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3.ラプンツェル

 雑誌に掲載されたアルコール中毒患者の失明というページをこれ見よがしに広げておくGをうさぎのような目で睨みつけてから、Lは再び便器に顔を突っ込んだ。

「身体に良くない」

 相手が言い終わる前にひくひくと喉の奥を痙攣させ、無理して詰め込んだシュリンプカクテルを白い陶器に嘔吐する。青い洗浄液の中に沈んでいるのはシャンパン、スコッチ、トスカーナのワイン、アツカンが少々、ヘーゼルナッツにクラッカーに載ったキャビア、オイスターのオイスターソース漬け、鴨肉のローストっぽいもの。まだまだあるが、とりあえずまだ喉から細かい塊となって連なり、前歯の間から半分出かかっているのはキャベツのコールスローだろうと思う。千切り野菜なんて二度と食うものか。咳と共に吐き出した緑へ唾を吐きかけると、それはかろうじて見えている青い水の中で、油の皮膜となった。立て続けに強く無理矢理むせ返ってから、胃の奥でむかつきの根源となる最後の塊を吐き出そうと、もう一度大きく息を吸って身を丸める。胃全体が上下する感覚は留まることを知らず、余波の緩く大きなストロークで蠕動を続けていたが、結局何も出てこなかった。



「もういい年なんだから、少しは体のことを考えないと」

 3歩離れたところに立っているGは、同い年の癖に酷く落ち着いた風体でLを見下ろしていた。まだやっと50だ、と怒鳴り返したくて堪らなかったが、再び襲ってきた咳に阻まれる。まだ消化物は残っているはずなのに、鼻の奥まで満ちるすっぱい胃液しか出てこなかった。

「そんな口うるさいから、女と上手く行かないんだ」

 鼻を啜り、ローブの隙間から突き出した膝頭を叩く。

「さっさと結婚しろ」

「機会があったら」

「お前、まさか」

 立ち上って水を流せば、人工的なミントの匂いと吐瀉物の入り混じった匂いが一直線に顔まで吹き上げてくる。立ちくらみは二日酔いだけではない。最近、眠りが浅く、ちょっとしたことですぐ眼が覚める。

「ゲイじゃないだろうな」

 露骨に顰められた眉に少し溜飲を下げる。まだ脳みそが揺れる感覚は取れないし、脂汗は冷えていくばかりで不快この上なかったが。

「まさか」

「お前の妹が心配してたぞ」

「これは広報部長としてじゃない、義兄として言うが」

 Gはその大きな頭を揺らし、ため息をついた。

「私が堅物で、お前が軟派。お互いのことは口出ししないほうが良い」

「分かった分かった」

 しがみつくようにして引きむしったバスタブのカーテンは、今にも外れそうになっている。悪趣味なハイビスカス模様に頭が痛くなる。カーテンだけではない。このオフィス全般の趣味が酷かった。そう言えば、Gはまた肩を竦め、嫌味ったらしく言葉を付け足すのだろう。だから、あのインテリアコーディネーターはやめておけと言ったんだ。



 だがLは確かに専門家へ注文をつけたのだ。ヴィト・コルレオーネが座ってそうな、シックで重厚な内装がいい。それがなぜ真っ赤なアームチェアーと市松模様の床、ついでに黒豹の絨毯になったのかは永遠の謎だったが、眼にするたびあのぴったりしたズボンを穿いた男を殴りつけたくなるので、最近Lがここを使うのは、妻と喧嘩した時か拾ってきた娼婦を連れ込むときか、とにかく冷静に物事を考える必要が無い時に限られていた。




 出て行こうと背を向けたGを引きとめ、トイレタンクに山積みの書類を顎でしゃくる。

「面倒だ、読んでくれ」

「自分で読め。今日はこの後、何もないんだろう」

「女のところに行く」

「酒臭いままで?」

 汗を吸うには適していないシルクのローブを投げ捨て、様子を窺う。Gは呆れたような顔で肩を竦め、渋々ファイルに視線を落とした。こちらには見向きもしない。安心して、カーテンを閉める。

「だから汗を流すんじゃないか」



 なかなか温度を上げようとしないシャワーも、今だけはちょうど良い。火照った顔を水の粒に晒していれば、胸のむかつきは少し収まった。

「まずカジノの件だが」

「最近あのいかさま師はどうしてる」

 水音に負けない大声を張り上げようとしたが、口の中が粘ついて不明瞭にしかならなかった。掌に掬った水を口に含む。恐ろしく鉄臭く、慌てて吐き出した。

「まだシック・ボーのテーブルでうろうろしてるのか」

「シック・ボーじゃない、クラップスだ」

「どうでもいいさ」

「1度か2度、女と組んでパストポスティングの真似事みたいなことをしようとしたが、どれも結局未遂だ。まあ、誰とも組んでいないようだから、当然だな。最近は一人で出入りはしているが、こちら側に害があるようなことはしていない」

