第二話:蘇生の手順
まあそりゃそうなるよなあ、と、どこか呑気に考えつつ、ティーは、その場を動かなかった。正確には背中の聖剣の重さにふらふらしていたが、その程度の動きはこの際気にしても仕様がないだろう。
勇者が早く生まれすぎたのが悪い。予定ならあと十年は普通に暮らせるはずだったのに。人間として。こんな辺境まで、おっさんのご機嫌伺いにやってくる必要はなかったのだ。いや、でも、そのおっさんがもう少し強くて、勇者と互角で、十年くらいしぶとく粘ってくれればそれでも良かったのだ。
つまり、
……このおっさんが悪い!
眼前、魔王が左足を地面に突き刺し、体を捻る。
それを、ティーは、暗い前髪の奥の右目で見ていた。
拳が唸りを挙げて飛んで来るのは大体左頬のあたり。それを、最小限の動きでかわす。わずかに反った上体、背後で聖剣が地面に擦れる。魔法での筋力加護を全開にして、聖剣の重さを忘れられるようにした。
「捕まえた」
伸びきった魔王の右腕、その肘を、内側から叩いて曲げさせ、バランスを奪う。すると向こうの上体が開き、隙ができた。できた隙、すなわち肝臓のあたりに、肘を突きこむ。向こうのスピードと体重、それからこちらの技術が乗った重い一撃が入った鈍い音が響いた。
☆
魔王は、何が起きたのかを把握するのが一瞬遅れた。
こちらが拳を突き出す一瞬、丁度一瞬前に、いきなり獲物が動いたのだ。距離にしてわずか顔一つ分くらいであったが、その顔を向けて突き出されていた拳はわずかに出遅れ、結果、拳の振り抜きによって発生する風圧、それによる被害すら発生する前に、己の攻撃はいなされてしまった。
伸びきった己の体の内側に、少年の髪が広がる。
意外にも丁寧に手入れされていると見える綺麗な髪だ。
わずか数瞬、思ったのちに本能が拙いと告げる。しまった、と。
今、己の体は全力のスピードの上にある。魔法による加速は抜きにして、己の肉体が出せる、掛け値なしの最速だ。
それに、
「――お」
右肘が払われ、大きくバランスが崩れてしまう。
わずかに焦りを覚える眼前、敵がいるのは――
……脇腹!
彼我の体格差は優に五十センを超える。こちらは身長大体二百セン強程度であるのに対し、向こうは百五十セン……ともすれば百四十セン程度かもしれない。
つまり、それだけ。向こうが、小柄であるだけ。自分は、懐に入られると、不利なのだ。
向こうは突き出すだけで良いが、自分はこの体勢からだと腕を引き戻さなければならない。進行方向と異なる動きは、不自然ゆえに、実行には無理な負担がかかる。
だから、魔王は、己の身を。
脇腹に肘が刺さるのを覚悟で、更に、前に出した。
押し込んだのだ。
☆
肘にぶつかる瞬間、魔王が更にこちらに体を押し込んでくるのを、ティーは見逃さなかった。これは拙い。真っ向から力でぶつかり合えば、負けるのはどう考えたって自分の方なのだ。目視での体格差は六十センそこそこ、気をつけして立っても魔王の鳩尾まで己のつむじは届かないのである。
……いや、成長期まだなだけだからな! まだ伸びるし!
