杯ノ九百十九
見つめているだけで涙腺が蕩け、涙が溢れ出しそうになる笑顔。静馬もなお一層、瞼を落とし、目を細め…おっと、危ない、危ない。彼女を覗き込むあまり、額と額がぶつかる寸でのところだった。
厳めしい顔付きのまま、再び、距離を取る二人の視線。張り詰めても、弛んでもいないそれを十分にしならせ…。月紫がさも残念そうに鼻を鳴らす。
「不謹慎とは言わない。けれど、少なからず、無粋だわ。なぜって、『夢物語』の中の私は人魚だったのよ。それなのに、吸血鬼の…血生臭い現実を思い出させたりして…酷いと思わない。」
彼の心臓の鼓動を確かめる様に、小首を傾げる。それから、ツンツンッと腹を探るのは、右肘の先。役目の回って来なかった右手は、相変わらず掌を上向かせて…まだ何やら『使い道』があるのだろうか。
静馬は、いつ突き刺さるか解らない、気紛れな肘に備える。新月の晩の引き潮の如く、深く息を吸い込み、そして、
「半分は魚なんだ、生臭いのはしょうがないだろ。」
音のない潮流に腕を取られたか、ピタリッ、背後を小突いていた肘が止まった。
これは潮目の読み違いようもなく、嵐の前の静けさであろう。心中で大きな泡を食いながら静馬も、息を止めて身構える。
一連の水位を…もとい、推移を見守っていた月紫は、ゆらりっ、揺られて小首を反対へ。
「ふーんっ。」
船縁から夜空を臨む様に、紫色の瞳が斜めから静馬を見上げる。その死角を突いて…ツンッ、ツンッ…意外なほど優しく、彼の腹を肘の先がノック。
「『吸血鬼と人魚にはそう言う共通点もある』…と、私に言ってくれようって…企んでいたわけね。なるほど、なるほど…。」




