杯ノ七百九十六
『気持ち良く洞窟を後に出来るよう、手助けする。口出しもする』。確か、そんな約束を、静馬は彼女と交わしていた。
…ならば、それならば…無理に、彼女の夢想を壊す必要はなかろう。瞬したって消える事のない幸せを…曇り切った眼差しを涙で濡らす、どんな意味があると言うのか。
いいや、理に適った意味などありはしない。だいたい、『夢の話』を静馬と共有するのは、月紫の希望だった。…だから、これで良いはずなのだ。
例え、勘違いしたままであっても…いつか、勘違いだと気付く日が来るとしても…それは、今日じゃなくても良い。今じゃなくても良い。朝日と共に醒める夢ならば、せめて、この暗闇の中だけでも…。
そう思う『気持ち』は静馬だって同じ。のみならず、要領の良いこいつの事、『夢を見させておけば、何かと都合が良い』…くらいは頭を過ったはず…過ったに決まっている。
心底から血溜まりの奥に沈み込んでいたなら、未だしも…。欠片ほどにしろ、浮ついた浅知恵を働かせて置いて…。静馬よ、お前は本当に、彼女の瞳を拭うのか。本当に、そうする事が彼女の為となるのか。何度となく『静馬の為』と呟いた彼女を…お前は…。
血溜まりへ零れ落ちるハミングが、止んだ。手首を締め上げる静馬の止血が聞いたから、あるいは、吸血鬼の治癒力がまた傷を塞いだのかも知れない。
どちらにしても、月紫の右手には今、ごくわずかな量の血液だけ。彼の指先を浸して置く為の、最低限の思いだけが残っている。
洞窟の空気に冷やされ、たちまち、かじかんでいく二人の指先。…いや、少なくとも、静馬の指の数本は、寒い思いをせずに済んでいるのだ。




