7.美女と野獣
「経過は良好ですよ」
Wの溌剌とした笑顔に、Vは温厚な笑みを向けた。どうしてこの医者は、こんなにも眩しく笑うことが出来るのだろう。
「傷口はしっかり塞がっています。どうです、痛みは」
「おかげさまで」
いつものように持ち上げ顔の前で振ろうとした左腕は、虚しく宙を切る。肘関節のところで盛り上がった脂肪と筋肉が、引き攣るような痛みを与えて思わず顔を顰める。ボールペンを指先で回しながら、Wは苦笑を漏らした。
「とは言っても、まだ乱暴に扱っちゃいけませんよ」
「つい、いつもの癖で」
「分かります」
言葉の軽さを口ぶりの深みで補い、頷いてみせる。
「先日カウンセラーからカルテが届いたんですが、BIID、つまり身体完全同一性障害の疑いはないと」
「何です、それ」
「まあ、つまりは特殊な好みの一つですね」
カルテに視線を落としながら、Wは一瞬、こってりとした東部訛りの混じる口調を滞らせた。分厚い資料でも隠せない、微笑を浮かべた唇を眼にした途端、気持ちには暗澹が流れ込んできたが、Vはあえて無視した。
「自らの身体に手足が二本ずつ付いていることが許せず、取り除きたいと思うことです」
「まさか」
今度は憤慨を素直に表現し、Vは首をふった。Wは取り繕うようにまた顔をくしゃくしゃにして、医者らしく長い指先で厚紙を叩いた。
「あなたは違った、という結果が出たんですよ。薬物による酩酊の結果、魔が差したというだけの話です」
「凄い匂いがしたことだけは覚えてるんですけどね」
半分の長さになってしまった腕を摩り、Vは鋭敏な笑い声をあげた。
「なにせ自分の腕が、ポテトと一緒にカリカリに揚がってたんですから。痛くはなかったんですが」
「でしょうな。血液中のモルヒネ含有量は尋常じゃなかった。あれじゃあ痛みなんか感じてる余裕もない」
心地よい浮遊感。じりじり焼け焦げる裸電球の音が妙に大きく聞こえ、最初耳元で飛び交う蛾の羽音だと勘違いしたほどだった。不快感に手で振り払う――あのときはまだ、しっかりと左手は生えていた――半ば眼を瞑っていたのは、光が眩しすぎたせいだ。夜中の三時、4年前までは妻が綺麗に整頓していた居間を通り抜け、アブラムシの這う台所へ。彼女はどこへ行ったのだろう。車の訪問販売員と共に消えた妻は。石油の代わりにもっとしつこい、胸を圧迫するような油の匂いが、そこにある。先ほどから眼の前を舞い落ちる黄色い花びらが、沈んでは小さい泡となり鼻腔を刺激するもやとなる。香ばしい色の中に腕を突っ込んだ時、その白煙は、更に勢いを増して、それで。
「カウンセリングは」
「明日です」
「こちらも結果は素晴らしい。仕事のほうは見通しが?」
「しばらく妹の家にいるつもりです」
「社会復帰はなるたけ早いほうが良いんだがなあ」
模範生の返答にも、思ったとおり医者は処方レンズの奥で眼を細めただけだった。言いたいことは良く分かっている。せめて今年のうちはもったらいいんだが。ボールペンが紙の上を滑る固い音が、怖気を連れて襟足から背筋をまっすぐ這う。Vは今回、本心から更正を願っていた。たとえ眼の前の男の言葉がいかに軽蔑的であろうとも。生まれて初めてのオーバードーズで、いきなり取り返しの付かない事態になるなんて、運が悪すぎるにもほどがある。そういって笑ってやったとき、パジャマの代えを持ってきた妹は目に涙を浮かべてしまい、部屋を出るまで一言も口を聞いてはくれなかった。
「義手も型は取れてるし、リハビリをしないとね」
「でも、先生」
Vは表情に卑屈さを混ぜ、俯いた。唇の端が、勝手に捲れ上がってしまう。
「そこまでの金が」
「何も一括で払えって言ってるわけじゃないさ。それに、見たところ幸い保険にも加入してるみたいだしね。貴方は幸運だ」
「そうでしょうかねえ」
「もちろん」
余裕たっぷりの苦笑が作る頬の皺は深く、この表情が彼にとってありふれたものである事は容易に察することが出来た。
「ここに担ぎ込まれてくる人のうちの68パーセントは未加入患者なんですよ。まあ、神に感謝しろとまでは言いませんがね」
教会病院の医師にあるまじき言葉は、むっとする体臭が漂う病室の空気を爽やかに切り裂く。すなわち、Vの悩み如きは、眼の前の男が持ちあわせる尊大さの前では数秒の太刀打ちすら出来ないということだった。
