杯ノ千二十三
彼の膝の上で背中を丸めた『人魚姫』。その口の端から垂れ落ちた血が、石舞台の上に点々と跡を残す。こんな鮮やかな音でさえ、揺れる波間でくぐもって…水底に沈んだ彼女の夢までは届かないのだろう。
「夢で良かった…勇雄さえ生きていてくれたなら…夢だったら良かったのに…。」
水堀の中で、ころころっと渦を巻く月紫の血液。最後の赤色。ころころっと湧き水に弄ばれ、千々(ちぢ)に乱れて、どこかへ消えてしまった。
残ったのは暗い瞼の黒だけ。
「けれど…。」
紫色の瞳で瞼の先を、薄暗い足元を見つめ、月紫が微笑む。
「今となってはもう、静馬を放せないから…だから…。もしもの場合は、私も幽霊に成って、貴方の背中にくっ付いて行くわ。」
そう言うと、幽霊とは思えない程、快活に長い脚を放り出す。
細くとも伸びやかに、数十年寝たきりだったと思えないくらい健康的に、しなる『人魚姫』の尾ひれ。夢の大海を泳ぐ上では無力だった様だが…。筋繊維が絞り出す生きた音色は、現実に、静馬の首筋を熱くした。
彼女の気分を良くするのが癪だった訳じゃないはず。しかしながら、ちょっと慌てた様子で、静馬は熱っぽい吐息を吐き出した。
「『俺はここに来なかった方が良かったみたいだ』…と、言う暇もくれないんだな。」
「それは貴方が、もたもたと感慨にふけっているからでしょう。」
「『甘ったれるじゃない』と…そうおっしゃる…。」
「いいえ、『甘ったれ方が足りない』のっ。取りも直さず、言いたい事をぶつけてくれば良かったのに…私に気を使っていないで…。そうしたら、感慨の一つや、二つ、一緒になって思いふけってあげるわよ。」




