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杯ノ九百七十二

 腹の底に落ちてムカムカッと、彼の神経を逆なでするのだ。

 固く()の締められた堪忍(かんにん)袋から、空気が漏れ出すかの如く…。静馬が短い鼻息を一つ、二つ。しかしながら、そこから感情を露わに出切るほど、器用な性質の男でもない。

 ふと頭に浮かんだ閃きで、腹の底を括り直す。そうして今度は、自分から月紫(つくし)の頭に胸板を押し付け、

「そうかっ。向かい合わせで、あんたに両腕を引いてもらい歩く。その手があったな。言われてみれば考えが浅かった。確かにこれなら、グイグイッ引っ張る手に付いて行くより、ぐっと無難に歩けそうだ。腰を屈めて後ろ歩きする…あんたの尻が無事に済むかは、解らないが…。」

 押し付けあう胸板と頭。その辺りから、シャツと髪の毛の擦れるじりじりとした音。

 折角、手取り足取りで『あんよ』について説明しようとしていたのに…月紫は渋い顔で口をへの字結ぶ。だが、頬が(ほの)かに赤くなっている様子を見ると、静馬の察しの良さに悪い気はしていない。加えて…、

「けれど、やっぱり駄目だわ。」

 「どうして、悪くない作戦だと思うぞ。」

 そう言われると…委ねるところは、素直に委ねてもらえると…。月紫はしみじみ思ってしまう。

 (我ながら本当に、他愛ない女だと…けれど…けれど…嬉しいのよね、どうしよもなく…。)

 静馬の胸倉に押されるまま頭を起こし、月紫は口元を綻ばせ、溜息を一つ。

 「だって静馬は、目玉の入っていない私の顔、腕を引かれながらまじまじと眺めるんでしょう。そんな、面白そうな顔をして。」

 言われて静馬は耳を澄ます様に、右へ、左へと首を(かし)げる。聞こえたのは…ザリザリッ…時間稼ぎに、足を踏ん張っている鈍い音。

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