8.白雪姫
こちらは三流ライターで、相手は二流ホテルの宣伝広報部長。同じように見えるのは恐らく一流の名を持つものだけで、実際にその場を這い回っている人間からすれば、絶望的な違いを持つものなのである。開いた格差を知る男は、声をかけたRにわざとらしく眼を細め呟いた。
「しつこいな、君。また来てるのか」
なかなか酷い言い草だったが、Rは慣れた風で肩を竦めて見せた。
「表現の自由って言葉、知ってるか?」
「大概にしないと」
むしろ、眉を顰める表情に皮肉な笑みを対峙させぬよう注意しなければならないほどだった。妹を使って自らの出世を手繰り寄せた男。現代のポローニアスと言ったところ。
「何も二度と近付くなって言ってるわけじゃないんだ。時期が来たらこちらから招待させてもらうよ」
うんざりと首を振る。
「だから、あの女への取材はもう少し待ってくれないか」
「熱いものは熱いうちに、がモットーなんでね」
レコーダーを鼻先に突きつけることで、Rは少し態度を強めた。
「不思議な女らしいじゃないか。心身に傷を負った患者を手懐けて、女王様みたいに振舞ってる」
「あんまりしつこいと、警備員につまみ出させるぞ。あそこにいる奴みたいに」
顎でしゃくった先を通りかかったのは、屈強な警備員に挟まれた男。ブルーカラーのくたびれた男達の半分もウエイトがなさそうな青年は、ぴったりと襟を立てた時代遅れのチンピラの呈で喚き声を上げていた。「お前ら、後で驚くなよ」。ちらちらと注目する医師や患者に向けられる高慢な目つきは、分厚い筋肉と贅肉が入り混じった背中に押しやられ、少しずつ遠くなっていく。流石に気分は悪くなったが、闘争心は膨らんだ。
「以前うちのカジノで散々だったのを逆恨みしてるらしくてな。ホテルをたたき出した途端今度はこっちに来てる」
「やれるもんならやってみな」
言い訳がましい言葉を遮るよう顎を持ち上げ、Rは自分より背の高い男を見下ろした。
「見舞いに行っちゃいけないってどういう了見だ?」
「まだ予後の見通しが立ってなくて、面会謝絶なんだよ」
「あんたは会ってるじゃないか」
「見舞いを渡しに行くだけ」
泳いだ眼の先にある大きな果物かごを掲げる。宣伝だ広報だとの肩書きをつけるくせに、この男は恐ろしく嘘が下手だった。
「顔すら見ていない」
「どうだか」
鼻を鳴らし、電源をつけたままのレコーダーをポケットに落とす。
「あんたらの宣伝活動に加担する気は更々ないんでね。『ボードウォークの天使』、いいタイトルだろ」
「くだらない」
Gは不機嫌に顔を背けた。
「いかにもイエローペーパーらしい見出しだな」
「そのイエローペーパーは、面白い情報も持ってるんだ。あんたらに直接関係する話で」
すっと細めることで誤魔化した瞳の揺れを覗きこむ。
「この病院で聞いた話。キングダム・カジノの雇用形態に抜け穴があるみたいだってな」
「抜け穴?」
「つまり、被雇用者に対して著しく不利になるような契約内容があるってことだよ」
「馬鹿らしい」
くるりと踵を返し、Gは受付に向かった。
「私もその被雇用者の一員として言うが、ここは他のホテルに比べても格段に働きやすい職場だよ。強制される残業はないし、給料だって悪くない」
「才能あるカジノディーラーが車に撥ねられて、休みが欲しいのに休めないそうだ」
首を捻っただけの姿勢では鼻から上しか見えないが、確かにGの目尻は神経質に引き攣っていた。傷だらけの受付の台に出腹を押し付け、Rは男の横顔に詰めの笑みを浮かべた。
「あんまり長期休暇をとると解雇されるから、怖くて休みを取れないらしい」
「名前は」
心得顔で籠を受け取った受付嬢は、Rの顔を確認した途端、縮れた黒髪の向こうにある無感情を不機嫌に変える。三日前、手懐けようとして失敗したことを思い出し、苦笑いを返しておく。
「ディーラーの。今すぐ休暇をとらせる」
「見舞金も出ないとかで」
「心当たりのある奴が一人いるが」
台帳に引っかかったペン先に舌打ちしながら、Gは呟いた。
「そいつは無断欠勤を繰り返した挙句、勤務時間外に車に撥ね飛ばされた。しかも軽症で、医者から完治のお墨付きを貰ってる。大体見舞金は渡してあるぞ」
