『数』奇の話
その日――――。
世界中の空を飛んでいた飛行機は一斉にひっくり返り、往来の車は次々とぶつかり合い、各地で電気が消え、ビルはドミノ倒しになり、人々は恐怖におののいた。
この空前で未曾有で前代未聞の、地震とハリケーンと大噴火とが一緒にやってきたような大災害の原因は至ってシンプルで、読み書きさえできれば幼子にだって容易に理解できる程度のものだった、と先生は鼻息荒く講義していた。
「それは、何ですか」
と生徒の一人が手を挙げた。
「考えて御覧」
と先生は答え、椅子に腰かけて鼻眼鏡を揺らした。
夕方の教室は窓から見える赤茶けた空のせいで薄暗くもの寂しい。
十数人の生徒が整然と机に座って先生の授業を受けているが、その他に教室に目立つものはなく、がらんとしている。
何人かの生徒が意見を述べたがどれも正解とはならず、誰の手も挙がらなくなったところで先生は「よろしい」と頷き、腰を持ち上げた。
「先ほども述べたが、これは今となっては極めて当たり前で、諸君らの誰もが当然のように使っている原則、不変の真理を過去の人類が数千年にわたって誤認し続けていた結果起こってしまった悲劇である」
先生はぐるりと教室を見回した。
教室はじっと静まり返り、生徒の誰もが先生に注目していた。
「――であるからして、なぜこのような悲劇が起ったのかを特定するのは当時の人々にとって決して容易なことではなかった。何せ、今でこそ『当然、尤も、当たり前』な原則だが、彼らは古来ずっと誤認し続けて居たのだからね。自分たちの常識を疑ってかかるのがどれほど難しいのかについては、いま諸君らが身をもって実感したばかりだろう」
先生はそう一息に言ってしまうと、チョークを一つ摘まみあげて黒板に数式を書きあげた。
『1+1= 』
「この答えはみんな知っているね」
教室に失笑が起った。
何が難しいことがあろうか、初等教育のそのまた初期に扱うような内容ではないか、という意味の失笑であった。
私は笑わなかった。
「そうだ。答えは『3』だ」
先生は大まじめに、=の右側に3と書き足した。
「今では当たり前のことだ。誰でも知っている。1と1を足せば3になる! だが、その昔、それこそ何十世紀にもわたって人々は、この答えが他のある数だと信じて疑わなかったのだ!」
今度は笑いが巻き起こった。
私はこっそり机の下で指を一本ずつ立ててみた。一本立ててもう一本立てると、どうしても三本にはならなかった。
教壇の上では先生がこれ見よがしにチョークを取り出し、一本ずつ手のひらの上に載せている。一本に一本を乗せたら三本になっていた。
周囲でも笑いあいながら生徒たちがやれ鉛筆だ、やれ消しゴムだと物を取り出しては『1+1=3』を見せあってはまた笑いあっている。
私は机の下の手を見たが、やっぱり指は三本にならなかった。
ひとしきり教室が笑いあい、落ち着いたところで、先生は再び真面目な表情になった。
「そうだ、諸君。君たちは今さんざんに笑っただろう。だがね、古い時代の人々は、この原則をずっと誤解し続けていたのだ。その間違った原則に則って航空機を飛ばし、車を走らせ、電線を張り巡らし、建物を設計した! それが何千年かの間は上手くいっていたのだ。だがね、少しずつの綻びが、何千年もかけていよいよ大きくなって、それが途端に崩壊――四散して、あのような悲劇をもたらしたのである」
教室中の生徒も再び真剣な面持ちに戻って、時に頷きながら先生の講義に聞き入っていた。
私はそれを気持ち半分に聞きながら、机の下で指を折ったり伸ばしたりを繰り返していた。
1と1でまだ3を作れない。
そうこうしていると、一人の生徒が手を挙げた。
「先生」
彼はクラスで最も頭がよい生徒だった。
1+1が3であることも、3-1が1であることも当たり前のように知っていた。
「では、古い時代の人々は、1+1の答えが3ではなく、何だと勘違いをしていたのですか」
「ううむ、言い質問だ」
先生は目をぱちぱちとさせながら唸った。
「実は、それに関する文献は残っていないのだ。旧時代の学者たちはよほどこれまでの過ちが恥ずかしかったのだと見える。その数式に関するありとあらゆる証拠――根拠となる一切は失われてしまった。だから、今残っているのは1+1が3であるという不変の真理と、それを旧時代の人々が誤っていたのだという事実のみなのだ」
「ははぁ、わかりました」
彼はもっともらしく頷いた。
放課後、私は町へと繰り出した。
旧時代の大災害からは百年余りが経過しているのだとかいう。
その大災害はそれこそ空前絶後――前代未聞の大被害を引き起こしたものであったから、いまだに復興は完全にはできていない。
町にはまだいくらか建物の建っていたらしい跡が残っている。
しかし、瓦礫やらを運ぶ車がその日以降全て使えなくなってしまった。
