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4.蛙になった王子

 右の尻から腰一面に感じた物凄い衝撃が痛みに変わるまでの時間とは、突き飛ばされ、地面を転がるまでの数秒に等しい。もっともこの衝撃は、劣化してひびわれすら見えるアスファルトに思い切り身体を叩きつけられたことによるものかもしれなかったが。高速で回転する景色を残像としてすら捉えられぬまま、Dは数メートル先の地面へ左の肩と骨盤を使って着地した。



 最初のショックで呼吸と共に身体の機能が止まり、次の瞬間短く息を吸い込めば物凄い激痛に苛まされる。べったりと地面に這い蹲ったまま、指一本動かすことが出来ない。

「密造ウイスキーを飲んだらしい。メチルアルコールの中毒かもしれない」

 頭上から聞こえる声に、何とか憎き相手を確認しようと首を動かす。思ったよりも痛みはなかった。脳天に棒を入れてかき回されているような眩暈ばかり感じる。そろそろと頭を持ち上げれば、なんと、ベントレー。どんな成金だ。ぴかぴかに磨かれたグレーの車体は、鉛色の建物に切り取られた小さな空から注がれる光を律儀に吸収し、跳ね返していた。こんな貧相な教会病院には余りにも相応しくない、上質すぎるエンジンが頭上で息巻くように震えている。



 裏口から飛び出し駆けつけてきた医者達は、Dのことなど見向きもせず、後部座席の人影を引きずり出そうとしていた。制止する苛立ちの篭った声が、擦り傷に響く。

「くそっ、こんな施設の設備じゃ埒があかない。やっぱり私立病院へ回せ」

 バックしてユーターン。そのときようやく、Dの元に助けが駆けつける。

「少し身を掠っただけです、命に別状はありません」

「そんなこと問題じゃない」

 助け起こす医者の腕にしがみつき、Dは喚いた。

「誰だあいつ、訴えてやる」

「この病院の関係者です」

 幾分面倒くさそうな顔で、仁術をモットーにする職業の男は、Dの腕を肩に回した。金持ちのために用意されていた担架に乗せるときですらも、その手つきは明らかに乱雑で、また鋭い衝撃が腰に響いた。ただでも痛めているというのに、この扱いは何だ。金持ちと貧乏人を差別するなんて、教会の風上にもおけない。Dは歯軋りするかわりに、とんでもない悪党、後は喉を痛める排気ガスばかりを残して去っていく羽のエンブレムと、その下にあるナンバープレートを凝視した。



 握り締めていた処方箋を取り上げられる。また痛み止めの処方量が増えた。間髪いれずにはさみで切り開かれたワイシャツの下から現れた肩を、Dは見ることが出来なかった。ただ腕を掴み、無造作に持ち上げられたときには、流石に抗議の意味を込めてわざと大袈裟な悲鳴を上げてみせたが。医者は平然として、骨は折れていませんと言った。

「念のためレントゲンをとりましょう。まあ、そのうち見舞金が出ますよ」

「金の問題じゃない」

 一度医者の顔を睨みつけてから、Dは視線で車のバンパーを示した。

「ああいうのに乗ってる大企業には、一発かまして少しは灸をすえるというか」

 ふと、見覚えのある後姿に眼を瞬かせる。その間に、最速の名に恥じないスピードで、コンチネンタルは元来た裏通りを消えていく。コンチネンタル・フライング・スパー。憧れの車。よく見かけるホテルの駐車場。薄暗く、黄色い明かりの中ではもっと濃く見えたボディは、記憶よりもずっと明るい色をしていた。



 思い至った途端、愕然とする。

「なんてこった」

 エンジンの余韻が消え去るまでの間も与えてくれず、担架は持ち上げられる。急速に失われつつある力を振り絞って無傷の右手を持ち上げ、頬に引っかかる髪をはね退けた。

「あれ、うちの会社のお偉いさんじゃないか」

 痺れも痛みも少しずつ収まり、今は肩と腕と、腰一帯の鈍い疼きしか残っていない。素人判断でも分かる。どうせ、打撲程度だ。頭上で疲れきった表情を露にする医者たちに調べさせたなら、もう少しこねくりまわして複雑な症例を付けてくれるかもしれないが。どっちにしろ、裁判に掛ける費用の方が勿体無いかもしれないし、なにやら相手は物凄く急いでいたようだし、この腰だって、元から少しは痛かった。そう納得させた。

