杯ノ八百三十四
優しく…腫れ物に触るかの如く…尋ねる声の摩擦熱が、洞窟の冷気を濃くしていく。
どうにも『きな臭い』雰囲気の中、鼻の利く月紫が勘付く前にと、焦る気持ちを拭う。そんな静馬とは対照的に…ポタポタッ…月紫は思いを頬から滴らせ、うっとりと微笑む。
「大丈夫…大丈夫よ。けれど…。」
俯き、ニッと白い歯を零す。嬉しそうに、はにかんで…無理もない。『親父が羨ましい』と言った彼の声が、彼女には、『貴女に恋をした』と聞こえたのだろうから…それの意味する本当のところに、まだ、考えが及んでいないのだから…無理もないのだ。
緩んでいく口元、こそばゆい『気持ち』を抑えきれず、血塗れの左手が頬を撫で続けた。…言葉に出来ない『気持ち』が伝わってしまったかと、心配しながら…期待しながら…穏やかな愛情で胸を温める。
きっと、幼い息子に愛を打ち明けられたなら、舌足らずな言葉で恋心を語られたなら、母親はこうした『気持ち』になるのだろう。少し困った様な、それでいて懐かしい…遠い日の初恋の思い出に浸って…。
(…だとしたら、惚けた様になっているのも仕方がない。何せ、こいつには、うん百年物の熟成された人生経験がある。『初恋の思い出』まで記憶を遡るにも、人間の母親たちの十数倍は手間がかかるだろうからな。けど、その手間も、俺には好都合だ。)
火照った『気持ち』に持ち上げられ、糸の切れた凧よろしく、彼女が飛んで行ってしまわないよう…。静馬は握る力を緩めながらも、しっかりと、指の一本一本を細い手首に括りつける。
そんな風に、恥じらう彼女へ…風にそよぐ木の葉の如く、揺れるまつ毛へ…笑顔を返すその腹の底では…。




