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杯ノ九百七十三

 夜目が利くものだから、好奇心に飽かせ彼女の顔を眺める。足元の(くぼ)みに靴底を(こす)り付けつつ、時間を稼ぎつつ…白く、端正な容貌に沈む、二つの窪みを見つめる。

 そこまでは、月紫(つくし)の言う通り。そこまでは、静馬(しずま)の左手に握りしめられた冷たさ…彼女の手の柔らかさの通りであろう。しかしながら…足を踏ん張る音が一組とは限らない…。

 (むしろ最初に足を踏ん張り出すのは、あんただろ。)

 やや白けた感じになる静馬の目線。それに気付いたのだろう。月紫は振り向けていた顔を、髪を振り乱さないよう、ゆっくり、俯かせる。

 今にも零れ落ちそうな、彼女の瞳の輝き。その真下にある彼の左手を見ていると…何とはなしに著者にも、暗く、狭い通路で繰り広げられる寸劇の絵面が見えてくる様だ。

 「多分、あんたの言う通りで…『目を放せない』のは間違いないだろうな。」

と、どうにも皮肉な含みを孕んだ静馬の返事。それにまだ、終わりとは思えないし…。

 月紫は、彼の手の中に少しでも空間を作ろうと、自分の右手に逃げ場を与えようと…引っ張り込む様に、シャツの布地を握り締める。

 血の湿り気を帯びた部分から、指先が乾いた部分に触れた時、はたと我に返った。

 (いいえ…誘導するのは、この子じゃなくて…。窮屈な所に引っ張り込むのは、私じゃないの。)

 愕然としてシャツを放す、月紫。安物だけあって、だらんっと伸びた丸首も、寄った苦悩の皺もそのまま。

 別段、そうしたタイミングを計った訳でもなかろうが…。静馬は大きく息を吸い込み、もたれ掛る彼女の背中を押し返し、溜息を一つ。

 「だいたい、俺が『目を放したら』あんた、怒るだろ。『ちゃんと預かっていろ』って。」

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