Wの足音が消えるのすら待たずベッドから降り、穴の開いたスニーカーに足を突っ込む。隣で横たわったままの男に挨拶を返したが、メタドンが効いているのだろう。昨晩のように壁を叩いて暴れることもなく、ぐっすりと眠りこけていた。
6人部屋に移動してもうすぐ3週間だが、ルームメイトたちとまともな会話を交わしたことは皆無と言ってよかった。最初は個室か二人部屋。峠を越えてきたならば大部屋に。そして、夜中に叫んだり失禁したりの失態を犯さなくなれば、すぐ荷物をまとめさせられる。慈善病院にそれほどまでの温かさを求めるのは無理だと分かっていたが、仲間になれなかった男達の井出たちがパジャマからネルシャツに変化するのを見るたび、淋しくなる。鞄に詰め込まれたままだったその服から、外の匂いが弾き出たとなればなおさらだ。それは埃と煙が混ざった、鼻の粘膜を引っ掻くような匂いだった。縫合が完全に定着するまで、Vには手の届かない匂いだった。したところで、果たして片手だけで掴めるのかは分からなかったが。
そろそろリハビリと職業訓練にいそしまなければならないのに、この一ヶ月でVが学んだことと言えば、看護師の乾いた視線を受け止める方法ただ一つだった。それですら、今までの生活の応用でしかない。こちらからは愛想よくしておけ。そうすれば、何かがあったとき言い訳できる。分かりきってはいることだが努力は報われることもなく、やあ、などと殊更陽気で間抜けな声を出し、劣化した靴底のゴムをリノリウムに擦り付けても、薄暗い電灯の下で幾分灰色に見える制服は、動きを留めようともしなかった。犯人であるVの方が、耳障りな音へ顔を顰めるはめになる。
昼食と巡回診察も半数ほどは終わり、ちょうど午睡の時間にあたる3時過ぎ。車椅子がすれ違えるかどうかというような狭い廊下の両端からは、珍しく呻き声一つ聞こえてこない。麻薬患者と外科的処置を施された病人をまとめて押し込んである三階は、細々とした悲嘆の声が途切れることはなかった。右と左、前と後ろ、どのような理由によるものかは分からない。好奇心は疼いたが、覗き込むような真似はしなかった。見えないからこそ、楽しむことが出来るのだ。
時間のせいか、西棟の突き当たり、一番日当たりの良い場所にある面会室はがらんとして、きつい日差しが中庭に面した窓から差し込んでいるにも関わらず、寒々しく感じるほどだった。ど真ん中のテーブルを囲み、暗い顔で話しこんでいる家族連れと、窓際の汚いソファに埋もれ、蜜柑色の光を浴び続けている女が先客だった。癇に障るゴムの音に、父親の腕から伸びる点滴をじっと見つめていた少年が、一瞬こちらを振り向く。笑ってやれば、すぐさま卑屈な顔で針の刺さった父親の腕に眼を戻してしまったが。
少年の反応などまだ自然なほうで、Vが正面に座っても、女は目玉さえ動かさなかった。包帯で固定した頭を心持傾け、窓の外へ綺麗な青灰色の瞳を向けている。右目は薄紫色に腫れていたが、これでも大分マシになったのだ。組んだ脚だけはすべっこくて美しかったが、ずり落ちた入院着から覗く肩先や首筋は未だ黄色と黒が残っていたし、頭の包帯は何度見ても軽くなる気配がない。それでもその女が美しいと分かるのは、プラスチックのような固さを持つ瞳と、恐らく治療の際切られたダーク・ブロンドが蜜柑色を浴びてきらきらと輝いているからだった。スリッパを突っかけた足の甲は白く、しかも固まったまま動かない。部屋の装飾品の一つにさえ思える今の無機質さだけでも、これほど綺麗なのだ。元はさぞかし素晴らしい女性だったに違いないと、Vは確信していた。だからこそ、こうやって時間を見計らっては汚い部屋に通う。処理できない下心に痛々しい包帯を見せ付けることで、気持ちを萎ませる。
「今日はいい天気だな」
右手で肘掛を掴みながら、Vはわざと大儀そうな声を出してソファに腰を下ろした。脳に直接響くような眩しさに自然と瞼が落ちる。女は先ほどからずっと、ぱっちりした眼を開いたままだった。
「これだけそんな格好でも寒くないだろ」
「あなた、おかしな歩き方するのね」
そっぽを向いたまま、女は言った。
「身体を左右に揺らして、まるでペンギンか、映画の怪物みたい」
