杯ノ千十
項垂れた背に血の気を送ろうとするかの如く、月紫の左手の中で…冷え切った彼の手首で、ざわざわと脈動が勢いを増す。そういう事が彼女には、本能的に解ってしまうのだ。
まるで、醸造の進み具合を計る様なもの。無意識に親指で静馬の脈拍を計りながら、鼻で息を吸い込みながら…。それでも、素知らぬ振りを決め込んで、彼女が呟く。
「『根拠がない』、そうなの。…へぇっ。」
空々しく感心した様子で声を漏らした。…月紫とのやり取りでは何度か、彼も使った手。そう知っているだけに、バツが悪い。
身動ぎもせず、首の付け根を少し痺れさせて、静馬が皮肉っぽく口を開いた。
「あんたはむくれると思っていたんだがな…。」
「少しは我慢しないと、静馬を煙に巻く機会なんてこれが、最後かも知れないもの。それに…。『猫はないかな』って思ったのよ、私も。静馬だったら、そうね…。猫と言うより、『狼男』があっているんじゃないかしら。精悍で、毛皮は着ていないけれど、とても温かいから…。」
すんなりと彼の胸懐に身を寄せる、月紫。口実の見つけ方一つ取っても、堂に入っている。
これに比べたら静馬などは、まだまだ、お子さまだな。まず『ほくそ笑み』が顔に出ている時点で素人。そして、
「奇遇だな。俺もさっき、あんたの事を『狼男』…じゃなく、『狼女』みたいだって思っていたところなんだ。」
と、言うだけ言って、月紫の細い体をきつく抱き締めてやらないなど…いや、そう思うのは、著者が彼女の術中にはまっているだけか。…二人の手練手管に、心より敬意を表するとしよう。
月紫は、彼の胸に頬を擦り付け頷くと、毛むくじゃらでも解る様な満面の笑みを浮かべる。




