杯ノ七百二十三
「いつから…。」
くらりっ、眼差しのピントが遠退き、問いかけるかの如く顔を上げる。二言目は必要でない。静馬の笑顔を直視するまでもない。
『いつから』か…。そんなものは決まっている。彼が月紫の左手を指さす前から、中指は引き抜かれていたし、掌の傷だって塞がっていた。…それも、月紫が彼の手を強く引くあまりに…。
(そう言う事…今の人差し指の動きも…してやられた…。)
口惜しそうに唇を結び、紫色の瞳を静馬の指先へ戻す。その視線を更に惑わす様に…チッ、チッ、チッ…天井を差した人差し指を左右に振って、
「確かに、自分でも解らない、気付かないものってのは、あるもんだよな。…それで、『注射針』って言葉を誤魔化したのは、どうしてなんだ。」
と、畳みかける静馬の声。
罠に引っ掛かった事で、完璧、気抜けしてしまった月紫は…。彼の手を引いていた中指を、力なく伸ばして、ポツリッと一言。
「どうしてだったかしら…。」
しばしぼんやりした末、指を離れる彼の手の感触で…指輪が外ずれていく様な肌合いで、ようやく、思い出したらしい。小さく笑気を漏らしてから、呟き返す。
「あぁ、そうそう、思い出したわ。静馬、あの時、私に『棘のある言い方をしている』って言ったでしょう。だから、その前の私の『注射針』にかけた言葉だと思った。…という風に、静馬の揚げ足を取ろうとしたのよ。」
「『棘のある』…言ったかな、そんなこと…。」
「まっ、覚えてないだろうとは、私も思ったのだけれどね。あーあっ、頃合いさえ間違えなかったら、『普段は洒落っ気ある様な顔をして、随分、抜けているのね』って、『気を回し過ぎて、私の方こそ良い面の皮だ』って、恥かかせてやれたのに…。」




