杯ノ八百二十三
二人で、汗水どころか鮮血たらして、張り詰めた『気持ち』を解したのに…。これでは、その苦労が水の泡。結ばれた彼女の唇ともども、また、思い詰めた空気が広がってしまう。
大方、『牙が見えている。それじゃあ、可愛い顔が台無し』とか、口を滑らせそうになったのだろう。だが…さて、静馬よ。お前も男なら、この窮地を脱する方法は解っているはず…そして、いい加減、諦めて言ってしまえ。
「あ、あぁ…。牙がね…。」
と、口の中の生温かく、味気ない唾を飲み込む。それから、成る丈不承不承とは気付かれないよう笑顔で、静馬は続ける。
「その…おっかないばかりかと思っていたんだが、そうして…笑っている口から覗いたのを見ていると、案外…悪くない…。可愛いところもあるもんだなと…牙も…。」
「本当っ。本当に、静馬はそう思ってくれているの。」
「ん、うんっ…。勿論、嘘じゃないよ。」
若干ぎこちない笑顔で答えた事は、確かに、嘘ではない。少し前にも月紫の、今の様な『魅力的な微笑み』を見つけて、牙を美点の一つとして勘定していた。…だから、嘘などと言う事は断じてない。
しかしながら、何となく煮え切らないもの…彼の中の蟠りも嘘ではないか…。
飲み下したはずの生唾が、胸の辺りで行き場を失っている。そんな違和感を吐きだすかの如く、短い苦笑を零し…静馬が彼女へ尋ねる。
「やっぱり、親父も…こんな風に、あんたの笑い顔を褒めたんだろ。」
何気ない問い掛け。訊かれた月紫の方でさえ、無造作に、かつ嬉しさを瞳の中で弾けさせながら、
「そうね。今の静馬の様に、褒めてくれた事もあったわ。だけど勇雄には、甘い言葉を幾つも…。」




