杯ノ百七十一
青年の右耳が使い物に成らないのは相変わらず。しかし、左耳にはわずかに聴力が残っていたらしいのだ。
…とは言え、それが幸運だったのかと問われれば…少々、答えに窮する事になる…。
まずもって、中途半端に聴力が残っていた為に青年は、今の様なちっぽけな音でさえ、急激に気圧が変化したかの様な頭痛を覚える羽目に成っている。
更には…この水音をキャッチした事が、どうやら…知らず知らずの間に、彼に左耳をそばだてさせる結果に繋がっていた様なのだ。
そうして…敏感に成った青年の聴覚は、痛みと言うあまりにも明確な刺激とともに気付く。
何に…そう聞くまでも無く、音に…。それでは、それは一体、何の音か…。
それは、池の中の鯉が水面の上に跳ねあがる様な音。いや、それだけでは無い。その後に続くのは、水中に潜っていた者が…その背中が、水の重みも押し退けて起き上がる…あの、耳慣れた音。
青年の防衛本能は反射的に…水堀の上を漂う白木の杭が、石舞台の側面にぶつかり音を立てた…と、その様なイメージを彼の頭に見せたのだが…やはり、死に瀕してなお行動し続ける彼に見せるシナリオとしては、随分とか弱すぎた様だな。
ブリキの人形が震えながらも定められた動きを完遂する様に、青年は四つん這いの格好から身を起すと、ゴロンッと、仰向けに寝っ転がる要領で身体の向きを反転させた。
背後では、自分の肩と打つかり元に戻る棺桶の、石舞台を叩く音。
その真打ちの登場を合図する、拍子木の様な澄んだ音色に…青年は左手を尻の下に敷いているのも気付かず、見栄張る。
「どっからでも…来い。」
その声に引かれる様に、紅い水の暗幕を越えて…ぬっと、白い手が舞台に上った。
杯ノ百七十一を読んでやって下さり、ありがとうございました(^v^)
…手が…手が出ましたよ…。
それでは、また、次回の梟小路の綴る文章でお会いいたしましょう。