杯ノ九百四十
犬歯を突き立てた鋭い痛みを紛らわす様に、痺れを絞り出す様に、ギュッと奥歯で舌を噛み締める。そうしている内、少しずつ、自分の血の味が染み込んできて…。
「んっ、あれっ…。」
何かに感付いた事を示す明確で、かつ不得要領な静馬の呟き。
意識を味覚へ落とし込むかの如く、項垂れ、肩を落とす。頻りに表情筋を動かし、あらゆる面相を浮かべながらも、目付きは真剣そのもの。そんな彼の異変を、月紫は…睨めっこに付き合おうとするはしたない頬っぺを押し止め…あどけない顔で見上げた。
「どうかしたの。」
「いや、血がな…口の中に…。」
そう答えながらも、熱心に顎を動かしている、静馬。何の気なしにその様子を見つめながら、月紫が眉を曇らせ、
「あら…。私が驚かせてしまったからよね…ごめんなさい。」
大して感情の籠らない謝罪。彼も同じで、大して気にした風もなく、
「うん…。」
と、口を閉じたまま、ごくごく簡単に答える。
まるで空中に広がった見えない血管を、生暖かく、透明な血液が流れる様な気怠さ。二人を包む馬鹿に中弛みした時間。
だがもしも、この見えない血管のどこかが詰まっていたとしたら…ぬるま湯みたいな虚脱感に浸るあまり、注意すべき事柄を忘れていたとしたら…。そう特に、『吸血鬼を食べる生き物』としての勝手を知らない、静馬。そんな彼の軽はずみな行動を諌める立場にある…月紫さん、貴女のことだよ。
ようやく、血の巡りの悪い状態だと自覚し始めたか。静馬の肩の方に小首を傾げて、頭の片隅へと思考の血流を行き渡らせる、月紫。それから、十数秒後…。とろんっと落ち掛けた瞼を…パッと見開いて、勢いよく頭を右へ振り向けた。




