杯ノ千二十六
これは聞き捨てならない。これではまるで、吸血鬼が…取りも直さず、月紫が『不健全な生活』を送ってきたと言わんばかりだ。
確かに、彼女の思い出は皆、夜の帳で覆い尽くせてしまう。『人生』と言うには、厚みのないものかも知れない。だが…。
彼女だって、伊達に人間の社会と寄り添っていた訳じゃない。もしも人間を、単なる獲物としか見ていないのであれば、
(こんなにも…静馬の事で必死に成ったりするもんか。)
…である。
指の隙間から零れ落ちそうな『気持ち』を手繰り、掻き集める様に、月紫が右手を握り直す。ミシリッ、ミシリッ…砂を噛むのに似た音を立て、細腕の中で軋む筋肉。決意の固さの表れだろうか。
「まぁ、日差しの下に出られない吸血鬼が、興味を持たないのは当然だよな。鉄棒なんかに…。」
と、胸倉を締め上げるかの如き不協和音で、言い草の『食い違い』に気付いた、静馬。…『ようやく』…と、言ってやりたいところではある。しかしながら、渋い顔をしてみせるのが、遅かった。
紫色の瞳を尖がらせ月紫が、彼に食って掛かる。
「鉄棒くらい知っています。私、そんなに、世間の狭い方じゃありませんから。」
如何にも心外そうな口振り。碌に寝返りも打てない棺桶で、数十年間を堪えた女性だ。形式とか、体裁とか、そうしたものに煩くて不思議じゃない。
仰け反る静馬の胸を撫で下ろす右腕。そのまま、この勢いを軸に、前言から、何から、引っくり返させる手もある。…あるにはあるが…『鉄棒の話』に籠った彼の『気持ち』が引っ掛かり、引っ掛かり…。
「…解っているわよ。遊具でしょう、遊具。」
多分、彼女も逆上がりが苦手だ。