そもそも人口だって半分以上が吹っ飛んでしまった。人手も足りなかった。
そんなわけで、一時期は弥生時代かそこらのような暮らしをした地域も少なくない。
現代では、『新時代の数学法則』が立派に確立され、徐々にだが復興が完成しつつある。
空を飛ぶバルーンには、今日のこれから、災害後初となる航空機の有人飛行実験が行われると宣伝広告が張り付けてある。
だが、私は相も変わらず指先をしげしげと眺めながら首を傾げていた。
1+1=3、1+1=3
と、何度呪文のように繰り返しても、指の数が一本足りなくなる。
なぜ、他の誰もができることができないのだろう。
なぜ、当たり前の理屈が当たり前に考えられないんだろう。
聞きかじりの知識を無理やりに使い続けてなんとか数学の落第だけはしないできたが、生まれてからというものずっと自分の指先が不気味でならなかった。
1+1は3なのですか。
それとも別の数なのですか。
教えておくれ。
1+1は3なのですか。1+1は3なのですか。
1+1は3なのですか。1+1は3なのですか。1+1は3なのですか。…………。
そんな風に呟きながら石ころを蹴り蹴りぶらぶらと歩いていると、「待て」と呼びとめるものがあった。
私が驚いて振り返ると、瓦礫に腰かけたまま杖で何やら地に文字を書きなぐっていたらしい白髪の老人が手招きをしている。
恐る恐る近づいてみると、老人は私の姿を頭のてっぺんから足の先までじろりじろりと見まわした後で、開口一番「偉い!」と言った。
「はぁ、何がでしょうか」
私は突然のことでぽかんとなって、思わず気の抜けた返事を返したが、老人の方はただしきりに頷いていた。
「若いのに偉いぞ……偉い。お前は……この世の真理を解き明かす才能を秘めた男じゃ。知恵の神メーティスの祝福を受けた者じゃ。偉い、偉いぞ……」
まるで感服した、と言うようにほうとため息をつきながら老人がそう言うので、私は少しだけ照れくさかった。
老人は「偉いぞ、偉い……」と繰り返しながら、地に書きなぐった文字を杖で示した。
「これが何か解るか」
「『1+1= 』の後に続いていろいろな英語が書きならべてあります」
「そうだ。儂はな、今の世界のボンクラ学者どもがな、信仰しとる『新たな絶対的数学法則』を疑いに疑いぬいておるのよ」
老人は指を一本と、もう一本立てた。
「お前にはこれが三に見えるか」
「見えません」
「そうだろうとも。そうでなくてはならん。これは三ではない。だが一本と一本――――これは三ではない、三ではない」
ぶつぶつと呟きながら、老人は再び杖で地に文字を書き表してゆく。
「古来、一と三の間にはな、何か別の存在があったのだ。しかしそれは、『死ん』だ。否、殺されたのである」
「殺されたって、誰に……」
私は口ごもりながら恐る恐る尋ねてみた。
すると老人は勢いよく顔を持ち上げ、表情は憤怒へと変わり、地を罪人に見立てるようにして杖で何度も打った。
「文明社会にだ! この成長し、成熟し、腐敗を始めた文明社会にだよ、君。その数字は殺されたのだ、殺されたのだ。
前代未聞、空前絶後の大事件のその日に殺されたのだ。彼の数字はその日を境に抹消されたのだ。事件の全ての責任をなすくりつけられて谷底へと投げ捨てられたのだよ!」
老人のあまりの迫力に気圧され、私はよろよろと後ずさった。
しかし、おかしい。
どうにもおかしい。
彼の話が事実であれば、それはおかしなことになる。
「では――――」
私は恐る恐る尋ねた。
「なぜ今では1+1が3なのでしょう」
老人はジロリと私の方を見たが、落ち着き払った声色で答えた。
「簡単なことだ。1+1が3でなければならないからだ」
「なぜそうでなければならないのでしょうか」
「よいか、賢い君よ。君も知っている通り、空前絶後の大事件は実際に起きたのだ。その責任を取らねばならなかったのが、彼の数字だった、ただそれだけなのだ」
「どうして、それが責任を取らねばならなかったのでしょうか」
「それはな、賢い君。空前絶後の大災害はな、全く、全くだ。全くの不測のもとに起こったのだ。しかしな、あれほどの大規模な被害、悲しみ――を生み出したのでは誰かが責任を取らねばならなかった。そこでその『ある数』が代表して責任を取った形となったのだ」
「つまり、冤罪ですか」
「左様」
老人は低い声で応じ、杖でコツコツと地を鳴らした。
「全くもって酷い冤罪事件じゃ。極悪非道の数学者どもによる計画犯罪じゃ。彼の数は、これほどの大被害、一世紀の時を経ても癒えきれぬ傷跡――損害のその全てを背負わされたのじゃ」
私はだんだん老人が何を言っているのかが分からなくなってきた。
数が死ぬ、などという突拍子のない話を持ち出され、どう答えればよいのかもわからなくなった。
ひょっとして私は、人を騙すのが好きな老人にまんまと引っ掛けられようとしているだけなのではないか?
