杯ノ千三十四
目の前の細腕に力こぶは見えないものの、その怪力はお墨付き。静馬は苦笑を溜息に変えて、もう一つ。
「怒っているのか。」
「怒ってなんかいないわ。ただちょっと、不愉快なだけよ。」
「『不愉快』…。後に尾を引かないだけ、怒ってもらった方がマシだな。」
と、小さく呟いてから、改めて、怪訝そうな月紫へと続ける。
「『情けない』と…自分が言った事を後悔しいているからって、不愉快さを人様に擦り付けるのは、どうかと思うぞ。まぁ、そうまで親身に成ってもらっているのは、ありがたいが…。」
きっちり、元担任と、彼女を差別化。まだ傾いだ頭へ血を上らせるのには、抵抗があるらしい。穏便に済むのであれば、確かに、それが一番。
月紫も、彼のそうした配慮を汲み取るかの如く、首を起こし、頭を冷やして、
「そうね…。赤の他人と、私とでは…静馬への『気持ち』の距離が違うのも、仕方のないこと。聖子が身篭ったと聞かされてから、寝ても、覚めても、一日として貴方を思わない日はなかったわ。例え、勇雄を思う『気持ち』がお留守になったとしても…。」
何か言葉を続けようとして、しかし、口籠ってしまう、月紫。指先から剥がれ落ちる様に、シャツの胸元を握った左手がずり落ちる。
意図しない方へ感情は流れて行く。…とは言え、一番ややこしい展開は避けられたのだ。静馬としては言う事なしであろう。
短い安堵の吐息を漏らす。その俯いた目線越し、細い二の腕越しに、月紫が問いかける。
「そう言えば、まだ、聞いていなかった。静馬はどうして、一生懸命、鉄棒に取り組まなかったの。」
「えっ…いや、それは…。」
戸惑った訳ではない。