簿記の勉強をしたこともあるDには、正義を振りかざして得る賠償金が、無断欠勤がばれてクビになった場合に失われる、今後の給料に匹敵するとは到底思えなかったのだ。

 痛みと失望を紛らわすために今Dが出来ることと言えば、情けない呻きを愚痴に変換させることだけだった。

「一体、なんでこんなことに」




 先ほど行きつけの理髪師に刈り込ませたばかりの髪に指を通し、足元の洋品店の袋に押し込まれたネクタイを引き寄せながら、Dは整形外科の担当医に笑って見せた。

「8時間ずっと立ちっぱなしですから」

「休職することは出来ませんかね。あるいは、もう少し勤務時間を減らすとか」

 医者はカルテに書き込みを続けている。よくもここまで無愛想になれると呆れるほど抑揚の無い声は、カジノにやってくる日本人観光客の英語の喋り方と酷似していた。

「それはちょっと」

 最近、高給のクラップ・ディーラーに配置換えとなったばかりなのに、ナンセンスとしか言いようがなかったが、いちいち経緯を語っても長くなるだけなので、軽く首を振るだけにとどめた。ハイスクールを卒業してからディーラーの専門学校に通いもう20年。リノのペッパーミル・ホテルで働いていたこともある。あのペッパーミルで。あのころのチップなら。煤けた蛍光灯の下に晒された頭頂部に横目を送る。同じカリビアン・スタッドのスペースにいる仲間と分け合ったにしても、あんたの日給以上は十分稼いでただろうさ。



 そう、あれだけ稼いでいたのだから、慎みをもって、置かれた境遇に感謝しておくべきだったのだ。仕事あけに飲み歩く金くらいは十分あった頃が懐かしい。フロアマネージャーにいかさまの加担がバレそうになり、逃げるようにネバダから離れ、アトランティックシティに流れ込んでまだ2年と少ししか経っていないと言うのに、Dはもう、西海岸風の派手なスーツを、4着ほど質屋へ流していた。



 再び向いてきた運を腰痛で不意にするなど、経済とプライド、どちらの観点から考えても、決して許されるものではない。

「出来たら飲み薬が良いんですけどね。湿布だと、匂うから」

「最近の消炎鎮痛剤は、昔のものに比べて大分ましになりましたよ」

「それでもやっぱり、接客業なんで」

「経口の鎮痛剤は乱用する人が多いので、極力出さないのがモットーなんです」

「まさか、そんな。そこらのジャンキーじゃあるまいし」

 声まで上げて笑ってみせたにも関わらず、広い額の下にあるかなつぼ眼は、相変わらずむっつりと手元ばかりを見ている。

「他に方法、ありませんかね」

 問いかけても、反応は返ってこない。医師が狭いカルテのスペース一杯の細かい書き込みを続ける間、Dは丸い診断用の椅子にまたがり、緩慢な痛みを訴える腰を摩り続けなければならなかった。立って歩いたほうが楽なのはわかっていたが、眼の前の白衣に包まれた痩せぎすの肩は、不思議な威圧感を以って、Dの動きを制し続けていた。



 やがて医師は、無言のまま左手をデスクの引き出しへ伸ばし、取り出した白い帯と共に眼を上げた。

「コルセットは?」

「はあ」

 毛だらけの手からだらしなくぶら下がったものを見つめ、Dは首を傾げた。

「コルセットって、あの時代劇によく出てくる」

 確かに、ウエストを一巡と少しするような長さと、腰の全体を補強する幅を持ち合わせるそれは、社会科の教科書に載っていたマリー・アントワネットの衣装とよく似ていた。

 Dの言葉に、医者は初めて表情を崩した。

「腰と背中の筋肉を補強するものです」

 口元に冷笑を湛え、両端についたマジックテープをくっつけてみせる。更に、輪になった布の中心についた二本のベルトのテープを剥がしてはつけるの動作を繰り返して見せてから、不親切な医者はやっとのことで患者と正面から向き合った。

「同じように、この二つも固定します。医療用なので、三重の圧力で支えるようになっているんです」

「医療用ねえ」

 受け取り、真似をしてマジックテープに触れる。これならシャツの下に巻いても、何とか誤魔化せそうだった。



 医者の態度は気に入らなかったが、我慢すべきことだということもまた同時に分かっているので、大人しく頷く。診療代をケチるために教会病院へ来たのは自分の判断だし、昨日フロアマネージャーに――どこのホテルでも、フロアマネージャーなんてものは不愉快な存在なのだ――擦り寄ったら、すげなく却下されて気分を害しただけの結果に終わっていた。

『腰痛なんかで労災が降りるなら』

 黒い、見掛けだけは誠実そうな瞳を顰め、Cは切り捨てた。

『このホテルはとっくに破産してるさ』

 二流どころのホテルに、よくもまあ、これだけ忠誠を誓えるものだとあきれ返る。一度カジノ中の従業員を唆して、ストライキでも起こしてやれば、あの驚いた鳩のような顔をした男も少しは懲りるんじゃなかろうか。

