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杯ノ九百八十六

 「ごめんなさい。私の身体が冷たいばかりに…もしも私が人間だったなら、この胸で抱き締め、温めて上げられたのにね。」

 早くも、雲行きが怪しくなってきた。…そして、二人の胸中に立ち込めた暗雲は、自然に晴れそうもない。何故なら、彼女に『冷たい手を離す』と言う発想がなく、静馬(しずま)は口を塞がれている…。

 それでも月紫(つくし)なりに、『二つ目のお願い』の解決策を…彼の心を晴らす方策を、懸命に考えた結果…一つの答えに辿り着いたらしい。

 「気休めだけれど…。」

 少し照れた様に項垂(うなだ)れ、静馬の閉じた瞼から口元を隠す。

何事かと訝しがる彼の耳に、深く、優しい息遣いが聞こえる。加えて…心なしか、手の甲が暖かい様な…。

 二度、三度と、息遣い。そして後に続く、ほんのりとした温もり。これらを交互に感じる内、やっとこさ、静馬が気付く。

 (あーっ…そうか、吐息で俺の手を温めてくれようと…。頑張ってくれている訳か、身体の内側の体温を吐き出して…。)

 実に健気な話である。静馬が寝ている彼女の口に人差し指突っ込んだ…あの時の死体の様な冷たさを思えば、きっと、吸血鬼の体内には必要最低限の熱しか宿らない。内臓を生かすギリギリの体温しか維持しないし、維持されないのだろう。

 それを考えたなら、珍しく静馬さえじーんっと来る程、月紫は身を削っている。だが…まったく、残念な話だが…正直言って、気休めにすらなっていない。

 「ハァーッ。」

と、肺から、小さな身体から振り絞って、わずかな温もりを吐き出す。そんなありがたみとは裏腹に、熱は供給された端から、淡雪の如く消えてしまう。彼の左手首にピタリッと密着した誰かの掌へ…。

 これでは気の毒すぎる。

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