5.眠りの森の美女
搬入されるダンボール箱に横目、受話器に右耳、ファイルを抱えた左腕と反対側の手にはモンブランの万年筆、爪先を動かそうとしないのはア・テストーニの靴を汚したくないからで、それを除けばCの格好など、どちらかと言えば地味な、二流カジノのフロア・マネージャーでしかない。にも関わらず彼がオーナーであるLから大きな信頼を寄せられ、時にはカジノフロア外のことにも首を突っ込むほどの力を有すようになったのは、大人しげな風体からは想像も出来ない意志の強さと、要領のよさを買われてのことだった。彼はいつでも、絡まりあった糸を解きほぐして一本に戻し、巻き取って玉にしてから自らのポケットに入れる。そして色とりどりの毛糸玉を指先で弄びながら、なんともない顔ですぐさま次の糸を辿り始めるのだ。
以前Lのオフィスを惨憺たる有様に変えたものの、あのメーカーで取り扱っている家具は、クオリティだけを考えると、東部でも群を抜いて良質だった。3日後配達される予定だったのはラウンジ用のスツールを12脚と、ついでに無料で押し付けられたオリエンタルな玄関用のマットが一枚。これは既に、古株のウエイトレス長へ与える確約がある。もう後輩をいびらないようにと暗黙の因果を含めて。
「頼むよ。来週まで待ってくれないか」
五枚目の書類に眼を通し終わり、サインをして待ち受けていた業者に渡す。今日だけで16枚の紙に自分の名前を書いていたが、その全てを、Cは完全に把握していた。昼食の時にでも、スケジュール帳につけておかねばならない。
この前ピット・ボスに昇格させたばかりの男が慌てて駆け込んでくるのを手で制す。
「ちょっとLさんが迷ってね。いや、納得するさ。ダークブラウンのままでいい」
コーディネーターと話し合いの結果決めた色は、なかなか洒落ていた。脚の形もいい。予定では、規定に従って書類を提出し、さっさと納品させて、今晩にはむらなく染めた牛革をふんだんに使ったスツールを、第三ラウンジに並べていたはずだった。
なのに、軽いメタノール中毒で一週間の入院の憂き目にあったLは、痛む眼を理由になかなか書類へサインをしようとはしなかった。理由は分かっている。ベッドに横たわり、持て余す暇の中で思い出したのだろう。自らの思考の範疇外で物事が進むということが、どれほど不愉快なことであるかということを。今になって浮かんでくるのはLが大学で建築学を専攻していたという情報で、これをCはリムジンの運転席で本人の口から聞いていた。
「一週間……いや、4日。それだけあれば納得するだろうから」
運転手を卒業して以来、Lと口を聞く回数は大幅に減っていた。今の時期に、顔を思い出して貰うのもいいかもしれない。地道で細やかな気遣いと一定の誠実さが、更なる出世の糸口になる。いい機会だ。眼の前で確固たる承認を得させ、自己満足を与えておきたかった。退院予定日までは二日。時間は十分ある。
「ああ、悪いな。それじゃあ来週」
声だけは笑って見せ、受話器を戻すと同時に、Cは恐縮し続ける青年をにらみつけた。
「例のいかさま師か?」
「いえ、今日は」
袖で汗を拭う動作が気に入らない。さっさと行動しようとしないのも。男が言葉に詰まっている間に、Cはアルミニウムの扉を開き、灰色の細長い廊下を数フィート進むことができた。時間を無駄にするのは、チョコチップが三つしか入っていないマフィンよりも嫌いだった。
「来てないんだな」
「はい」
「気配を察したか」
抱えていたファイルを開き、モンブランでメモの第一項目に斜線を入れる。レストランのディスプレイ搬入、完了。メーカーへの電話、完了。覗き込む視線が文字へ到達する前に閉じてしまい、ペンを内ポケットに突っ込んだ。
「だが今度見つけたら追い出せ。他には?」
「例のお客様が、ホテルにお泊りの」
「ああ」
頷き、天井に眼を走らせる。搬入口からロビーまでの曲がりくねった道のりだけで、蛍光灯が3本も切れているし、少なくとも2本は不愉快な点滅を繰り返している。はじめに光ありきとは上手いことを言ったもので、照明を暗くすると悪いことばかり起こる。気力の下落、いかさま。
「そういえばDから連絡は」
「まだ動けないそうです」
「車に轢かれたって、勤務中じゃないんだろう」
「いえ、仕事帰りに」
「本当に?」
