杯ノ九百五十五
そう言うと、やおら左手をシャツの脇腹へ。静馬が、ゴソゴソッと血塗れの掌を拭い始めた。
月紫はそんな気配に耳をそばだてながら…チラリッ、自分のシャツのお腹に目線を落とす。
「それで…本当に良いと思う、静馬は…。」
少し甘ったれた口振りで、だが、紫色の瞳は抜かりなく注意を払う。確かに、彼女のシャツの腹回りは、然程汚れていない。間抜けな顔を拭くのには…いいや、失礼。艶やかな紅を拭い去るには、格好のポイントだ。
しかし、素顔に戻るにも、化粧直しにも段取りはある。如何に『幼稚園児が口紅を玩具にした』かの如き顔をしていても、彼女はそこまで抜けていない。何より、彼に、『化粧をしているところを眺める』などと言う、マナー違反をさせる訳にもいかないからな。
頷く静馬の首根っこから、そっと右手を離して…。
「あぁっ、言いたい事があるなら、言いたい様に言ってくれ。その方が俺も…まっ、楽しいからさ。親父には悪いが。」
と、笑って答える声を聞きつつ、そろそろ…両手をシャツの裾に結集させる、月紫。
どことなく、彼の言い草が…『屋台の売り物が食べたいなら、遠慮するな』…くらいの意味に聞こえてしまう。若干安上がりな感じを受けないでもない。
まぁ、しかし、こうした…縁日を歩く様な…片やポケットの財布を気にして、片や浴衣の帯の締まり具合を気にする…飾り気のなさも悪くない。多分、月紫も、そんな風に思っているはずだ。…あっ、いや、『月紫の浴衣姿』を指して、『飾り気がない』としている訳ではない。断じてないので、どちら様も勘違いのないよう、お願いする。
さて、月紫がシャツの裾を抓んで、もじもじとやり始めた。