 想像するだけで、十分満足だった。とりあえず、このコルセットがあれば、身体的な不快感だけは緩和される。2日続いた夜勤で仕事をする気にならず、同僚を丸めこんでタイムカードを押させたのは、今月に入ってからもう2度目だった。そろそろ、真面目になる時期が近付いていた。

「それじゃ、これにしますよ」

 コルセットを小脇に抱え持って返ろうとしたら、最後まで無慈悲な声が、涼しくなった後頭部に投げつけられる。

「薬局で貰ってください。特殊なものですから、もし置いていなかったら取り寄せに時間が掛かるかもしれませんが」


 薬局に行くどころか、会計だけでも長丁場になりかねない。平日にも関わらず、ロビーは人だかり、ベンチの空きを探すことから始めなければならなかった。皺くちゃの老婆と、頭へ厳重に包帯を巻きつけた女の間に割り込み、トミー・ヒルフィガーの袋に突っ込んでおいたスター・レジャー紙を広げる。ただでも気が滅入っているのだ。自分の悩みだけで精一杯なのに、くたびれた顔で順番を待つ患者達の顔を眺めるなんて、耐えられない。殆どの人間が、着の身着のままの姿で、虚ろな眼を宙に向けている。一緒の空気を吸っていると思っただけで、風邪のウイルスと共に疲弊感まで肺の奥に押し込まれたような気分になる。うんざりした。



 尤も、盾となる新聞にしたところで、碌なニュースは載っていない。こんな田舎で同時多発テロなんか起きるはずもないとは誰もがわかりきっているので、記事も昔定期購読していたロサンゼルス・タイムズに比べ、どこか間延びしているように思えた。興味を惹くものと言えば、全国共通のゴシップ記事と広告だけ。一番下に小さく掲載された新商品の剃刀の能書きを眼で追っていると、不意に爪先に向かって、小さなボールが転がってきた。



 新聞に皺をつけながら拾い上げたそれは掌に乗るほどの大きさで、安っぽい金色をしていた。ゴムが生ぬるいのは、今まで誰かが触れていたせいだろう。結構な力を入れて握り締めても、球体はさほど形を変えなかった。

 あちらこちらから多重奏のように子供の泣き声が聞こえてくるから、誰かが落としたのだろうと思ってあたりを見回す。こちらに近付いてくる姿は見えなかった。新聞を折りたたみ、本格的に首を伸ばしても、結果は同じ。ディーラー特有の癖で、自然と掌で弄んでいたボールに視線を落とす前に、横から勢いよく腕が伸ばされた。

 振り向けば、隣で腰を下ろしていた若い女が、無言で手を差し出している。

「あんたの?」

 意外と近い位置にある顔を覗き込んで問うと、女は少し身を引いた。距離があいて、顔の特徴全体を把握することが出来た。確かに今はミイラのような見てくれだが、素材は悪くない。茶色に近いブロンド、右目だけでも十分魅力的な瞳。病院謹製の処置衣を身につけているからこそ分かる胸の膨らみ。



 少し間をあけ、開いた胸元を鑑賞してから、Dは女の手にボールを返した。離す直前に、冷たい指先を軽く握る。

「それ、リハビリ用だろ。俺の知り合いが腱鞘炎になったとき、似たような奴持ってた」

 女は無言のままだった。ガラスのように艶のない青灰色が、Dのこげ茶色の瞳にぴったりと吸い付いている。引いてしまった身体は、こちら側へ戻ってくることがなかったが。

 しばらく返事を待っていたが、名前は思ったよりも早く呼ばれる。肩を竦めると、Dは紙袋を掴んで立ち上がった。

「怪我、お大事に」

 むき出しの肩を、労わっているようにしか思えない手つきで叩く。そばかすが多いのはいただけないが、及第点。

 やはり私立病院より、治療費は格段に安い。待遇の悪さも待ち時間の長さも、値段相応というところなのだろう。仕方がない。教会が運営しているだけあって、治療はしっかりしているし、それに、時には思いがけない出会いが。



 ガラスのドアを押し、日の光に眼を細めようとしたところで背中を強く押された。二つの支点、柔らかい掌。バランスを崩し前のめりになったときは、一体何が起こったのか理解できなかったが、今ならはっきりと思い出すことができる。確かにDは、見ていたのだ。猛スピードで突っ込んできた車にわき腹を掠られ身体が回転した時、屋内に駆け戻っていく後姿が落とした、金色のボールを。


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