杯ノ九百六十二
大きく息を吸い込み、吸い込んだ分乱れた息を整えて、
「あんたにそう言ってもらえれば、俺から親父に突っかかっていく理由はないな。まっ、そもそも、目玉は二つあるんだ。何だったら、親父と、俺で、あんたのお目目を仲良くはんぶんこ…なんて、解決策もある。二つとも目玉取られて、あんたが平気だったらの話だけどさ。」
話をしている内、彼の息遣いも随分と穏やかになった。…これで、胸倉に押し付けられた肩が離れてくれれば…いや、体重をほんの少し反対方向へ移してくれるだけでも…望み薄だろうが…。
月紫は消えそうな頬の感触を呼び戻す様に、右の掌で虚空を撫でると、クスリッ。苦笑を漏らして、耳元にある肩に頭を預ける。
「ちゃんと、覚えていてくれたのね。私の瞳を褒めてくれたこと…ありがとう、静馬。」
密着した頭でロックされて、いよいよ、静馬の胸倉から彼女の肩は離れそうもない。ひらひらっ、洞窟の暗闇で遊ぶ右手も『隙あらば』と、逞しい首根っこを狙っているのだろう。
誰よりも身近でその気配を感じている。身をすり合わせるその瞬間、月紫の頭の中に『加減』の二文字は存在しない。あっても、ひどくあやふやなもの。
そう知っているはずの静馬が…彼自身、意外な事に…胸倉で彼女の肩を押し返しながら、グッと身を乗り出した。
「『覚えていてくれた』って…俺があんたの瞳を褒めたのは、つい今しがた…。それとも…親父に対しての…。」
『だからと言って別に、怒っている訳じゃない』。そんな言葉を続ける様に、伝える様に、唇を結んだ、静馬。彼女の重みに身を委ね、また少し、背後にいる『誰か』の方へと仰け反った。
ゆっくり下ろす右手と共に、全身の力が抜けていく。




