第一話:放棄の役職
夜が更けるにつれて、「そこ」の賑やかさも増していた。
「オーガスさん、ミルケさん。お酒を飲むのはやめてくださいと何度も……」
眼鏡の弦を押し上げてから、またやってしまったと思う。ずり下がってもいないのに、つい持ち上げてしまうのだ。別に悪い影響がある癖でもないので気にしなければいいことに過ぎないのだが、自分はどうにも気にしすぎてしまう性質があった。
後ろ手にドアを閉め、外套を脱ぐ。
「気ーにすんなってガロンお前ェよォ! 勇者様が魔王を倒してくれたから、夜中に町に忍び込んで悪さしようなんて奴はいねーんだから」
と、酒臭い息のオーガスが言う。一体どれだけ飲んだのか、既にその顔は真っ赤だ。
「その通りだ兄弟。悪いことする奴らってのは、皆魔王の発する『闇』にのみ込まれてたんであって、その魔王が倒された今、悪さしようなんて奴はもういねえの」
こちらは酒に強いミルケ。しかし足元に転がっている酒瓶の数を見るに、いくら強いといってもいくらか酔いは回っているようだ。意識して聞けば少し呂律が回っていないような気もした。
せめて、と、足元に転がっている酒瓶を集めて整理し、自分だけでも足を伸ばして腰を下ろせるスペースを確保する。オーガスは短絡的で楽観的な中身に比例したかのような小男である。頭も若干心許ない。反対に落ち着いた雰囲気を醸し出す深い彫りと皺が刻まれているというのに、どこか微妙に抜けている点が残念なミルケ。その二人が、自分の上司であり先輩だった。北門門番第三班である。
ガロンは壁の中、町の方に視線を送った。この詰所は夜通し灯りがついているが、魔王軍との度重なる戦争で油は貴重なものとなってしまったために、完全に日が落ちた現在、町内に明かりがついている場所はといえばいくつかの大きな酒場と町の南東部に位置する娼婦の店群くらいなものだ。
「確かに、これだけ暗いのになんの事件も無ければ、平和になったんだなあ、って気もしますけどね……」
「だろォ!? だぁからどうせ見回りだってなんにも無いに決まってんだから、やんなくていいって言ったんだ」
「いや、そういうわけにもいきませんよ。あと二刻程したらちゃんとオーガスさんにも見回りに行ってもらいますから、酔いは覚ましておいてくださいよ」
「かあーっ、わあってらい! ガロンちゃんは糞真面目だねえ! こんな夜中に出歩く奴ァ娼婦か居酒屋目当ての軟弱モンだけだってェのに」
酒目当てだったら先輩も「軟弱モン」だろうに、と、思ったが、ガロンは大人なので口には出さない。実際には今年五十歳のオーガスとミルケより三十歳も若いわけだが、これだけ酒に溺れている姿を見るとなんだか自分が一番しっかりしなければならないという使命感が湧いてくるのは当然のことであった。
……この二人も魔王が倒される前までは「糞真面目」だったですけどね……
ガロンは内心、溜息を吐く。わざわざ志願して高い倍率を通ってまでこの二人と同じ班にしてもらったというのに、この堕落ぶりはなんだというのだ。鬼食い鬼のオーガス、修羅のミルケと呼ばれ全憲兵生の憧れであったはずの二人は、魔王が倒されると同時に酒を解禁し、勤務中にも酒を飲むようになってしまった。
「そんなベロベロに酔っぱらった状態で、もしものことがあったときに戦えるんですか……」
「もしものときなんて来ないさ」
ミルケが北門の外、黒い針葉樹の森を眺めて呟いた。自分の思わず漏れた言葉に返事が来るとは思っていなかったガロンは少し驚いたものの、しかし新たに言葉を作ることも無く、ミルケ同様、外に視線を送る。
深緑の硬い葉、黒い幹。
町の北側一体に広がるこの薄暗い森には、無数の魔物たちが生息していたのだ。その魔物は時折――というには少し頻繁すぎるが――に町へ押し入ろうとし、人間や人間の営みを破壊しようとする。それを防ぐ最前線がここ、北門だったのだ。
つまりこの町において北門は一番危険な場所であり、そこに詰めている門番――または憲兵は皆「最強」なのである。
……この「神話」を信じている町民たちが、今のオーガスさんやミルケさんを見たらどう思うんでしょう……
ガロンはまた溜息を溢した。
眼鏡の弦を押し上げ、黒い森を眺めるともなしに眺め続ける傍ら、ふと思ったことを口にする。
「ここからまっすぐいったところで、魔王は勇者に倒されたんですよね」
「そうだな、馬で五日ってところか」
へえ、なるほど、と、気の抜けた返事。この二人ほどではないが、自分も平和に慣れ始めているらしい。酒は飲まないし飲めないが。
「今、その勇者様ってのは何をしてるんですかね」
二日前に隣の王国で凱旋パレードが行われたらしいことは知っているが、残念なことに勇者はこの町に訪れなかったため、特に感慨も未練も湧かない……ような、やっぱり見てみたかったような。
今頃何をしているんだろう。滴るような黄金の髪、宝石のような碧眼だとは風の噂に聞いた。しかしガロンの中で、勇者像は決して完成しない。
勇者は一体、どのようなお方だったのだろう……?
