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6.豆の上に寝たお姫さま

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 ごめんなさいと呟き見上げてくる彼女の表情を打ち消すために、Nは固い微笑みを口元に貼り付けた。

「水臭いな。それよりも、痛いところはない?」

 顔を背けたり、首を振る代わりに、彼女は目を閉じた。首に巻いたギプスは、弊害が多すぎる。暑苦しいし、美しい栗色の毛はばっさりと切られてしまうし。あれほどくるくると表情を変え、眩しいほどだった小麦色の顔から感情を奪い、人形のような無機質さで覆ってしまう。



 顔だけではない。麻酔から醒めて以来、彼女の身体は少しずつ、だが確実に人間的特徴を失いつつあった。満ちていた生気は、点滴のチューブが流し込む生理食塩水に薄められ、日に日に曖昧さを増している。




 傾向が一番顕著なのは脚だった。棒のように細く、発育が止まってしまった肉体特有の不気味な皇かさを持っていた。このまま放っておけば、シーツと同化してしまうかもしれない。色は既に、少し黄ばんだ木綿の色へ近付きつつあった。そんな妄想が恐ろしく、Nは毎日懸命に彼女の脹脛をマッサージしていた。ひんやりと冷たい感触は、本当に同じ人間なのかと恐ろしくなるほどで、幾ら彼が汗ばむ手の熱を移してやりたいと願っても、一向に応えてはくれなかった。

「もういいの」

 彼女はNの額に滲む汗を、氷のような指先でそっと拭ってくれる。

「もういいの、ありがとう」

触れた場所から凍結する感覚が心臓を侵してから、ようやくNは贅肉に変化しつつある脚から手を離す。最後に剥げかけたオレンジのペディキュアに視線を落としてから、Nはまたもや無理して笑わなくてはならない。これがまだ綺麗に塗られ、精一杯爪先立ちして地面を踏みしめていた光景を振り払うために。

『私、飛込みが上手なのよ』

 綺麗の揃った脚の指を見ながら、Nはわざとらしく肩をすくめてみせた。

『カナヅチじゃなかったっけ』

すっきりと平らな腹に意識を奪われ、あんな煽り文句さえ吐かなければ、今頃彼女は自宅のマンションに据え付けたばかりの、素晴らしく寝心地のいいダブルベッドへ収まっていたに違いない。




「ずっと横になってたら、腰がだるいだろう」

「そうね」

「起こそうか」

「ええ」

Nはリクライニング装置を探そうと、ベッドの足元にしゃがみこんだ。教会病院の安いベッドに、電動式なんて望めない。

「そう言えば、一昨日ホテルで食べたグラタン、海老グラタンってはっきり書いてあったのに、二つしか海老が入っていなかったんだ。しかも、こんな大きさの」

 指を丸め掲げてみせたのに、彼女は何も言わなかった。こんなことが起こる前だったら、腹を捩って笑っていたはずなのに。入院以来、彼女が笑っている姿を眼にした事がない。

「あそこ、駄目だよ。カジノの応対も悪いし。次泊まる時は、クラリッジに行こう」

 やっと見つけたハンドルは異様に重く、しかも錆び付いているのか嫌な音を立てた。腕に力を込めれば、バランスはあっけなく崩れその場に尻餅をつく。起き上がるまでの数秒は、甲高い笑いを期待したものだった。それなのに、彼女は天井を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。

 ハンドルを掴みなおし、首を振る。

「それともラスベガスか……何だかんだ言って、ニュージャージーなんて田舎だから」

「そうね」

 ベッドの上半分が持ち上がったころ、ようやく掠れた声が返ってくる。

「ここは嫌い」

 突き刺さるように感じるのは、彼女の口ぶりが余りにも沈んでいたからと、顔を上げたとき鼻先へぶつかりそうになった尿の入ったビニールのせいだった。

「ああ」

 口に出すことはなかったが、今朝は特に匂いが酷い。カテーテルが外れているのではないかと思い看護婦を呼びつけたが、異常はないと告げる冷たい口調は、Nはもちろん、彼女の心も大きく傷つけた。