そもそも1+1が本当に3でないならば、先刻授業を受けていたあの校舎は、一体どうやって建っているのだというのだ。一世紀前の空前絶後の大事件は一体どうして引き起こされたというのだ。
そうだそうだ、私がおかしいだけなのだ。
1+1が3ではないかもしれないと、勝手にひねくれた考え方を持っていただけなのだ。
そう理解すると、どうも目の前の老人が滑稽に思われて来た。と同時に、よくも騙そうとしやがって、という憎らしさが湧いてきた。
そこで私はあえて騙されたふりをして、一杯食わせてやろうと思い至った。
「ご老人」
私は古い本に出てくる貴人の言葉を真似て、畏まって声をかけた。
「私にはどうにも解らないのですが、その殺された数とは何なのですか」
「儂にもわからん。それに関する資料文献その他の一切は、当時の学者ども、即ち殺人犯どもが焼き捨ててしまったからな。だからこそ、ここまで復興が遅れておるのだ」
「なぜ……なぜ、その数字を殺すと復興が遅れるのですか」
「よいか賢い君。数字を一つ殺そうと思えばその数字に関わる一切を殺してしまわねばならん。それはつまり、ほとんど全ての数学的資料文献を焼き捨てねばならんということになる。もちろん建築、機械工学、果ては力学までありとあらゆる文献を手にかけねばならん。最後は緘口令を布き、数学者自身が自らの命まで殺す。するとどうだ、ありとあらゆるこれまでの常識――――技術が失われるだろう。そこから復興することがどれほど大変であろうか。一世紀たってもまだこの惨状であることこそ、殺人のまぎれもない証拠なのだ」
「ではご老人。なぜその数字が殺されたと貴方は知っているのですか」
「それは――」
不意に、先ほどまであれほど熱弁していた老人が口を閉ざした。
その顔は先ほどまでは酒気を帯びているのかと思うほど真っ赤であったのがみるみるうちに青ざめていく。
私は心の中で、そら見たことかと勝ち誇った。
1+1は3なのだ。1+1は3なのだ。1+1は…………。
「儂だ」
老人は俯きながら、弱弱しく呟いた。
「儂なのだ」
その声があまりにか細かったため、私は思わずぎょっとした。
しかし、その言葉の意味が解りかねたため、恐る恐る尋ねてみた。
「な、何がですか……」
「…………」
「何がなのですか……」
「………………」
老人の顔はすっかり真っ青になり、先ほどまでよりも十は年を取って見えた。
私はそれ以上は尋ねず、その弱りきった老人の姿をただじっと見ていた。
やがて、老人は重たい口を開いた。
「儂が殺した、儂が……」
「えっ、誰を」
「『2』じゃ……」
「『2』……。『2』とは何ですか……」
「1と3の間にあった数よ。1+1の真の答えよ」
私はためしに指を一本と、もう一本付き立てて『2』を作ってみた。
「これが、『2』……」
「そうじゃ。儂が殺した、儂が殺したのだ」
それはおかしい、と私は思った。
事件が起こったのは一世紀以上も前の話と聞いている。
老人は確かに高齢だが、百年以上も生きている仙人のようには思われない。
そもそも『2』を殺したのがこの老人であれば、当時彼もりっぱに数学者であったことになる。
そうすると彼の年齢は若く見積もっても百五十。それは人間が平気で生きていられるような年数ではない。
ところが、老人は私の疑念を看破したかのごとく、自分からこのように答えたのであった。
「儂はもうすぐ百が近づいておるがな、ただ……事件が起こったのは、本当は一世紀も前の話ではないのだ」
「えっ」
「よいか、よいか……。『2』という数が殺されれば、即ち、一から十までの数字が九つしかないことになる。
「……はい」
「さらに、さらにだよ。二十という数字も当然あり得ないのだから、十九の次は三十となる」
「あっ」
私はここにきて、ようやく彼の言わんとするところを理解した。
その話を信じるならば、まだ事件が起こってからの時間は簡単に見積もって七十年かそこらに落ち着くかもしれない。
「儂は当時、まだ二十歳を迎えたばかりだった。そしてあの事件が――まったくもって不幸なあの事件が起こったのだ。誰かが責任を取らねばならぬ、誰かが責任を取らねばならぬ。そんなときだ、悪魔が囁いてきたのは……」
