杯ノ八百八十
彼女の細い腕はまだ、静馬の手と繋がっているのに…二人の距離は変わっていないと言うのに…。足元の血溜まりが、少しずつ広がっていく様な感覚。そして、目眩を起こしそうになる程、鮮やかな紅。鮮血の色。
自分の身体から流れ出したもののはずが、抑えきれぬ違和感に瞬きを繰り返す、月紫。遠のいて行く『気持ち』の寒々しさが、抱き寄せた左腕に吹き付け、気付かせる。
震える掌から跳ねた血が、点々と、左腕に残した痕。指先の方から、その真っ赤な点に沿って、彼女の首筋へ這い上がってくる視線。
「あんたの目が魅力的で良かった…。見つめられるだけで、意識が溺れそうになるほど綺麗だから…お陰でまだ、人として最低限の品行方正な振る舞いが出来ている。けど、いつまでも…と言うのは、難しそうなんだよな。」
のったりと呟く彼の声に引かれ、月紫の左手が肩口に近づいて行く。何かを手繰るかの如く微かに戦慄いた指先は、シャツの首回りを探しているのだろう。
…そう初めての感覚に、戸惑っているのだ。誰しもが…。
月紫の細い指が、やっとシャツの縁に触れる。それを見計らったかの様に…。いいや、彼女の白い首筋を凝視していたのだ…当然、それと知った上で、静馬がニヤリッと口元を歪めた。
「『甘く味付け』…ねぇ。」
その一言が彼女の背中を撫で上げる。
「ちょっ、ちょっと、嫌らしい目を向けないでちょうだい。」
背骨が折れそうな勢いで肩を突き上げ、慌てて左手で首筋を隠す。そして益々、甘い、甘い血が、べったりと塗り付けられていくのだ。
静馬はさも愉快そうに笑いつつ、瞼を落とした。