「動けるようになったら、地元の病院へ移ろう。もっといいところに」

「早く帰りたい」

 虚ろな声色が、Nの言葉を無視するように被せられる。

「そうすれば、あなたも仕事に戻れるし」

「俺のことなんか気にするなよ。有給だってまだまだ残ってる」

 大嘘をつく。もっとも、上司の同情的な目つきから考えて、幾らでも情状酌量の余地はありそうだったが。

「退院したらゆっくり休んで、ラスベガスに行こうよ。あそこ、凄く立派な式場があるらしいじゃないか」

「式なんて無理よ」

 乾いた口調へ唐突に混じり始めた水気に、真上から顔を覗き込む。彼女は、痛みを堪えるように目尻へ皺を寄せていた。

「だってもう、ヴァージンロード歩けないじゃない」

「車椅子でも行けるさ」

「こんなのをぶら下げて?」

 尿道からまっすぐ伸びた管を睨む。その中を通る液体は黄土色が濃くなりつつあるのに、決壊した瞼から零れ落ちる涙は、胸を高ぶらせるほど透明だった。

「無理よ。結婚なんて出来ない」

「馬鹿なこと言うなよ」

 ぽろぽろと転がる雫がギプスの縁に溜まっていくのが痛々しく、Nは彼女の頬を何度も何度も撫でた。

「身体が不自由でも幸せになってる人は一杯いるだろう」

「なるわけないわ」

「俺が幸せにしてみせるよ」

「だって、ファックしても感じないんだもの」



 悲鳴に近い声に、隣の老婆の鼾が止まる。こけた頬から手を離し、思わずNは口元を覆った。触れた指だけでも、顔が赤らんでいることは分かる。

「そんなの嫌でしょ」

 苦労して向けられた瞳は、涙で潤んでいるものの、ぼけてはいなかった。

「下半身不随なのに、楽しくないわよ」

「いや、でも」

 背後のカーテンへ羞恥を逃がそうと躍起になりながら、Nは言った。

「セックスだけが夫婦ってわけでもないし」

「本当に?」

 しどろもどろで返す言葉へ畳み掛けるよう、彼女は語気を強めた。

「子供は? 子育てなんか出来ないわよ」

「君、子供嫌いじゃないか」

「結婚したら作るつもりだった」

 握り締められた手に、またもや溢れ始めた涙。ささくれた唇を噛み締める真珠のような前歯を見たとき、Nはようやく今の彼女の気持ちを理解した。

「もう嫌。私なんか放っておいて、他の女の人見つけたほうがいい」

 ぎゅっと閉じられた目元に浮かび上がったのは、刷いたような朱色と、かつて彼女が持ち合わせていた子供っぽさだった。釈然とはしない。それでも、今までよりはずっといい。

「それこそ、馬鹿な話だよ」

 熱っぽい頬骨のあたりを指先で辿りながら、Nは精一杯努力し、優しい声を作った。

「もう二度と、一人ぼっちにしない」

 捏ねまわされる駄々に対する答えは、少し大袈裟なくらいがちょうどいい。

「大丈夫。ここにいるから」

 急に粘り気を持ち始めた口ぶりなど全く気付くことなく、彼女の大きな瞳はじっと彼を捉え続けた。今はもう弱々しさを葬り去り、挑むような色さえ浮かべている。いや、最初から試されていたのかもしれない。

 Nはもう一度、自らへ言い聞かせるようにはっきりと告げた。

「愛してる」




 確かに、彼女を愛している。放尿を終えてすっかり萎れた自らのペニスを見下ろしながら、Nは心の中に溜まる滓の苦さにおくびを漏らした。愛しているからこそ、欲求不満にだってなる。



 あまりといえばあまりな彼女の言葉に今更怒りが湧き上がる。幾ら何でも、公衆の面前であんな言葉。隣の交通事故か何かの老婆は、絶対に聞き耳を立てていたに違いない。痛くも痒くもない建前に憤ることで、切実な本音を誤魔化す。


 彼女とは、二度とセックスをすることが出来ない。

 

物理的な問題ではない。先ほど彼女は涙に暮れていたが、生殖機能だって、もしかしたら無事かもしれない。けれど、あのガラス玉のような涙を一度見てしまえば、無理強いは到底不可能だった。白いシーツ、棒きれのような脚。嫌がる彼女の姿を思い浮かべるだけで、吐き気すら催す。

だが、悲鳴のような声で紡がれたあけすけな言葉が、介護疲れのおかげで遥か彼方へ消し飛んでいた性欲を自覚させたことも事実だった。この一ヶ月、マスターベーションすらろくにしていない。異常事態だった。



 彼女とは、身体の相性がとてもよかった。完璧とまでは言わないが、余り多くはない交際遍歴の中でも、群を抜いていると言っても良い。たとえば、髪に触れたとき、身を凭せてくるタイミング。たとえば、頬を寄せ合ったとき、彼女の耳朶がちょうど顎のラインに触れる心地よさ。何よりも、思い出して切なくなるのは、深い寝息につれて上下する、胸のなだらかな丘陵だった。双子の梨を乗せたような形よい乳房が、ハロゲン灯の明かりの下で陰影を作るとき、Nは滾る情欲というよりは、柔らかい求心力を感じていだのだ。まさしくそれは、神々しさの化身と言えた。モナ・リザを思わせる胸の谷間をじっと見つめながら眠気の訪れを待つのは、とても楽しい時間だった。