誰にともなく心中で叫び、いや、そもそもこの魔王のおっさんがデカいだけだ、と思い直す。魔王を人間の物差しで測ってはならない。どう考えてもデカい。デカすぎる。腕なんて自分の頭二つ分くらいあるのではないか――
そんなことを頭の片隅で考えつつも、ティーは衝突への対処を怠ってはいなかった。魔王の前進する力を殺すのではなく、突き出した右肘で受けて、体を回転させたのだ。鋭いターン、ステップは最小限に。ほとんどの衝撃をそうやって受け流してしまって、魔王とすれ違う。振り向くと、もうすでに、二撃目が眼前十数センまで迫っているところであった。魔王も自分と同じく、衝突した脇腹と右肘を中心にして、ターンしていたのだ。
しかしティーは慌てない。勝負はもう決していたからだ。
衝撃、打撃音。
一瞬ののち、その場に頽れていたのは、魔王であった。
うわあ、痛いんだろうなあ……、と、股間を抑えて微動だにしない魔王を見て、まるで他人事のように、ティーは思った。
先ほど魔王が振り返り、攻撃を放とうとした場所には、聖剣が突き刺さっていた。交錯する瞬間にできた一瞬の間に、ティーが背中から取り外した聖剣を突き刺しておいたのである。そして聖剣の柄は、ちょうど、踏み込んだ魔王の股間を強打するくらいの高さであり、あとは想像するまでもなく――
つまり、整理すると。
ここに、伝説の勇者の剣の柄に、己の股間を強打して悶絶する、前代未聞の魔王が生まれたというわけである。
☆
いくら腹筋を鍛えたところで、脇腹には肉の壁がつかない。魔王は人型という形態をとってこの世に存在する魔物であるために、その構造は、どこまでいっても人間と大きく逸脱することは無かった。
ゆえに、多少の衝撃は覚悟していた。想像以上の好敵手に、右脇腹くらいならくれてやっても良いとさえ思った。しかし相手は、魔王の評価のそのさらに上を行ったのだ。純粋に驚きを隠せなかった。鋭く、踵で地面を踏まないようにして回転。爪先で地面を蹴るようにする。
振り返った先、少年がこちらと向き合ってすでに構えているのを見ても、もはや驚かない。この相手は、そういう「敵」なのだと、自分に言い聞かせ、気を引き締める。
魔王には「もはや敵しか見えていなかった」。
腕の一本や二本、足の一本や二本、別になくなっても構わない。最悪だるまでも、いい。自分の部下にする以上、五体不満足というのはどこか気に入らない、そんなことを思うそのさらに上の次元にまで、敵は、昇ったのだ。殺す以外ならどんなことをしてでも、どのような状態になってでも、魔王は少年を、ティーを、手中にしたかった。
だからもはや、魔法の行使を、厭わない――
右腕に光と風を纏い、人体構造上不可能な速度の更に倍を行く、全速の拳を構える。あとは魔力を通しさえすれば、目の前の少年は、周囲の景色ごと木端微塵だろう。でも、この少年は死なない。強力な蘇生魔法があるのだ、一度や二度死んだことくらい、大したことではないに違いない。
わずかな溜め。まばたきをする時間のそのさらに半分の半分にも満たないような時間を溜めて、魔王は左足を踏み込み――
が、から始まる苦悶の声とともに、魔王はその場に、もんどりうって倒れ込んだ。
放とうとした魔法の式がきらきらと光を反射しながら、雲散霧消。
涙と鈍い汗に霞む視界を、なんとか背後に持っていくと、地面から生えていたのは聖剣の柄であった。片方の鍔が折れている、幅広の直剣である。見間違えようはずもない。なにせ、自分を一度殺した剣なのだから。
だが、魔王も、まさかその聖剣を、「自分を殺した憎き剣」よりも、「股間強打すると痛い棒」として認識することになろうとは思いもしなかった。
「……気は済んだか?」
目の前、しゃがみこんでこちらの顔を覗き込んでくる少年に、魔王は小刻みに何度も首肯した。今は魔王のプライド云々よりも、下腹部を襲う鈍痛に全身を支配されている。
体の構造が人間と漸近しているがために――男性型の魔王も当然例に漏れず、股間は、急所の一つであった。普段は当然魔力でガードしているのだが、不意の一撃がいけない。内臓と同じなのだ。それがそもそも体の外にあるというのがおかしい。
魔王はまず、人体という構造を呪った。転生したら絶対に人型以外の魔物に生まれると心に誓った。
「あ、そうだ、おっさん、お前、輪廻転生の輪から外れるからな」
「……は?」
まるで心を読みでもしたのかというようなタイミングに告げられた事実に、魔王は疑問の声を漏らす。
「いや、説明義務だよ。こっちは体提供してもらうわけだから、色々聞きたい事とか、あるだろ」
「それよりまず、回復魔法を……我に、かけてくれ……」
☆
