでしまったのだから仕方がない。夜の暗闇の中でも目立つポニーテールにされた金髪にパンツタイプのスーツに身を包んだ、村では見かけたことなど一度もないような格好をした女の人は、明らかにおろおろしながらこちらに近づいてきた。平常時の僕なら間違いなくこの接触したことのないタイプの人間にビビっていただろうが、今の僕には少々ロックな女神のように見えていた。
「えっと…紡に用があって来たのか?でも、紡は今夜は帰ってこない。また出直して来たほうがいい」
「…この辺にホテル、ありますか」
「ホテルって…泊まるとこないのか?」
「…はい」
改めてあてにしてきた人に会えない現実を突きつけられて、少し高揚していた気持ちがぐったりしていくのを感じながら、女の人の質問に答えた。また梓をおぶって迷いながら歩かなければならないと思うと、どんどん気が滅入ってくる。初恋の人を取られたうえに見知らぬ土地に飛ばされ、こんな仕打ちまで受けるほどの悪行をした、僕の前世のオスの生き物をぶん殴ってやりたい。
「そうか…じゃ、ちょっと待ってろ」
自然と俯いていた僕を尻目に、女の人が当然のように一号室の扉を開けて中へ入っていった。思わず顔が上がる。留守中にも関わらず鍵がかかってないのか。ど田舎の僕の村でも夜の間は鍵をかけるのに、外れといえど大都市東京にある家に鍵もかけずに外出するのか。僕の管理人さんに対しての不信感バロメーターが一気に上昇していく。しばらく中でガタガタと音がした後に、女の人が戻ってきた。手には鍵が何本かぶら下がったホルダーを持っている。
「空き部屋があるから使え。明日には紡も帰ってくるだろうし」
「え…い、いいんですか?」
てっきりホテルまでの案内図でも持ってきてくれるのかと思っていた僕は、思いがけない提案に知らずと大きい声を出していた。
「ただし、静かに。…騒ぎ立てないならこっちに迷惑もかからない。たまに客室として使ってる部屋だし問題はないだろ」
一瞬、目つきが良いとは言えない目の眼光をさらにギッと鋭くしながら、女の人が小声で言う。僕は無言でブンブンと首を振って同意した。女神だ。こんなちょっと怖いルックスだけれど、本当はとても良い人なのだ。僕の村にも、いつも仏頂面でにこりとも笑わない絶対にやばい仕事をしていそうな顔をしているのに、実は人一倍子供が好きで、梓くらいの子には赤ちゃん言葉で話しかけているご老人がいたが、この人も多分そういう人なのだろう。東京は冷たい人が多いというイメージを勝手に持っていたけれど、訂正しないといけない。地図を描いてくれた駅員さんといい、この女の人といい、東京にも暖かくて優しい人がいた。この女の人にもあとでお礼をしないといけない。菓子折りとかはどこで買えるんだろうか。
そんなことを考えている僕を置いて、さっさと女の人が二階へ通じる階段を上っていく。早く来い、というような視線を投げられて、慌てて梓を担ぎなおして後に続いた。こんな騒動があっても背中の上でピクリともせずに爆睡していられる幼児の深い睡眠が羨ましい限りだ。
「ま、こんな夜中に女の子をほっとくなんてできないし、紡も文句は言わないだろ。いや、言える立場じゃない、な」
二階の右側、管理人さんの部屋の上の部屋の前に立って鍵を開けながら、ため息まじりに女の人が呟く。なんだか含みのある言い方が引っかかるが、僕が口を開く前に女の人が腕時計を確認して盛大に舌打ちしたことによって言葉がのどの奥に引っ込んでいった。女の人の舌打ちを聞いたのも初体験で、東京の凄さをまた一つ知った気がする。
「あたしはこれから仕事がある。ここに帰るのも朝遅いから、後のことはここの隣の部屋の奴に任せとく。事情は話しとくから、とりあえず明日起きたら隣の部屋に行け」
左側の部屋の方を親指で指し示しながら、女の人が階段を駆け下りていく。僕があたふたしながら「は、はい」と返事をしたのを聞くか聞かないかぐらいの速さで階段下にあったバイクに飛び乗り、軽くふかした後に物凄いスピードで女の人は住宅街の暗闇の中へ走り去っていった。田舎式の僕の頭脳では今の早業に対しての処理が追いつかず、しばらく走り去るバイクの光の軌跡をぼんやり眺めていた。
ふと、僕はこんなところで何をしているんだろうという気持ちになる。こんな知らない土地でへとへとになって何をしてるんだろう。寝る場所を確保できて心に余裕が生まれたためか、村とは違う、街灯の人工的な光のある夜の光景に、今更ながらノスタルジックな気持ちを刺激されているのかもしれない。またせりあがってきそうになる涙を抑えるために、この部屋に扇風機が備え付けられているかどうかということだけに集中することに決めて、僕は部屋に入った。