「毎日酒飲んで美味いもん食っていやらしい体のねーちゃん侍らしてんじゃねえの?」
「オーガスさん、僕は勇者について何も知らないんですけど、オーガスさんが勇者に向いてないことは何となくわかります」
「ハハッ、こりゃ傑作だな兄弟。後輩に笑われてるようじゃまだまだ頑張らねーとなあ、オイ」
グラスに魔法で作った氷を足しつつ、ミルケ。まだ飲むのか……と、ガロンは思わず半目になった。
町の中で諍いが起きた時、一番に駆けつけるのはその場所に一番近い街門に詰めている門番兵の役目となっている。門番は警吏の仕事も兼ねているのだ。魔王が倒されて悪人がほとんどいないといって良いくらいに激減したとはいえ、酔った拍子に口論になったりだとか、そういう諍いが無くなるわけではない。自分がしっかりしなければ――
「ん?」
町を大きく一周囲んでいる壁の外、魔物が必ずそこからやってくることから安直にも魔の森と呼ばれるそこは、夜の暗闇の中にあってもなお一層暗い。
未だ魔物の爪痕が剥き出しで、復興が進んでいない道は、北門から王都へと続いていた。警吏としての仕事も兼ねているとはいえ、本職は門番。その主な役割は外からやってくるモノへの対処だ。たとえ魔物でなくとも、外から入りこまんとするモノは調査しなければならないし、夜間は証明書の無い町民を外に出してはならない。
そう。
たとえ、月明かりがあっても一寸先を見渡せぬ魔の森を、何の明かりも持たず歩いてきた二人組であっても、だ。
☆
「ミルケさん、あれ――」
後輩が上げかけた声を手で制する。
酒の酔いはとっくに醒めてしまっていた。焼けたようになっていた喉も、熱っぽかった頭も、今や凍りついたかのようになってしまっている。
冷気を浴びる感覚を錯覚。
先程までは長袖では熱いくらいだったというのに、今では膝がひとりでに震えだすくらいに寒い。
「おい、オーガス」
「……わぁってる」
「ガロン、武器を準備しておけ。……ああ、見えんようにな」
二人に指示を出し――といってもオーガスは既に得物である両刃刀を構えていたが――、自身もいつでも魔法式を展開できるように構えるミルケ。
森からやってくる「人影」は、二人組のようだった。
片方はこの詰所内で一番大きく、百八十五センはあるガロンよりも更に頭三つ分くらいは大きい巨躯。体の太さだけなら細身のガロンの優に三倍はある。
森から街門までのわずかな空間、差し込む僅かな月明かりではまだ正体までは判別できない。
そしてその巨躯によってほとんど目立たない形で、今度は十歳児くらいの背格好をした矮躯。黒い。いくら闇の中だとはいえ、黒すぎた。服装が黒に統一されている。
見るからに不審者だ。
だが、ミルケは知っていた。オーガスも知っている。
この、巨躯の方。筋骨隆々の体を半袖短パンに押し込めた、明らかに変質者スタイルの巨漢が、魔王であることを。
見たことは無い。ただ、ミルケもオーガスも、魔導士だ。それも、歴戦の、という風な枕詞を付けても良いくらいの。
魔導士。魔導を修めた人間のこと。魔法とはすなわち「魔の法」、言葉通り魔物が魔王に行使することを許された神秘の技術なのである。それを研究し解明、魔物に対抗するための手段としたものが「魔導」であり、それを使う者が魔導士と呼ばれる。ゆえに、その魔導を使い続けるということは、魔に近付くということであり、必然的に、歴戦とも言えるほどに魔導を扱ってきたミルケとオーガスは、相手が魔王であることを感じ取ったのであった。
警戒を最大、考えられるだけ起こりうる事態を想定し、その対処法を積み上げていく。
いよいよ声が届く範囲にやって来た時、ミルケとオーガスは、ガロンを詰所に残し、町の外に佇んでいた。
「止まれ」
隣でオーガスが得物を構える。
まだ動くなよ、と、身振りで制止を伝え、自分もいつでも魔法式を起動できるよう、体内で魔力を練り始める。
「おっさん、ここは私に任せろ。警戒されてる。私が疑いを晴らしてきてやる」
魔王と思しき人影に、横暴ともいえる声。声変わりもまだのような高い声だ。
巨躯を押しのけて、矮躯が前に出る。
「まず、名を名乗れ」
向こうは会話に応じるようだ。穏便に済ませられるのならそうしたい。無用な戦いは避けたい。だから、いつも通り、外からの来訪者にするようにした。まずは名前だ。
「私はティー・デグレチャフ・フォン・ヴァリアージュだ」
「……ヴァリアージュ? 貴族の……方でしたか……?」
フォン、ということは貴族だ。それならヴァリアージュは領地か官職の名前になるはずなのだが……生憎聞いたことがない。そのような領地は貴族が「フォン」を名乗る王国内には少なくとも存在しないし、そのような官職も存在しないことは職に就こうと思った一度でも思った人間なら誰だって知っている。
それに、デグレチャフ、というのも聞いたことのない姓だ。異国のものだろうか。ティーなんて名前は王国内ではアールとエスの次くらいによくある名前なので、それも判断の材料にはならない。
おかしい。偽名ならもっと良い名前がある筈だろうし、少年の態度を見るに嘘をついているようには思えない。
もしこの巨躯の方が魔王だとしたら、この少年は魔王の従者なのだろうか?
