杯ノ七百九十四
まるで、張り付く感傷を払い除けるかの様に…。少し乱暴な言葉を選び、そして、細い手首を力強く握り締めた、静馬。
痛いはずなのだ。幾ら馬鹿力の吸血鬼だって、身体は繊細な少女のそれ。締め付けられた骨は容易に軋みを上げる。圧迫された筋肉は、微かに指先を痙攣させ、抉り、掌の傷を広げて行く。…痛くないはずないのだ。
実際、月紫だって、沈痛な面持ちで眉根を曇らせ…だが、何故だろうか。紫色の瞳は悲しそうに彼を見つめたまま、静かに揺蕩うている。
「ねぇ、静馬…。どれだけ痛め付けられたとして、どれだけ傷を負ったとして、私は構わない。それが私の身体なら、もう一度杭を打ち込まれ、胸に穴を穿たれる事も厭いはしないわ。むしろ、私にしてみれば…『何を血迷った事ぬかしているんだ』って、貴方は思うのでしょうけど…痛いと、傷口から血の流れるのを見ると、安心するの。」
月紫は視線を、のったりと右手へ。溢れ返り、掌から零れ出す鮮血に移した。
その大きな瞳の行方を、石舞台を覆う赤い水鏡に見つけて…。静馬はまた、怖々と肩を揺らし、そこはかとない吐き気を堪える。
「それはつまり、『止血の必要はないから、右手を放せ』と仰っているのか。」
「いいえ、右腕が腐り落ちてしまうのも怖くないから…だから、私の手を放さないで。…と、貴女の『お姫様』は仰ったのよ。」
肌理の細かい粉砂糖でも振り掛けた様に、白く、より一層白く、色を失っていく血濡れた右手。そんな様を陶然と見つめながら、血の色の蜂蜜酒に酔った月紫が…とろりっ、とろりっ…呟きを垂らす。