アトランティックシティを安ピカの街と行ったのは誰だったか忘れたが、西海岸の鉄火な空気と、東部貴族の田舎臭さを一身に引き受けたこの街の安っぽさ、両方の悪い部分ばかり取り入れてしまっている男の姿を思い出し、顔を顰める。
「休暇の予定は明後日までだったな。電話して、診断書を持ってくるように伝えろ」
「分かりました」
男はメモすら取らなかった。こいつはここで止まりだな、と頭の中でチェックを入れる。
「クラップのブースに昇格させたばかりだっていうのに、使えない」
「でも、あの腕は」
「リノ仕込み?」
それがどうした、との呟きは仏頂面の向こうに押し込んでおく。リノなんて大した街じゃない。行ったことはなくても、あの男を見ていれば分かる。
「ホテルの男って、海老グラタンに海老が二つしか入ってなかったってクレームをつけてた奴か」
「そうです」
「今度は何だ」
「ブラックジャックのディーラーにケチをつけてます。ホールカードに細工してるんじゃないかって」
「知ったかぶりのド素人め」
受付嬢は俯いたまま。平日で観光シーズンも過ぎ去り、客が大挙しているわけではない。そもそもこのフロアは受け持ちですらなかったが、Cは足を伸ばして胸倉を掴み、化粧の濃い横面を思い切りひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。栗色の髪で人好きのしそうな顔立ちだが、大方モニターでソリティアでもやっているのだろう。幾ら顔がいいからって、あんな役立たず。自分がオーナーなら、Dとセットで今すぐクビにしてやる。
通りがかりのベルボーイが頭を下げる。チップを誤魔化していたのを庇ってやったことをまだ恩に着ているらしいし、またそう思わせるよう、Cはあえて無視した。
「初めての客だったな。他のホテルに照会したか」
「いえ、まだ」
通りすぎるポスト・カリフォルニア料理と銘打ったレストランは、昼近くにも関わらず人の入りが悪い。埃を被ったディスプレイと、この前厨房を覗いた時眼にした温野菜の色身の悪さは、見事に重なって見える。一度L自身に食べさせる必要があるのではと常々思っていたが、今度会う機会に、さりげなく切り出してみるのもいいかもしれない。とにかく自分がオーナーだったら、あんな店さっさと契約を切って、オリエンタル料理の店でも入れさせるに違いない。
「だったら、さっさと連絡を入れろ」
赤い革張りのドアの前で叱責すれば、やっとのことで男はその態度に身体の動きを釣り合わせ、スタッフ・ルームへ駆け込んでいく。どうしてこんなにも。Cは舌打ちを漏らした。ここに居る奴らは、自分で考えて行動するということが出来ないのだろうか。カジノという、一番の縮図を見ているくせに。自分の足で動くことを止めた途端、人生は尻の毛までむしってしまおうと手を伸ばしてくる。
流石に夏真っ盛りの先月よりも人の波は減っていたが、主婦らしき中高年の群れは相変わらず動き回っていたし、本物のハスラー――人生そのものが賭け事だと心得る馬鹿な種族――は大人しくダイスの行方を追っている。
腰で手を組み、もう雑音としてすら感知しなくなった喧騒の小さな渦たちを一つ一つ検分していく。テーブルを指先で叩き、モールス信号を送るような連中はこんな時間には現れない。ド素人、ブラックジャック6番テーブル、高いのか安いのか微妙なスーツの後姿。グラタンでクレームがついたとき、頭に叩き込んでおいた顔を認識したCは、どこで散財するか無駄な思慮を重ねる人ごみの間を、泳ぐようにしてテーブルへ近付いていった。もちろん、誰かの肩にぶつかったりするような無様な真似は一度としてしない。
きつい香水を纏うギャンブラーの肩越しに見た飾りの藤棚の貧相さ、これも近いうちに改装しなくては。あまり趣味が良いとは言えない。自分がオーナーなら、一番に撤去させるのに。背の高い女の後ろに身を紛れ込ませ、更に観察を続ける。
泣き笑いの表情を浮かべる男は、半ば愚痴るようにしてディーラーへ言葉を投げつけていた。テーブルにいるのは彼一人で、オーディエンスすら見えない。その席だけがスポットライトに照らされているように思えるのはC一人だけであることが救いだった。客はまだ、自分の金を増やすのに一生懸命で、眉を顰める暇はないようだ。
