43話
1967年12月にある戦友の家族へ戦死の報告へ行き、そこで家族と少し話をしてから俺は更に他の戦友の家族のもとへ行き、同じ事を説明するが、どの家族も俺に対して”thank you berrymatch”と言いながら俺を見送ってくれた。そして彼らの子供や配偶者、恋人へも彼らの遺品を手渡した。
とは言え、彼らの戦死を家族もいや、戦友である俺たちも認めたくはないが、現実戦死しているのでそれを認めざるを得なかった。
1968年3月2日
休暇から空母サラトガへ舞い戻った俺、ジム・タケベ少佐率いる戦闘機中隊はもう1つの中隊と共に攻撃隊の護衛を担当するも、ミグの奇襲で7機撃墜の被害を出し攻撃は中止。俺の乗機も機銃弾数発を喰らい損傷。整備も兼ねて嘉手納からの飛来した予備機を受領し、損傷機をタイの基地へ向かわせそこで整備する事となった。
その数日後には戦艦フロリダの上空援護と初めて戦場に姿を表したMiG-23の撃墜するも相討ちとなって二度目の被撃墜を経験、リックと共に何とか近くに展開していた陸軍の空挺騎兵隊に無線で救援を要請して彼らのヘリに何とか乗り込み捕虜になるのは免れた。
が、この日長年組んでいたレーダーマンのリックが片足を撃たれて負傷。術後良好で歩行に支障こそ出なかったが療養の為に彼は帰国する事となった。
その後、俺も1週間の療養を経てから同じくサラトガへ戻ってきたレイモンドをレーダーマンに選んで出撃を繰り返す。
彼と組んでからも2機撃墜のスコアを出すも、二度撃墜され、三度被弾し、4機の機体を破損させたが、奇跡的に二人とも一度も負傷していなかった。
無論、負傷しなかったのは運以外にも不時着水後に救助へ駆けつけた同盟国たる日豪両海軍の艦艇やヘリ、衛生兵の支援も大きいのだが。
1973年5月2日
この日、ジャングルを低空飛行中に多数の対空砲によりエンジンが二基とも止まりレイモンドと共に機体を放棄して脱出するも、ジャングルでは想像を絶する反南部政府軍との死闘を潜り抜けて何とかダナン市街地まで逃げ込み、その沖合いの日本国境警備局所属のヘリ搭載巡視船鬼怒に収容されたのである。
だが俺は背中に二発の弾丸が撃ち込まれ、レイモンドも転んだ際に大きな痣をつくり、帰国と療養の命令が下り、久しぶりにキョウコと息子のミネカズとヨシオとの再会を果たし、休暇をイエローストーンで過ごし、レイモンド一家やリックとも一緒に楽しく過ごしつつも戦死した部下達の家族へも手紙を送った。
1975年6月30日
この日、南ベトナムの崩壊に伴いシドニー停戦条約が締結され、インドシナ大戦はようやく休戦を迎えた。それまでに俺は5度撃墜され、1度ヘリに救出され、2度脱走に成功し、2度ベトコンに捕まり、1度拷問される壮絶な体験をしている。
むろん俺は軍人としての任務を遂行しただけだ。それは虐待してきた向こうもそうだろう。
それはともかく俺は2度目の脱走後に救助してくれた日本の警備船に乗るとベトコン軍から奪ったAK-47をカテに日本国境警備局の山宮宗市大尉ら4名の乗員とポーカーをして北瀬春雄と言う20代後半の技術中尉に負けた際に彼に渡すと、彼と気が合って俺は互いの連絡先を教えあう仲となり、戦後暫くの間手紙のやり取りが続いた。
後年、俺が駐日本大使館付の武官になってからと再会すると彼はすでに軍を退役し、大日本工業の開発課のリーダーとなり新型機関銃の開発に従事していた。
それはともかく停戦から数年後、数度に渡る負傷もあって軍を名誉退役で退いたレイモンドが政治の世界へ転向し、同時に俺のレーダーマンだったリックもそれにともなって軍を辞めて彼のサポートへ回ったのである。
そして俺だけが軍に残り1991年の湾岸戦争でモンタナ艦上から艦砲射撃の指揮を執り、翌年軍を中将として退役したのである。
が、日韓戦争が勃発したさいには大統領となったレイモンドから安全保障政策の政策顧問に指名されたが、それは別の機会に話そうと思う。