それなら魔王に対しての態度が不遜すぎる。
ゆえに、おかしいのだ。この少年は、何者なのだ?
「……そちらは?」
いくら温かくなり始めたとはいえまだ冷える夜の寒空の下、はち切れそうな半袖短パンに身を押し込めた変質者、もとい巨漢にも問いかける。
口を開こうとした中年くらいの大男を、少年が遮って言った。
「このおっさんはウマオ。私の従者だ。好物はとうもろこし、寒さ熱さには強い。よく働くうえに文句も言わない従順な下僕だぞ」
「……失礼ですが、ヴァリアージュっていうのはもしかして……」
「あんまり公には出来ないけれど、奴隷商売を統括する官職名だな。知らないのも無理はねえ。私はその跡取りだ。この町には観光目的でやって来た。というか打ち明けた話、お腹が空いたから立ち寄った。あと今夜の宿も欲しい。別に人を攫いに来たわけじゃねえよ、そんなに警戒することはない」
奴隷商……国外から人間を攫ってきて、労働者としてほとんど無いようなお金で無理矢理働かせる商売。そんなことを生業にしている人間がいるとは聞いたことがあったが、実物を見るのは初めてだ。
「この町にも娼館ってあんだろ。ついでにその店々の査察の為に三日くらい滞在するから、その許可をくれ」
夜闇の中。
唯一露出している左目は月明かりを反射して黒く輝いている。嘘をついているようには見えないが、先程からの言が口から出まかせである可能性も否めない。
ミルケがオーガスの方を見ると、彼は首を横に振ってみせた。つまり判断できない、ということだ。
未だに彼ら二人から感じる圧迫感が拭い去れないが、しかしウマオと紹介された巨躯が魔王であるとも言い切ることはできそうになかった。
「……この夜道の中、よく明かりもナシに歩けますね」
「夜目が効くからな」
「魔の森はちょっと夜目が効くくらいでは明かりなしで踏破出来るとは思えないのですが……」
ミルケがそう言うと、少年は前髪を持ち上げ、ずっと隠れていた顔の右半分を見せた。
病的なまでに真白い肌。その中央に、紫水晶でも削って埋め込んだかのような光を放つ眼があった。
「魔水晶でできた義眼だ。魔導の加護のおかげで、見えない物を見る事ができる」
もういいよな? あくまで門番ごときに、べらべらと事情を説明してやったんだ。町に入るからな。これが正式な書類だ、と続けて言った貴族の少年に、ミルケもオーガスも、それ以上の制止をかけることはできなかった。
少年がどこからともなく取りだした書類を読む前に、ミルケはまるで、「それが当然であるかのように」、用意していた魔法式を起動してそれを焼き捨てた。そして何事も無かったかのように詰所に戻り、二人組を町へと通す。
「なんだったんですか?」
「何がだ?」
ガロンが聞いてくる。「なんだったんですか?」と言われても、自分はずっと酒を飲んでいただけだ。酔ったはずみに何かおかしなことを言っただろうか。覚えていない。
「すまない、俺はなんて言った? ちょっと酒の入れすぎで自分が何を言ったのか思い出せん」
「かあーっ、ミルケ、お前も年なんじぇねえの? お前はさっき、えーっと……あれ? なんて言ったんだっけな」
「お前も同じ年だろうが」
違ぇねえ、がっはっは、と、二人で笑いあう。
そこでふと後輩を見ると、なにか思い詰めたような表情で呟いていた。
「おい、どうした? ガロン」
「いえ、ミルケさん、ちょっと胸騒ぎがするので、今日は夜通し町の巡回に出てきてもいいですか? オーギスさんとミルケさんの分の巡回も一緒にやってしまうので、二人はお酒をやめて、この詰所をお願いします」
仕事熱心だなあ、くらいにしか、ミルケは思わなかった。
ミルケ、オーガス、ガロン、全部名前は適当。
ガロンはなんとなくお気に入りです。