新手のイカサマかと念のため眼を凝らしても、やはりその顔に見覚えはない。カジノそのものに慣れていないようにすら思える。きっちり留められたスーツのボタンに納得し、通りがかりのウエイトレスに無言で注意を促した。ブラウスのボタンを閉めなおす時の慌てぶりに満足し、Cは大きな音を鳴らしたスロットに一瞬だけ視線を走らせた。白髪の老婆、問題ない。スロットマシンは細工をされやすいから、もう少し監視員を増やす必要がある。
「だから、俺の女が」
少し薄くなりつつある頭頂部ががくがくと揺れる様を、手にしたスコッチのグラスのせいだと確認してから、今度は大人しくカードを配り続けるディーラーに目を向ける。黙って話を聞いているのは及第点。去年入ったばかりの新米にしては礼儀をわきまえている。好感を持った。もう少し上手く話をかわせるようになれば言うこと無しだが、それはおいおい経験を積ませていくしかない。
早足でバーに向かい、カウンターの中に入る。心得た顔で、バーテンダーは身を脇に避けた。引っ掛けてあるレシーバーを取り上げ、スイッチを入れる前にオーク材の天板を見下ろす。
「グラスは客が帰ったらすぐに引き上げろ。それに少しでも傷がついたら、すぐに交換しろと」
口紅のべっとりついたショットグラスを示せば、バーテンは素直に頷いて新聞紙に包み、ゴミ箱に放り込んだ。
「あと、分別回収も」
場内放送をかけ、いつもの合図を出す。
「BJ6、ソーン氏。今すぐ本部に」
警備員が6番テーブルに集結するまで、Cはカウンターに手をついたまま、顔を動かそうとはしなかった。わざと穏便な警備班を派遣したのは、素人であるが故の慈悲だった。一体何が悲しいのかは分からなかったが、おそらくあの男は宥めすかされ、大人しくホテルの部屋に帰ることだろう。涙の続きはベッドで流すがいい。入り口まで付き添うようにとの指示が、先ほどの言葉にはしっかりと含まれている。
しかし、この程度のことすら自分の裁量で出来ないとは。ピット・ボスの怯えた目を思い出し、Cはため息をついた。降格も考えなければ。昇格時の輝くような表情を知っているだけに、気は重かったが、仕方ない。自分がオーナーになった暁には、大幅な人員削減と増員の必要が。
コンプ扱いの銀行家に笑顔で会釈し、スタッフオンリーと看板の出たドアをくぐる。先ほどから鳴り続けている携帯電話をやっと取り上げることができた。
電話の向こうからは、妹を身売りに出し宣伝広報部の管理職に収まったGの低い声が響いてきた。
「悪いんだが、病院へ行ってくれないか」
まだ動き続ける扉に掌を押し付けながら、Cは一気に高まった鼓動をかろうじて抑えることに成功した。
「見舞いですね」
「ああ」
「いつですか」
「出来るだけ早く」
口ごもるようにしてGは言った。温野菜、スツールのサイン。これは最後に回す。まずは好きな建築と、車の話でも。Lの好みは何だったか。見舞い品はひとまず自腹を切り、カジノ一同と書き記したほうが良いかも知れない。協調性を見せ付ける。
「Lの指示なんだ」
Cは奥まった眼を何度か瞬かせた。じきじきの指定。もしも自分がオーナーになったなら。もしも自分が。
「分かりました。今すぐうかがいますよ」
「頼む」
重いため息の裏を読み、ほくそ笑む。所詮、セックス程度のことじゃあ。最後は才能が。
「相手は聖xxx病院の外科、308号室にいる。花でも持って行ってやれ。Lも退院次第見舞うが」
「L氏のところじゃないんですか」
すとんと落下した喉元の熱さを感じるよりも先に、Cは思わず声を張り上げていた。
「聖xxx病院?」
「ああ、何でも犯罪の被害者で、精神安定剤を打たれて眠ってるらしい」
「でも、その手のPR活動は」
自分でもどうしようもないほどそっけない声で、Cは返した。
「宣伝広報部の仕事でしょう。僕が行くわけには」
「そうなんだが」
「でも、今カジノの方でちょっと」
「トラブルか」
「そこまで大袈裟なことじゃないんですが」
既に電源ボタンへ指を当てながら、首を振る。
「忙しいんです」
「来週までに頼む」
「約束できかねますね」
押し付けられたという事実に、憤りを隠せない。けれど相手は腐ってもオーナーの身内だ。碌な奴がいない。義理の弟はあの通り、息子二人は穀潰し。
あれじゃあ、オーナーが余りにも哀れすぎる。Cは心の底から思った。もし自分が後継者だったら……。
首を振り、電話をポケットに押し込む。
実現可能な未来を考えても仕方がない。今必要なのは、眼の前の実現不可能なように思える仕事への対処法だけだった。なにせCにはこの週末、第三ラウンジの模様替えという大仕事が残っているのだ。