私は先刻までの疑念とか、勝利の愉悦とか、そういうものを全て唾と一緒にゴクリと呑み込んだ。
そして目の前にいるのが希代の極悪事件、即ち『2殺し』の犯人であることが確かであるとすっかり信じてしまっていた。
ああ、哀れなこの老人は、若くして大事件の責任を問われて、愚かにも大きな罪を犯してしまったのだ。
そしてその懺悔をすべく、この場所で七十年も地をコツコツと叩いているのだ。
私はもはや言葉を発し得なかった。
ただ頷くだけで老人に話の続きを促した。
「あの日起こったのは全く不思議な出来事であった。世界中の機器という機器が一斉に誤作動を起こし、数式という数式を用いて作りだされた文明社会のありとあらゆる財産が全て崩壊した。
真相はいまだに解らぬが、私は間違いなく何か『旧来の数学法則』の何かが致命的な欠陥――それも数十世紀にわたって少しずつ蓄積する程度の、ごくわずかな欠陥を抱えていて、それらがダムの決壊のごとく世に溢れたのだと思った。当時の学者もほとんどがそう答えた。だが、その致命的な欠陥が何であるのかは、どうしても解らないままだったのだ。
これまで文明を、数学の恩恵を享受していた人々は手のひらを返したように数学者を恨んだ。この大悲劇は数学者の計算間違いが起こしたのだと理解するや、数学者を皆殺しにしろと言うものまで現れた。実際に襲われて殺された数学者も数多くいた……。
だから、だからだ。私は考えた。『世界中全ての人間が信じ込んでいた数学法則』に欠陥があったとすれば、人々も数学者だけを責め立てられなくなるだろう、と。
そうして私が『2』を殺すと、思った通りに人々はみな口をつぐんだ。忌まわしいものを忘れようとするように、次々に『1+1=3』であるという新法則の信者へと変わっていった。世界は『2』と共に死んだのだ」
私は、ヒュウ、と息を吐いた。
足の先から頭のてっぺんにかけて震えが一気に駆け上がっていくのを感じた。
「賢い君よ……」
老人はかすれた声で呟いた。
「儂はあれからずっと、ここで『2』へ懺悔しているのだ。大事件を引き起こした原因を突き止め、彼こそが真犯人じゃったと突き出し、『2』を蘇らせてやろうとしていたのだ」
「『2』を、蘇らせる……」
「そうだ……。儂はな、七十年間ずっとこの殺『数』の罪を背負い続けてきた。そして学会へ何度となく自白しに行ったものだ。『私が殺した』と。だが……老人のたわごとと跳ね付けられた。遅すぎたのだ。世界は『2』を、私が殺したその数字を完全に埋葬してしまった。そうなのだ、賢い君よ!」
老人は再び怒りで気を持ち直したか、勢いよく顔を上げた。
「そうなのだよ……そうなのだ。もはや誰も受け入れてはくれん。私は恐ろしい……恐ろしいのだ。今の世界が、ではない。この不気味な世界を作ってしまった儂自身がだ。もはや儂が何を言ったところで世間は『2』の存在など認めはしない。彼らにとってはもはや『1+1』が『3』であることが真理なのだ。生まれてからずっとそう言われ続けてきた者たちが、誰かから与えられた知識が全てと思い込んでいる奴らが、『2』を認めようとはせなんだ。あぁ、賢い君よ……自分で世界の真理にたどり着きし者よ……どうか……どうか……」
それだけを絞り出すように告げてから、老人はよろよろと瓦礫の一つへ近寄っていくと、えいやっと頭を打ち付けた。
あっ、と言う間もなく老人の頭はぺしゃんこに潰れてしまい、私は思わず顔をそむけた。
死んだ……死んでしまった。
この世界の裏を知っている唯一の男が死んでしまった……。
いや、いまや唯一知っているのは私だ。
彼は全てを私に押しつけてしまった。
ああ、ああああ、あああああああ。
私は手の先がじんと、痛いほど熱を持つのを感じた。
反対に背筋は氷のように冷たくなって、足はひとりでにわなわなと震え始めた。
私だけが……私だけが知っているのだ。
1+1はは2だった、1+1は2だった、1+1は2だった……。
「あああああああああああああああああああ」
私は顔を手で覆って叫んだ。
指の合間から垣間見えた空で、飛んでいた初の有人飛行実験機がひっくり返って墜落していくのが確かに見えた。