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杯ノ九百三十二

 眼差しを血塗れの脚の上で滑らせ、(けが)れなき爪先のその先を見つめる。そうして岩壁に刻まれた陰影を眺めながら…静馬は視野の外の感触を確かめる様に、サッと月紫の前髪を掻き上げた。

 唇から鼻、鼻から額へ。大きな(てのひら)の体温が、空気を伝わり、静電気の如く彼女の顔を撫でる。まるで磁石に引かれた鉄みたいに、瞼で温もり追いかけ、紫色の瞳が静馬の手の影で浮かぶ。

 「『気持ち』か…そいつは、大変、失礼したな。」

「ううん、良いのよ。それで…勇雄(いさお)が私に何と言ったか、静馬、聞きたい。」

 これはつまり、月紫の方にこそ聞きたい台詞がある。満足していない事の裏返しだろうか。見つめ上げれば、ギョロリッと魚眼レンズの様に大きな瞳。その存在感を十分に彼の横顔へ押しやり、覗き込む。

 掌の温もりより、余程、ジリジリくるものを頬で感じつつ…。静馬は冷え固まっていた表情を、焦がさぬよう上手に膨らませて、笑った。

 「いや、止しておこう。それこそ、あんただけに見せた表情。あんただけの為の台詞だろうからな。…ついでに言えば、まっ…親父の吐き出した惚気(のろけ)なんて、聞きたかない。」

と、口を閉じた彼の顎のラインを…気の所為だろうか…弱弱しく熱視線が滑り落ちていく様な…。

 静馬は肩を揺すってこの、ちょっと後を引く、どろりっとした視線を振り落す。それからまた、彼女の前髪を掻き上げ、今度は更に押さえ付け…(あら)わになった額へ、目を向ける。

 「第一、親父の意見なんて参考にしなくても、あんたが可愛い顔をしているのは知っているからな。」

 そうそう、これこれ。こういう気の利かない台詞が、月紫さんは聞きたかったのだ。しかしながら…。

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