杯ノ九百九十五
寄り掛かっていたはずの胸倉を押し退けるかの様な、強張った細い肩。紫色の眼差しと、下瞼の辺りで弾けた涙の飛沫が静馬の頬に降り注ぐ。
「あっ…。」
そうなのだ。こんな呟きが彼の息遣いと重なって聞こえる程、砕けた涙の粒が彼の頬に届いてしまう程、二人は近い距離に居た。…まぁ、月紫は静馬の膝の上に座っているのだから、当たり前の話ではある。それなのに…。
きっと、二人を包む洞窟の暗闇が冷たくて…優しすぎて…。温もりのない自分の身体の事を、月紫は忘れていたのだろう。
近づいても、近づいても、彼女は熱を奪う一方。どんなに深く肌を重ねたところで、氷の様なその身体では、静馬を温めてやれはしない。その事を、今、やっと…思い出してしまった。
抱えていた彼の右手への締め付けが緩んでいく。同時に、くたりっ、芯が抜けてしまった様に肩を落とす、月紫。
まだ薄目を開けられるくらいには、目の痛みが引いていない。それでも静馬は…多分、太腿に圧し掛かる尻の重みで…彼女の『気持ち』を察したか、
「んっ、今、何か…掛かったよな、温かいものが…。」
空惚けた口調。『温かいもの』とは無論、頬に浴びた彼女の涙である。
また静馬に弱気を見られてしまった。いいや、思いっ切り、自分から見せたのだった。…月紫は瞬時に顔色を青白くして…かと思えば、一転、お腹の緊張が解かれた事も手伝って、耳まで真っ赤っ赤。顔中に血の気が行き渡る。
仮に、そんな月紫の状態を嗅ぎ分けられるとすれば…静馬は手遅れなところまで吸血鬼に成ったといえるだろう。だがしかし、クンクンッと鼻先の匂いを吸い込んだ感想は…。
「やっぱり、血が掛かった…いや、違うか。」




