杯ノ八百九十二
「あっ、何も、今の静馬が可愛くないとは…言っていないのよ。」
若干、低く、擦れて聞こえる声。そこに、ところどころ、苦しげな呻きを混ぜた棒読みで…続けて、
「今の静馬だって、私には…勿体ない…。『食べてしまいたいくらい』可愛い…大切な…二人の忘れ形見で…。」
息を吸うのも忘れ、言葉を探す内に横隔膜が、上がって、上がって…釣られて背中の筋も、突っ張ったらしい。月紫はその瞬間に、
「ひぐっ。」
しゃっくりの様な短い悲鳴を漏らし、硬直した。
正直、ここまでの動作を見て、人間業とは思えない。ちょろい男の代表たる著者、そして、静馬から見てもだ。…もしも態とやっているのであれば、『あざとい』を通り越して、『下手すぎる』。
完全に毒気を抜かれた顔の、静馬。痛ましいものを見る様なその目の前で…彼女の、握った左手が…カクンッ。手首を折り曲げ、お辞儀する。
「けれど…やっぱり…今の静馬には悪い…でも…。幼い頃の静馬の方を…私は…私の瞳に映して…あげたかったわね。」
ニッと、決め台詞には付き物の笑顔。どうやらここまで…。ここまでを…あんな苦しんで、悶絶しながらも…言ってやりたかったのか。
お前の女粋はしかと受け取ったぞ。胸元を離れ、猫の手招きの如く空を掻く左手は…何としようもないが…。静馬も、伸ばした右腕に寄り掛かる月紫の身体を支えつつ、大きく頷く。
「解った。あんたの言いたい事は、ちゃんと解ったからな。だから話はこっちに預けて、あんたは、『繕い』でも何でもして、少し落ち着け。…いや、冷静に俺を、可愛く思ってくれている。それは解っているから。」




