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杯ノ九百六十三

 まずストンッと肘を落とし、次いで、羽を休めるかの様に細い腕を伸ばしていく。途中で少しだけ、静馬(しずま)の右肩に(すが)ろうとしたものの…当てが外れた。

 強情にもまだ、石舞台の上に右手をついている。そんな彼を月紫(つくし)が、不服気な瞳で一瞥(いちべつ)。しかしながら、肩の力はすでに抜け始めているのだ。

 静馬の右肩よりも、下へ、下へと降りていく自分の手先に意識を向けながら…。月紫は小さく微笑んだ。

 「さっき、貴方…『私の右手を(あず)かりたい』と、そう言ってくれたわよね。」

「…あぁっ、言ったよな、確か…。」

 要領を得ない返事。だが、こうして、羽ばたく様に落ちていく右手で彼の目線を絡め取った。…彼女の目論見からすれば、大成功と言えるだろう。

 洞窟の分厚い暗闇を裂く白い手は、緩慢に沈みつつ…時に、ピクリッと跳ねる様な幻影を残す。やはり、月紫の中にも、『人魚姫を続行』したい『気持ち』が留まっているのか…あるいは、静馬にしろ、著者にしろ、女を甘く見過ぎかも知れない。

 微かに感嘆の声を漏らして、苦笑を漏らして…。多分、彼女の胸中を読んだ気になっている、静馬。

 月紫は彼のその不遜(ふそん)な態度に、微笑み返し…右手が落ち切らぬ内に、しっぺ返しを放つ。

 「撤回するのなら今の内よ。」

「えっ、おっ…。」

 どういう意味か判断が付かぬまま。それでも静馬は反射的に、石舞台の表面で右の掌を擦る。

 彼の瞬く間の反応は、見ない、見るまでもない。『それが好い女の(たしな)みだ』と言わんばかり、月紫は笑みを深めて、

「今の内…洞窟にいる間よ…。」

 声色に、気怠さを、溜息を混ぜ込む。そうやって、足りない色気を補う。…おっと、失礼。

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