杯ノ九百二十三
性懲りもなくまた彼を誘っているのだろう。魚の尾ひれの如く半透明な爪の先。指の付け根からそこへ向かい流れ落ちる血の雫に、人差し指が小さく跳ねる。
静馬は目の前の生々しい感触に、鮮やかな赤に、生唾を飲み込む。実際、彼女の右手には、これまでにない緊張感があった。
例えるなら、さっきまでの状態は、形ばかりの威嚇。飛びかかろうという気はない。猫が尻尾をピンッと立てて、身体を大きく見せていた様なもの。
それに比べ、身を低くした今の状態は…。いつでも飛びかかれるだけの勢いを秘めた…まさしく、臨戦態勢。迂闊に手を出すのは危険そうだ。
不意打ちの水気に、思わぬフライングがあった。…が、月紫の人差し指は冷静に身を屈め、仕切り直し。恰も名画の中に溶け込むかの様に、細い肩に寄り添い勢いを隠す。
この手に…趣ある手招きに出会った場合…男としては、騙されてやる方が粋かも知れないな。
胸を躍らせながら、あるいは、怯えながらでも構わない。どちらにしても、ただただ、見つめ合った眼差しは外さないで欲しいのだ。
そういう意味で彼の反応は、まっ、及第点と言える。紫色の瞳を見返して…しかし…気を回しているのは、彼女の表情でも、肩に乗せた手でもない。ここは減点対象。
微かに、そして確かな不機嫌さで、鼻を鳴らした、月紫。尖がった目付きの中に自分を見つめ、静馬が笑い声を零す。
「俺と、親父、顔の作りが似ているのは知っているよ。けど、そんな、青筋を立てられても困る。親父は俺に、酔っ払っていても、こう…。」
ニッと、もう一度、やんちゃな笑顔を作り、
「こんな笑い顔、見せなかったからさ。」