「へえ、俺が聞いた話とは違うな」
少しだけ、と指で示してみせる。
「あれは見舞金じゃない、口止め料だってな」
余りの圧力に、細かく連なった文字の上へダークブルーのインクが滴り落ちる。縁だけが青さを見せる染みをじっと見つめたまま、Gはしばらく口を開かなかった。
「そもそも、そんなろくでもない奴を雇っておくなんて、ご立派なホテルらしくないな。どういう風の吹き回しだ」
「カジノのことは部署違いだ。フロア・マネージャーに聞いてくれ」
きっぱりとした口調で告げようとした積もりだろうが、薄い唇は震え、深い声はいつもより上擦っている。
「くだらない中傷だ」
きゅっと引き締められた唇の色が酷く悪いことに、確信する。したので、これ以上突かないことにしておいた。今のところは。
「誰が告げ口したかは知らないが」
情報提供者が解雇されようとも、Rの責任ではない。それに彼のことだから、有り合わせの情報を使って上手くやるだろう。雇用主に撥ねられたという事実は大きい。安っぽい格好をしたクラップス・ディーラーの顔を思い返し、納得する。
「とにかく、余計なことはしないでくれ」
自然と早まる足並みを見送った後、そっぽを向いたままの中年女が抱える籠から、真っ赤なりんごを一つ差し出す。
「少しくらいなら、いいだろ?」
ひったくって元の場所に押し込む手つきの荒っぽさを見せ付けられては、退散するしかなかった。
「見たかったな、その顔」
電話口から聞こえるDの声は、愉悦で少し震えていた。効果として被せられる電波の揺れが、甲高い口調から更に人間味を奪う。
「ああいう金持ちに限って、ちょっと揺さぶってやるだけで怯えるだ。」
「本人に言ってやったらどうだ」
麦芽パンにポテトチップを挟んだだけの侘しい昼食を齧りながら、Rはモニターに表示されたメールの内容を眼で追っていた。入ったファミレスの中で一番安いメニュー、サンドイッチもどきとコーラだけで、あと二時間は粘るつもりだった。まだ溶け始めては困るとかき混ぜたストローに押され、四角い氷は頼りがいのある音を立ててくれる。
「とにかく、役には立ったよ」
「そりゃ良かった。うるさいな。救急箱、そこにあるだろう」
「何だって」
「こっちの話。それで、実は今、本当にヤバくてさ」
「明日にでも払うよ」
適当に返せば、受話口から漏れる不信感を露にした鼻息が鼓膜を引っ掻く。
「明日か」
ボニーとクライドじゃあるまいし、心配しなくても明日はやってくる。軽口でも返そうとする前に、電話は切られた。
ここまでの流れを小説にするのは簡単だが、記事となると材料は無に等しい。すっかり友人となった八方塞は、噴き出す覇気を心の奥底に押し込めて粘度を高める。皿に残ったポテトチップを口の中に放り込むと、鬱屈は咥内まで上がってきていたのか、小さな欠片は粘ついた唾液に捉えられ上顎に張り付いた。
企画を聞いた編集者の顰め面は確かに正鵠を得ていた。『コネもないのに?』けれど、メンフィスのブルース音楽よりは、アトランティック・シティの安ぴかネオンのほうが格段に楽しそうだったし、何よりも目に見えるものは、耳で聞くよりも生き生きとして見える。その内側が、実際は朽ち果てた洞でしかないとしても。
「ボードウォークの天使」、なかなかいい文句だと、Rは久しぶりに自らを賞賛する気になった。実際に、その女は天使になりかねない。ここ数年、気に入った記事ほど簡単に没にされる。『今更マケインの記事なんてね』代替わりした編集者は彼と一回り近く年が違うにも関わらず、居丈高さだけは嫌になるほど持ち合わせていた。『オバマがノーベル賞を貰ったのに?』同じだけ持ち合わせた自尊心と癇癪で席を蹴飛ばしかけたせいもあり、とてつもない安価で原稿は奪い取られた。今度こそ。いつも通り蠢く第六感が、左胸の奥で小さく疼き、活力を漲らせる。漲るだけ漲って、どこにも発散させる場所がない。代用品の大仰なため息とげっぷを吐き出し、玉の浮き出したグラスを手に取った。
「あんたが新聞記者さん?」
