杯ノ七百二十九
静馬の大きな掌を見つめる月紫の瞳が、熱く、熱く…目玉も一緒に成って転げ落ちそうな、温かい涙に包まれる。
(本当を言うと、静馬のその手だけで私は満足。何にでも成れるし、何にでも成って上げたかった。…けれど、静馬が…静馬自身が、貴方の望むものになれるまで、我慢するわ。私も、貴方と二人で…。だから…。)
柔らかく目を閉じ、瞼で涙の温かさを味わう。そうして、月紫が笑い声に喉を鳴らした。
(私は、静馬を傷つけた…傷つける事を選んだ聖子とは違う。静馬に『気持ち』をかわされる事だって、もう恐れはしない。恐れなくても良いと、貴方が教えてくれたから…。それを今、見せてあげるわ。)
下がり掛けた右手を再び掲げ、ニッコリッと笑顔を浮かべる、月紫。
彼女の仕草で肩透かしを食らった風の静馬は…。ややバツの悪そうに呻いて、ポツリッ、
「その顔、その様子からすると、自分の左手でも、牙でも使って、右の指を引き抜く積りって事だな。」
ちょっと非難めいた口調に成ったが、すぐ茶化す様な言い回しへと修正。だがもうしばし、静馬の眉間の辺りで、バツの悪さは留まりそうだ。
月紫はそっと、彼の膨れっ面の方へ左手を伸ばして、
「それじゃあ、静馬は退屈でしょう。心配しないで、私、静馬の楽しみを取ったりしないわ。」
と、そんな彼女の左手を、邪険に払い除け、
「いやいや、こうして、鬱陶しいのを追い払うので忙しいからさ。退屈している暇はないな。むしろ、この…しつこい奴の相手は、あんたの右手に任せて…。独り言に専念したいくらいだ。」
更に、彼と、彼女の左手の奮闘は続く。楽しげなお喋りを交えて…。




