杯ノ九百八十二
言われた事を素直に聞き入れる性質の男ではない。解っちゃいたが…月紫は『開いた口が塞がらない』とばかり、溜息を一つ。…おっ、『押して駄目なら、引いてみろ』の原理が働いたか、上手く牙が外れてくれた様だな。
早速、彼の方を振り返り…まずは、瞼を塞いだままなのを確認。そうしてから、頬を動かし、牙の収まりに気を付けつつ、口を開いた。
「静馬は私を信頼して、従ってくれるのでしょう。なら私も、多少の事は目を瞑って…信頼して、貴方に預けるわよ。」
出来るだけ簡潔に、早口で…。そのため必要以上に押し付けがましくなってしまったが、止むを得まい。何しろ目下のところの問題は別に…そう問題は、目下のところにあるのだ。
彼から顔を背けながら月紫は、ニッと満面の笑みを作る。そしてすぐに、無表情。見られていない内とばかり、表情筋の硬直具合を確かめているのだろう。そして、本番はこころから…。
目尻に皺が寄っていては一大事。目を見開いたり、閉じたり、声に出さず『あ、い、う、え、お』と口を動かしたり、念を入れて面の皮を解す。…その耳元で…パチリッ。涙混じりの瞼で瞬きする音が響いた。
月紫は慌てて口を閉じ…かけて、どうやら、ギリギリのところで理性が働いたらしい。今度は、やんわりと唇を結んで、
「…見た。」
「いいや。見えていたら報告するって。」
彼女の問いかけに、痛みを忘れたかの如く素知らぬ顔で答える、静馬。こいつは…盗み見ていやがったな。
奥歯を噛み締めたい。彼の手を握り潰したい。そんな衝動を必死で押し殺し、月紫が小さく咳払い。愛らしい唇を慎ましやかに動かし、呟く。
「寝起きの所為かしら…。私も、力加減が本調子じゃないみたい。」




