杯ノ九百七十一
「うん…。」
逞しい胸倉から後頭部を、背中を離し、俯く。月紫はそうしてから、感慨深そうな声で呟いた。
単純に、後ろ手で彼を導けば良いと考えていたが…。幾らなんでも、音だけで二人分の足元に気を配るのは無理そうだ。
追い打ちをかける様に、『夢物語』で見た光景。頬と言わず、顔中傷だらけにした幼い静馬が血溜まりに映る。
耐えかねて、眉根を曇らせた、月紫。固くなった下っ腹に、彼女の小さな右手が…そこへと重なった静馬の左手の、押し込む様な存在感。
黒目を大きくした紫色の瞳が、吸い寄せられて洞窟の天井を見上げた。…鏡の如き瞳孔で、ちょっと恨めしそうな眼差しを残しつつ…。
「こうして…静馬を見上げて…。」
「んっ。」
喉元を逸らし喘ぐ様な声を漏らす。静馬は彼女のその顔を覗き込むと、前のめりになって…トンッと、胸倉を頭で小突かれた。
まるで、闇雲に歩こうとする幼子を、押し止めるかの如き穏やかさ。自分の方こそ、そうしていた…。月紫の無謀を抑えていた積りの彼からすれば、少なからず、面白くない感触。いっその事、ゴツンッと来られた方がまだしも…笑ってもいられただろう。
そう言う男の小賢しさ、子供っぽさを感じ取った様だ。例え、目が見えなくとも、耳で足元を探るのに忙しくとも…月紫はこうしたところに鼻が利くからな。
黒目に映るムスッとした顔へ、愛着の籠った目配せ。それから、楽しげな微笑みを零しながら、
「あんよが上手…。」
「あぁっ、何を言って…。」
「…とは…して上げられないわね。相手が、私よりも大きい赤ちゃんじゃ…。」
トンッともう一度、胸倉を叩く月紫の頭。優しい、優しいその感触が、腹の底に落ちる。




