杯ノ九百八
やや胡散臭そうな顔付で目を凝らし、何十分振りにか、あるいは、何時間振りにかで、湧き水の方を見つめる。
顎の下辺りから響く重苦しい呻き声。その断続的なリズムに調子を取られつつ、吸い込まれるかの如く、水堀へ沈む水音に聞き入る。そうして覗き込んだ先には、見えていたはずの光の粒が見当たらない。
(あーっ…。うかうかしている内、丸一日近く経っちまったのかも知れないなぁ。俺が洋館に入り込んだのって、何時頃だったか…。)
ここを訪れて彼が最初に為した仕事…それは、正面入り口の鉄柵に取り付けられた南京錠を、ハンマーで叩き壊すこと。
肩を叩く雨の中、ぬかるむ地面を何度も踏みしめ、振り下ろす。カーンッ、カーンッと、鐘を打つ様な残響が今も耳にこびり付く。…まったく、あれから、どれくらいの時間が流れたのだろうか。
「うーんっ、うーんっ…。」
湧き水の奥の暗闇から彼を引き戻したのは、勿論、辛気臭い月紫の呻き声だった。
見下ろすしかめっ面はまだ、瞼を開ける気配を見せない。静馬は鼻息を一つ、
(思えば、遠くに来たもんだ…。それでいて懐かしい場所に帰ってきた様な気もする。眠くもないし…あぁ、そっちは、『繕い』とか言う奴をやった所為かもな。しかし…『懐かしい』…か。)
苦笑を漏らし、『雨』に打たれ丸めた背中をまた、少しだけ反らす。そんな彼の動きに揺すられ、頭の落ち着け所を失った月紫が、
「ちょっと、人の頭をそうぞんざいに…。て、人の気も知らないで、暢気に欠伸なんか…少し、淡泊すぎるんじゃないかしら。今更だけど、貴方が本当に勇雄の息子なのかって、疑わしく思えてきたわ。」




