杯ノ八百五十三
大概、顎が疲れ始めたのだろう。歯を彼女の爪の上に置いて一息。調子を取り戻してきた笑顔へ一瞥くれると、静馬は先程までより流暢に続ける。
「今、あんたが飲ませたの…さっきまで足元に溜まっていた血だよな。」
何度か、カチッ、カチッと爪を噛む。その感触に区切られながら、順を追って思考をまとめながら…月紫はようやく、彼の言わんとする事に気付いた。
『しまった』と、薄く唇を開け、息を飲む。そんな彼女へ、静馬はなおも続けて、
「本当、大した事じゃないんだが…。俺の履いている靴、ジーンズも…ここの水堀を潜っているとは言え…多分、砂塗れ、埃塗れなんだよな。まぁ、だからって…指に付いた血を舐めた程度で、腹を壊すとは思わないけどさ。…おっ。」
彼が話し終わる前に、月紫は黙って指を引っこ抜いた。
それを態と噛み止める。…などと言う真似は、流石に、静馬もやらかさなかった様だが…しかし…。
「やっぱり、俺に人間止めさせた事…後悔しているんじゃないか。」
と、皮肉な言葉と、曖昧な笑みを浮かべる口元。
月紫は引っ込めた左手を、軽く…叩きつけるかの如く…血溜まりの中へ。そして、紫色の瞳を逸らす。
「他に取るべき手段がなかったのだもの、後悔なんてしないわ。言っているでしょう、私だって…。」
のったりと重苦しげな語調。だがしかし、はっきりとした意思を感じさせもする。
『気持ち』の重みで吐き出し切れなかったものを、溜息に変え…。月紫は少しだけ煩わしげに、
「それより、蚊の話…聞いて上げるから、そっちを進めなさい。」
「あぁ、そうだった。…じゃあ、お言葉に従いまして…満更、俺にも、関係ない話じゃないしな。」




