6話
4月27日
雪が溶けつつある北海道の大平原を札幌に向けて多数のソ連戦車が進んでいた。
帝国陸軍は数が揃ったばかりの3式戦車でT-34に立ち向かうが、やはり多勢に無勢。甚大な被害を被った帝国陸軍は退却しつつあった。
だが、その中を2種類の双発航空機が通過していった。
1つは偵察機としても運用可能な夜間戦闘機屠龍で地上攻撃任務を担い、もう1種類は百式司偵、長距離性能と高速度を誇る戦略偵察機である。
「何て数なんだ…………」
偵察員の多賀中尉がそう言うと操縦士の三木原大尉が「あぁ、司令部に打電。"敵戦力は我が戦力の数十倍に昇る"と………」と呟き、多賀中尉は「了解」と続き、愛用のライカをソ連機甲軍団へ向け、写真を撮影する。
多賀が写真を撮影していると三木原は正面から小さい粒がこちらに多数迫っているのに気付いたのである。
「どうやら敵さんのお出ましの様だな、覚悟は良いな?」と三木原が言うと多賀は後部座席の与圧装置を切り、機銃の動作確認と酸素マスクを装着する。
そして…………
多数のYak-3が三木原らに襲い掛かってきたのである。
「多賀、セ連送だ!」
三木原がそう言うと多賀はすぐに友軍戦闘機の応援を呼ぶが、ここは敵制空権下、味方の応援など期待出来るはずない。
三木原は機体を637㌔まで加速させ友軍制空権下へ辿り着くと、そのまま付いてきた敵機は応援に駆け付けた野木原修二少尉が搭乗する4式戦闘機疾風によって撃墜されたのである。
だが一緒に出撃した多数の屠龍は奮戦空しく、史実と異なり独ソ戦で戦死することのなかったリディア・リトヴャク率いるソ連農労空軍機を振り切れず、撃墜されてしまったのであった。
雑木林と称される松型駆逐艦が石狩市の沖合いで軽巡天龍の、小樽市沖合いでは龍田の元に集結し、ソ連海軍太平洋の襲撃に備えていた。
しかし天龍型はすでに老朽化が進んでおり、武装は14㌢単装砲3基に、旧式の76㍉高角砲が1基と非常に心許なく、その上に松型も沿岸防衛用だったので12.7㌢単装及び連装高角砲が各1基に魚雷1基4発と頼りないのである。
そして…………
ソ連軍の歩兵を多数乗せた輸送船とその護衛の駆逐艦が戦艦ガングードと共に石狩湾へと侵入してきたのである。
やはり多勢に無勢であった。
天龍ら16隻は一応、奮闘を見せたが、ソ連の最新鋭高速駆逐艦やズヴェトラーナ級軽巡洋艦の攻撃で炎上したところに更にガングードの30㎝砲弾を食らって旗艦天龍が撃沈されると、混乱した龍田などは一方的に撃たれ続け、瞬く間に多くの艦が撃沈され、石狩湾防衛艦隊は壊滅したのである。
石狩湾海戦の結果、石狩湾より北の制海権はソ連に落ちたが、逆に太平洋側は帝国陸海軍の反撃が徐々に始まろうとしていた。
5月2日・早朝
横須賀
こないだの被害の復旧を終えた戦艦扶桑と就役したばかりの最新鋭巡洋戦艦大雪が大型艦用桟橋に並んで停泊していた。
「ご苦労だった」
そう言って扶桑に乗り込んだ男の名は木村昌福少将、口ひげがトレードマークで、優れた手腕と人格を持ち、山本総理肝いりで釧路奪還作戦の指揮官へと任命された男である。
扶桑艦長の渋谷清見大佐は木村少将へ敬礼すると「出港用意」と叫び、出港命令を下した。
いずれにしろ激しい戦いになるであろうが、木村少将の元ならどんな苦境も乗り越えることが出来るであろう。そう渋谷も確信していた。
その日の昼過ぎ、扶桑は大雪に加え、重巡青葉、衣笠、航空巡最上及び三隈と護衛の夕雲型駆逐艦5隻と修繕なったばかりの若葉に、空母翔鶴と就役直後の雲龍に加えてその同型艦である天城、葛城と陸軍の特殊船であるあきつ丸及び神州丸を含めた大艦隊は苫小牧奪還上陸作戦に向けて北上を開始したのである。