「そうかな。でも、仕方ないじゃないか。意外とバランスがとりづらいんだ」
ジャージの袖口は折りたたみピンで留めてある。肘から下とは、思ったよりも重かったらしい。歩くたびに揺れる袖口が視界に入るたび、Vは腕があったころには考えもしなかった寂寥感を味合わされていた。
「もう片方の腕も切り落としたらよかったのに」
Vの笑いにかぶさった起伏のない声は、煙草のヤニで染まった天井と平行に部屋を付きぬける。
「それでバランスが取れるわ」
「飯が食えないじゃないか」
「這い蹲って食べたら」
ようやく顔を正しい位置に戻した女は、真顔で言った。
「似合ってるわよ」
温かさの欠片すらもみえない言葉は、光の中で確かに形を持っている。けれどそれは、氷の塊ではない。元の形は知らないが、口から出た後は歯がゆささえ感じる愉悦となり、軽快にVの身体へぶつかって消える。
「酷いな」
Vが面白がって返せば、子供のように目だけで天井を仰いでみせ、唇を尖らせる。素朴な表情に、Vは笑いをかみ殺した。あんただって結構酷い格好してるぜ。ヤラれたのか? 誘いに乗ったのか? どうせ行きずりの男だろう? 愉快さの余り飛び出しそうな言葉は、腹筋を揺する事で体の奥底に落とす。
「調子はどうだい」
「今日右目の包帯が取れたの。明日は頭の包帯を取るわ。でもそれがどうしたっていうの? あなたには関係ない」
Vが出会ったとき、既に丸い青灰色は布で隠されてなどいなかった。すっかりお決まりになったやり取りがいつか本当になることを、Vは願ってやっていた。
「明日は家に帰るのよ。もうお別れ」
「そりゃあ淋しいな」
「感傷的ね。奥さんいるんでしょう?」
「4年前に出て行った」
「そんなことだろうと思った」
鼻を動かし、笑う。間違いなく捩れているものの、見えている以上の悪意は含まない、薄っぺらい笑みだった。
「見たらわかるもの」
「そうかな」
「貧乏臭いしね。最近女日照りでしょう。だから私に声をかけてきたのね」
Vの口の端に薄笑いが浮かんでいると知ったとき、女の眼が初めて光をともす。入れ込まれた力が余りにも強いので、露出過剰な写真のように白けている全身の中に輝きが混じってしまうこともない。女は重たそうに頭を前へ揺らしながら、身を乗り出した。僅かに捲れあがった服から、しっかりした骨組みの膝が覗く。
「あなた、頭大丈夫?」
耐え切れず噴出し、Vは顎を反らした。身を寄せ合うようにしていた3人家族が、怪訝な顔で振り返る。綺麗に化粧を施した母親は息子の身体を引き寄せ、自らの肉付きのよい背中で視界を覆う。彼らの眼差しと、眼の前の女の感情を浴びれば浴びるほど、笑いは止まらなくなった。震える喉が発する忍び笑いは鳥の断末魔の鳴き声のようにか細いながらも長く続いて、背後の棚に並べられたミステリー小説と、花瓶に刺された薔薇の造花の隙間を駆け巡る。そのことを頬と耳の付け根で感じながら、Vは女が興味を失って再びそっぽを向くまで、ずっとにやけ続けていた。
「あんたに言われたくないよ」
掠れた声がとうとう飛び出し後悔したが、女は何も言わず、Vもすぐ、薄く開いた唇から覗く前歯の小ささに興味を逸らしてしまった。
「いい女だよ、まったく」
しみじみ呟けば、女は顎に当てていた指を動かし、平然と言い放った。
「当たり前よ。あなたと比べたらね」
言葉の奥にあるのが空白だけだということを知り尽くしているVは、また笑った。
「ところで、名前は?」
女は答えなかった。
「どこに住んでる?」
聞こえてくるのは、隣の家族が愛情を確認しあう湿っぽい声だけだった。
「俺の名前は」
「もう聞いた」
女は水気のない眼を瞬かせ言葉を遮った。
「そんなのどうでもいいわ」
劣等感と空虚さにまみれた全ての言葉を、Vはとてつもなく愛しいと思った。肉体的な魅力は何も感じなかった。女は頭がいかれていた。それだけで十分だった。
そう言えば、どんな反応を返すだろうか。楽しみだったが、Vは最後まで言わないでおこうと心に誓った。直視するのにはこの面会室は余りにも眩しすぎたし、何よりも、呪文のようなその台詞を吐いた途端、自らが女と結婚するという妄想に拍車が掛かることを、Vは熟知していたのである。