杯ノ九百十八
愛嬌たっぷりに牙を見せて、笑って、月紫は彼の方へ顔を寄せた。
「ほら、ねっ。見れば見るほど可愛いでしょう、私。まったく、自分でも感心するわ。その分、顔を並べた静馬が気の毒になっちゃって…ごめんなさい。」
顎の骨を撫で上げる様に、大仰な口調で…それより何より、剥き出しの牙越しに頬へ当たる吐息。
身震いする事は我慢したものの、やや身を固くする、静馬。大きく目を開け、見つめ返し、それ以上の彼女の進行を押し留めつつ、
「あんたの器量に太刀打ちできないのは、重々、承知しているよ。だから、こっちこそ、勘弁してくれ。」
情けない台詞と、彼の眼力に押された…訳もなかろうが…。一転して無表情に成る、月紫。頭の位置だって、体裁を整えるかの如く、後ろへ。
二人の顔の間にこれだけのスペースがあれば、気兼ねなく溜息を零せるだろう。しかし…。
この厳粛さは愛らしい容貌を飾るものでしかない。静馬はそれをよく知っていた様だ。…つくづく、『甘えられる側』の人間…もとい、『吸血鬼を食べる生き物』である。
そして、そんな彼と相対した吸血鬼で、根っからの『甘える側』の、彼女。
短い鼻息を漏らし、不愉快そうに眉をひそめた静馬へ…また、愛嬌たっぷりの笑顔で応えた。
「いやよ、勘弁できません。」
何と、まぁ、意地悪なご挨拶。ニコニコしている癖をして、『勘弁できません』と来たもんだ。ひそめた静馬の眉だって、弱り切って、弱り切って…。瞼の隙間から、物問いたげな眼差しを送っただけ。
これを受けて、胸の深くで受け取って…ようやく、満足したらしい。月紫は鋭鋒を、ご自慢の牙を仕舞うと、しっとりと含み笑いを漏らす。
「不謹慎とは言いません。」




