杯ノ七百十一
自分の手を引っ張る真っ赤な手。ニヤニヤッとその様子を見守りながら、静馬がそう呟いた。…いや、本当に、幸運だった。
彼の目線から愛らしいお顔が外れていたお陰で、月紫は硬直した表情を発見されずに済んだ。延いては…情趣ある会話の後だけに、言葉の端々まで月紫の工夫が凝らされている。そう思い込んでいる静馬に…『注射針』という単語が、まさか、子供染みた理由から飛び出したとは気付かれないで済んだのだ。
月紫は、小首を傾げたい衝動を堪え、瞬きも一先ず置いて、頭を働かせる。とにかく何か、もっともらしい事を言わなくては…。
(それから、手を引くのも止めちゃいけない。静馬の事だもの、すぐ異変に気付いて…そうしたら、他に見るものがないのだし…静馬が目を向けるのは、私の顔しかないじゃないの。)
若干、自意識過剰な部分が覗いた訳だが…。読者諸賢におかれては、どうか、大目に見てやって欲しい。それだけ彼女が、体裁を繕おうと真剣なのだ。
そうそう、『繕う』と言えば、また、無意識に治癒させようとした両手から鮮血が溢れ出す。しかし、食い込んでいる指の数が違ってきた分、左手からの出血は目に見えて少ない。中指の周りを囲む赤いリングが、濃く、くっきりとした程度。だから…。
(あらまぁ、私の指には少し派手かしら。けれど、何の飾り気もなく、数十年も箱詰めだったのだし…この洞窟を出たら指輪の一つでも、記念に…って、ぼんやりしている場合じゃないでしょう、私は…。早く、それに、なるべく気の利いた台詞で返事をしなくちゃ…。えぇっと、うーんっと。)
頬っぺたが微笑みでふやける…その寸でのところ。月紫は我に返った。