魔王の、落ちるところまで落ちたというか、何とも情けない声を無視してティーは立ち上がると、ずり落ちたマフラーを持ち上げ直し、地面から聖剣を抜いた。そして、あえてゆっくりと時間をかけて、聖剣に付着した泥を払い、布で巻くと、革の拘束帯を装着し始める。
「お、おい……聞こえているのか……?」
地面を這うような魔王の前に、ティーは無造作に踏み込んだ。魔王の顔面、目の前に足を踏み下ろす。
「なんでタメ口なんだよ」
☆
衝撃だった。
眼前に振り下ろされた、包帯のようなもので雁字搦めの左足。想像以上に細い。いや、想像以上というかなんというか、ほとんど肉がついていない……否、そもそも、これは、本当に足か? まるで杖のような細さである。
しかし、そんな細い体に負けたことよりも、次に放たれた言葉の方が衝撃だった。
「なんでタメ口なんだよ。人に頼むときはお願いしますだろ。それくらい、親に習わなかったのか」
どこか拗ねたような口ぶりに怪訝な気持ちになるが、そんなことより股間が痛い。正直余裕もない。
「ぐ、あ、生憎だが、我に親など……」
「そんなことは知ってる」
「なら、何故――」
そこで、ふと、自分の先刻の発言が蘇ってきた。
――――恨むなら、目上への口の利き方を教えてくれなかった親を恨むのだな。
「親を恨むのだな」……もしかして、この少年は、親が……
「……すまない」
「あ? なにがだよ」
あるいはもしかすると、少年の親は、魔物に殺されたとか、そんな可能性が脳裏をよぎり、魔王は思わず、謝罪の言葉を口にしていた。この世に生を受けて以来、初めてのことである。それは魔王としては急激な心変わり、ありえないことであったが、ただ、それ以前にまず、股間の痛みは何物にも耐えがたかったのだ。
「私は謝罪の言葉なんて求めてねーだろ。人にもの頼むときはお願いしますを忘れんな、おっさん」
「お、お願いします……」
……それはさておき、この股間の痛みから解放された暁には絶対にこいつ殺す。
魔王は濁った瞳の奥でそんなことを考えながら、それを口にしたのであった。
☆
ティーは内心でほくそ笑んだ。魔王はあくまで自分が生き返らせてやった存在にすぎず、言ってみれば自分より格下の存在なのだ。魔王とはいえ魔族の「王」、最低限の敬意は払うにやぶさかではないが、あくまで自分の方がいわば飼い主であることを忘れてはならない。
なぜかはとりあえず横に置いておき、先程からひたすら地面に這いつくばってこちらに回復魔法をねだる魔王のために、背中に背負った聖剣を抜いた。
「よし、地面に額を付けてうつ伏せになれ。手は気を付けだ」
「お、おい、何をするつもりだ? 今、聖剣を抜かなかったか……?」
「要するに痛みがなくなればいいんだろ」
「そ、そうであるが……」
いいからさっさとやれ、と、視線で促し、魔王がそれに従った。額を大地につけ、気を付けの姿勢で地面に寝ている図に笑いがこみあげてくる。
「あは、じゃあ、ふっ、えっと、今、ちょ、ちょっと待って」
なんとか必死に笑いを我慢しようとはするものの、五体投地魔王というシュールすぎる画を前にして笑いが堪えられそうにない。静止の声が震えないようにするだけで精一杯だった。
自分はどうにも、変に笑いのツボが浅いところがある、と、ティーは自分のことを認識していた。一度笑い出すとなかなか止められそうにないことも。そろそろ、いくら魔王でもおかしいことに気付くに違いない。さっさとそれをやってしまうに越したことは無いのだが、しかし狙いがずれても余計な苦しみを負わせることになってしまう。
それでもなんとか笑いを押し込め、五体投地魔王の頭を挟むように両足を置き、聖剣を構えた。
「ちょっと傷むかもしれないけれど我慢しろそうすれば股間の痛みはすぐに消え去るから」
余計な思考が湧き上がる前に、言うべきことを早口で言い切る。ほとんど抑揚のない平板な声になってしまったが、それに言及するだけの余裕は現在、魔王にはない。
直剣の切っ先を魔王の首筋に添えた。
「う……」
魔王が呻き声を漏らす。
「一瞬だ。一瞬だけ、我慢しろ」
言ってティーは、自身の両腕に付加されていた筋力超増強の五重魔法式を、一気に解除した。
☆
少年に言われるがままに無防備な姿を晒す自分の頭を跨ぐ気配があった。
「一瞬だ。一瞬だけ、我慢しろ――」
声が頭上から届く。我慢する――何を? などと、思う間もなく。首筋になにか、尖ったものが刺さったかと思うと――何が起こったのかわからなくなった。
ちなみに主人公の姓はその時読んでいた本の主人公からパク……もらいました。パクリじゃないです。オマージュですよ(信じるべきは日本語の可能性)。