 美しい思い出も、消化不良の感情では幾分くすんで見える。そう言えば、一度あの胸に何か液体を垂らしてみたかったのだ。シャワーの水でも、ザーメンでもいい。そんな安いアダルトビデオの真似事を提案することは、彼の矜持上不可能だったため、結局やれずじまいに終わったが。そう、機会は永遠に失われてしまったのだ。



 苛立ちすらも勃起へと変わりそうな気配にうんざりして、ペニスをズボンの中にしまいこむ。そう言えば。今まで意識していなかったが、簡易の寝間着は薄く、身体の線を露にする。あのすべすべした脚を見て、欲情する可能性が万に一つもないことはNも理解していたが、意識してしまうことそのものが、嫌悪感を掻きたてる。


「今渡してきました」

 乱暴に開け放たれた扉が、声をかける。横目で窺えば、男が喋りかける相手はもちろんNではなく、病院で使用するのを禁止されているはずの携帯電話だった。

「言われたとおり花を。ええ、二番目に高い奴ですよ。一番は今度、おいでになるときに」

 男はこちらを見ることすらせず、ひびの入った鏡にネクタイを映しこみ、指先で神経質な微調整を続けていた。

「ああ、とんだ女ですよ」

 そう、とんだ女だ。思い浮かんだ言葉を慌てて打ち消すため、Nは男と負けず劣らずの勢いで、扉を押し開けた。




 彼女の病室に戻る前に一服しようとポケットに手を突っ込んだ瞬間、その女と眼があった。あったとは言っても、相手の顔は半分以上が包帯で覆われていたから、完全にとは行かなかったが。それでもその姿態は、Nの手からライターを取りこぼさせるのに十分なインパクトを持っていた。



 ベッドの上で仰向けに寝そべり、立てた膝を大きく割り開いているせいで、寝間着はももの付け根まで捲れあがっている。下着は身につけていなかった。非常に肉付きのいい下半身が、女にしか分からないリズムに乗ってくねるたび、剥き出しのまろみを帯びた尻たぶが潰れて形を変えるということで強調される。はちきれんばかりの太腿が、小刻みに揺れる。こちらからも時々踏ん張る爪先の震えは、明らかに何らかの感情を露骨に表現していた。



 短く刈られた金髪を枕に擦りつけながら善がる女の姿を、Nは霞が掛かったような視界の中で見つめていた。がっしりとした骨をもつ膝がもどかしげに擦りあわされ、その間へ差し込まれた指がどこへ潜んでいるかは口にするまでもない。気がつけば、女のベッドの柵を握り締めることが出来る位置まで近付いていた。



 女はNが鼻からの呼吸をやめたことに気付くと、今まで押し付けていた内股を惜しげもなく開いてみせた。彼は食い入るように覗き込んだ。その瞬間、彼は理解した。青灰色の潤んだ瞳は、Nにもその行為を手伝うようにと促し続けている。



 未来の妻の顔は、今でもしっかりと脳の奥底に根を張っていた。震える手が、理性を押さえつけようと持ち上がる。これは彼女のせいではない。彼女は何も悪くない。無茶な飛込みをして海中の岩に頭をぶつけることだって、動かなくなった脚に愚痴を漏らすことだって、悪いのは、全て自分なのだ。だから、何も泣く必要なんかない。

 幾分黒ずんだ性器にひたすら謝罪を続けながら、Nは慄く指を夢遊病者のように両脚の間へ差し入れた。



「何やってんだ」

 指先が熱を感じた瞬間を見計らっていたかのように開かれたドア。全てがその場で凍りつき、反射的に強く奥歯を噛み締めていた。

 聞き覚えのある声の持ち主はすぐさま近寄り、声のトーンを更に一つあげる。

「あんた、ホテルに泊まってる」

 先ほどトイレでマナー違反を犯していた男が、呆気に取られた顔でNの顔をみつめていた。

 完全に停止した思考の中で、女の歎息するような声だけが鼓膜を震わせる。頭の中でしつこく反響する絶頂の吐息は、つかの間だが、待ち構えている重苦しい彼女の面影を消してくれた。

 今にも崩れそうな笑みを浮かべるNの顔を、男は理解する気はないようだった。なぜならハンカチを握る手は、何の容赦も見せずナースコールへ伸ばされたのだから。


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