36話
蒼龍(1951)
アングルドデッキ完備。米国製中古蒸気射出機による連続発艦が可能。
227m×41mと飛行甲板が広くなったが、側面のバランスをとるべく水面下にバルジを装備し、速力30ktへの低下と満載排水量2万5000tへの増加があった。
搭載機 震電27機(制空戦闘機)、流星(爆攻兼任)36機の61機+彩雲10機
武装は長10㎝高角砲6基+米国製76㎜連装砲4基。
レーダーは対空用は21号甲に変更され、水上用は米国製に変更。
1949年2月17日
半島では日米が支援している南政府とソ中が支援する北政府が一進一退の攻防が続けていた。
その頃、宮城県沖では帝国海軍航空隊のとある航空機が改修を終えたばかりの正規中型空母へ降り立とうとしていた。
空母蒼龍作戦指揮所
『震電、着艦態勢に入ります』
艦橋から伝声管を通じてそんな情報が入る。艦長である俺、粟倉新吉はすぐにでも第1格納庫と同じフロアの指揮所から艦橋もしくは甲板に出て、その機を生で見たいと思っていた。
だが俺は艦長。レーダーなどの確認などを行い、それを統括する職務がある。なので持ち場を離れる訳にはいかない。
ドンッ!鈍いと言う衝撃音と同時に独特のエンジン音がこちらへ聞こえてきた。どうやら初着艦は上手くいったみたいだな。
あとは発艦の際に帝国技術陣の粋を集めて製造された国産第二世代ジェットエンジンの帝国重工製のフ2噴射推進機と英系技術の射出機がちゃんと機能するが気になると思いつつも発艦を命じ、震電は射出機によって作り出された速度で空へと舞い上がった。
翌日、それを聞いた国防省統合幕僚長の山口多聞大将は震電のジェット艦載型である21型の22型への改修を許可。
当初よりエンジン交換を念頭に置いていた21型は修理と同時にエンジンを交換。
すぐに現状、現役でかつジェット化に対応していた空母蒼龍・翔鶴への搭載を開始した。
運命の3月24日
仁川上陸作戦
帝国陸軍中将村辺量一座乗の戦艦信濃とその横を進む第7艦隊旗艦の米戦艦ウィスコンシンを先頭に日米の大型戦闘艦群は一斉に右舷へ砲を向けた。
「撃ちー方、始め!」
信濃の戦闘指揮所で原為一艦長がそう命じると信濃に装備された9門の46㌢砲が一斉に火を噴き、続いてウィスコンシンが40㌢砲を放つ。続いて帝国海軍の老兵と言える長門、陸奥、伊勢、霧島が砲撃を開始する。
そして米ボルチモア級重巡に帝国海軍の愛宕、高雄、利根などの20.3㌢砲弾が次々に目標へと向かって飛翔し、最後には艦隊上空を最初に震電が通過し、制空権確保に向かう。
対する人民空軍と義勇航空隊はMiG-15で震電へ立ち向かう。空戦は日本側が優勢もしくは全体で見れば互角であったが、それはソ連航空隊の多くの熟練操縦士は欧州や北海道の地で既に散っていたのも一つの理由であった。
更に日米の操縦士、特に蒼龍の震電隊を率いる北海道戦役で大活躍を見せた鴛淵孝少佐はその高い操縦技術で敵を圧倒し、ヘリによる仁川への降下兵による制圧の突破口切り開いた。
その後も機械化された日米の師団の快進撃は続き、5月12日には平穣陥落、15日には同国中部まで完全に占領いや南政府からすると奪還したのである。
だが死に物狂いで北政府が反撃を実施。史実と同じあたりまで彼らが押し返したのである。
そしてその後、数ヵ月押したり押し返したりの攻防が続いたが、1950年9月1日早朝。銀行強盗上がりの書記長が心臓病により死亡。
新たに書記長に就任したのは党選任の経済学者、セルゲイ・ゲルニコフである。
理想主義者の前書記長とちがい彼は現実主義者でもあり、即座にサンパウロでの講話会議を提案。かつてソ連の手先を追い詰めた法務次官であった日本の山辺首相に、ハワイでの日米政府の会合で山辺の人格に惚れた反共者として根強い米大統領ジャック・ウォルソンもその提案に同意し、停戦となった。
もっとも英国の手際よさでマレーシアの独立は上手くいったが、一方で戦火はインドシナ半島、インドネシアなど欧州大戦で疲弊した欧州各国の植民地で上がりつつあった。
そして否応にも東アジアに位置する我が帝国はその戦いに巻き込まれていくのである………