頭上から落ちてきた声に顔を上げる。喉の奥で膨らんだ炭酸ガスの放出に一瞬顔を顰めたものの、どんぐり眼をぱちぱちと瞬かせるRの顔を覗き込む青年は、ウェイファーラーのサングラス越しに張り詰めた笑みを浮かべた。
「さっき、病院のロビーにいた人だろ」
「どこかで会ったかな」
断りもなく正面に座りコーヒーを頼む青年の顔から視線を外すこともできず、Rは当惑の声を上げた。
「ホテル関係者?」
「そうなるかもしれないね」
鼻に貼り付けられた大きな絆創膏と幼い風貌に加え、口ぶりまでもがどこか間延びしているものだから、一瞬年端も行かない子供かと勘違いしてしまった。
「頭を殴られて記憶喪失になってる女についてなら、間違ってない、院長の神父さんに聞いてみたらいい」
しかし彼の口から飛び出した言葉は、あくまでも大人らしい、作為に満ちたものだった。
「犯人は弟のFだからな」
傷だらけのリノリウムを引きずられていたチンピラは、ニヒルさを装おうとして大失敗した笑みを、誇らしげに浮かべていた。
「とんでもない話だな」
スクリーンセイバーすらも消えてしまったモニターなどすっかり忘れ去り、Rは身を乗り出した。据え付けのテーブルが揺れ、すっかり薄まったコーラを波立たせる。
「ネタ元は?」
「いかがわしい連中の間ではもっぱら噂になってるよ。それに、Fは暴行の前科がある。親父がもみ消して示談にしたけど」
「家族ぐるみの隠蔽工作ってことか」
「多分ね」
水溜りを作るグラス傍を滑ってきたレコーダーに、Oと名乗る青年は軽く身を傾けた。
「余計なことを話されたくないから、あんたのインタビューを拒んでるんだ。事件を目立たせるような真似をして、目撃者でも出てきたら大変だから」
「詳しいな」
腕を組み、RはまっすぐOを見据えた。
「で、何で俺に情報を流す?」
頬にまで伸びるサージカル・テープを引っ掻いていた指先が止まり、吊り上げていた口角をまっすぐに伸ばす。
「俺の方にも色々事情があるってこと」
投げ出していた足が安っぽいタイルを擦りながら、身体の方にひきつけられた。
「あの一族が嫌いなんだ」
緊張のせいだけではない。固く強張った顔の造作は、一つ一つが別物のように動く。整形手術を受けているのかもしれないと、Rは隠されたレンズの内側に思いを馳せた。
暫しさ迷っていた瞳が、一度だけぴたりと動きを止める。
「聞きたい?」
泣きだす寸前の子供のように固く閉じられた唇が動く瞬間を、Rは肘の内側に触れた指先にまで神経を張り巡らせて待ち構えた。
「ああ」
ぶつかり合った期待に身を任せ、Rはわざとゆっくり頷いた。
もうしばらく、Oはカップの渦を見つめたままだった。意図的な焦らしではない。感情が、むずむずと口辺を這っている様が、ありありと感じられた。
「俺、本当はあの“王国”のプリンスになるはずだったんだ」
寂れたレストランの調度品と化した客たちは、誰も振り向くことなく料理を口に詰め込んでいる。何一つ変わることない沈黙にとうとう緊張を瓦解させ、Oは諦観交じりの声を淀んだ空気に放った。
「信用してなさそうだね。けど、証拠だってある」
Rが曖昧な笑みを浮かべる前に、醒めたコーヒーに手を触れる。
「俺は、あんたを信頼して話してる」
伏せた睫でレンズを擦るようにしながら、Oは言った。
「生かすも殺すもあんたしだいってこと。女だけじゃない。関わってる全員の人生が左右される」
言葉が身体にしみこんで行くにつれ、Rは全身が熱を持つ様を確かに感じていた。開いた口から、余裕のない言葉と行き場を失い濁っていたエネルギーが飛び出す。
「今から病院に戻ってみる。それで、今の話を整理するために、近々もう一度会いたいんだが」
「いいよ、いつでも」
長い息と共にOは吐き出した。
「Dのところに連絡くれたら伝わる」
「知り合いか?」
「昔の相棒」
苛立たしげにそう告げた後、焦れた顔の中で唇がへの字に曲がる。
「さっさと行かないと、手が回る」
伝票と共に掌へ押し込まれた最後の言葉はしっかりと受け取ったが、頭には入ってこなかった。
「多分、邪魔する奴はうようよいるからね」