「こちら側?」

「まあ、つまり」

 一つ咳払いしてから、Gは言った。

「スロットで儲けたご婦人から、言葉巧みに金を巻き取ってる」

「十分な実害じゃないか、それ」

 蒸れた頭を引っ掻き、呟く。

「ホテルの信用に関わる。今度来たらつまみ出せ」

自らの言葉が水流に押し流されてしまっても、カーテンの向こうから声は返ってこなかった。

「聞いてるのか」

「ああ」

 大きな吐息と共に答えは返される。

「分かった」

 しばらくの沈黙の後、結局Gは口調をいつもどおりの大人しさに変えた。

「それから、フロアマネージャーから。第三ラウンジのスツールの色はダークブラウンでいいかどうか」

「この前決めたんじゃなかったのか」

「私に聞かないでくれ」

「あー、第三ラウンジか」

 腫れあがっているようにすら感じる脳では、上手くイメージを掴めない。

「テリヤキを出してるのはどこだ」

「それは第二だな。第三は、アイリッシュ・パブ風の」

「なら良いんじゃないか」

 まだ緊張したままの首筋を揉みながら、頷く。

「間違っても黒豹の頭なんか置くなよ」



 いちいちこんなことを、と苛立ちが沸き起こるが、言葉にはしない。たとえ枕の素材やボールペンの種類のような些細なことであっても、内装を変える時は必ずこちらに書類を回すよう指示を出したのは、他ならぬL自身だった。自室の白黒タイルを見たときの衝撃をもう一度繰り返すくらいなら、まだ詳しく手間を掛けるほうがいい。

「それだけか」

 石鹸を探そうと身を屈めたとき、邪魔をする腹に小さな衝撃が走る。最近、ジムに通うのをサボりがちだったツケが、こんなにも早くまわってくるとは思いもよらなかった。

「スロットマシンの入れ替えは、まだ先でいいだろう?」

 キューピー人形に近付きつつある下腹を撫でながら、Lは幾分覇気の無い口調で呟いた。女のところは次の機会に回し、ジムへ行こうか。案だけは出したが、頭は否定する。せめて酒が抜けてから、また今度。



「それで。お前の用事は? 宣伝活動か?」

人影が黄土色の影になり、カーテン越しを横断する。

「そのことなんだが、病院の」

 何かが崩れ落ちる音に思わず身を竦める。鈍い水音、陶器を叩いた時特有のぼんやりとした響きもほぼ同時に飛び込んでくるが、こちらはビニールに遮られてどこかぼやけていた。一番はっきりと聞こえてきたのは舌打ちと、小さく呟かれる、外面の良い彼が公衆の面前では絶対に口にしないような汚い言葉だった。

「どうした」

「落ちた」

 掛けた声と小さな呟きはぶつかりって足元の水に混ざり、排水溝に消える。

「何が」

「渡されたパンフレットがずぶ濡れだ」

「そこにドライヤーあるだろう」

 カーテンの隙間から指を突き出す。

「Bからか? 今度は何だ、看護師の数を増やしたいとか?」

「いや、患者との交流会に来てくれとさ」

「いつだ」

 分厚い風の音にかき消され、聞こえなかった。

「なんだって」

「今週の土曜日」

「そんな急に」

 突発的な怒りに、壁へ爪を立てる。

「大体なんで、直接俺に連絡してこないんだ。いくらあいつが神の子に成り果てたからって、タネを仕込んでやったのはこの俺だぞ」



 穴だらけのシャワーヘッドに重なったのは、清潔な顔をひそめ、悲しげに声を抑える息子の姿。

『父さん、いけないよ』。

それから母親そっくりの仕草で目を伏せ、胸の前で手を組み合わせる。まるで今から火あぶりに掛けられるかのように背を丸め、指先が白くなるほど力を込める。

『賭け事なんて、そんなの良くない仕事だ』

「嫌ってるわけじゃないさ」

 Gは静かに言った。

「本心では。だがあいつは、真面目だから」

「今更お上品な顔で清廉潔白だなんて言うなよ」

 鼻を鳴らし、吐き捨てる。

「うちから散々病院に寄付してやったから、院長さまさまじゃないか」

「だからこそ、こういう行事には参加しないと」

 ドライヤーのスイッチが切られるのと入れ替わりに、神聖な神の領域から発行されているとは到底思えない、毒々しい色刷りのチラシが差し込まれる。湿っているところに熱風を当てられ、惨めな皺を寄せるそれを、一応は眼を細めて読もうとした。だが余りにも多すぎる聖書の引用文と、飛び交う天使達の顔のリアルさに、目が霞む。気力が、石鹸の泡と共に背中を滑り落ちる。



「息子のためじゃない、本心から慈善活動に興味があるって、ふりだけでもしないと。すぐ周りに叩かれるぞ」

「Fに行かせろ」

 不愉快な紙を押しやり喚いた。

「遊ばせておくな。少しは仕事を覚えるよう、お前からも叱っとけ」

「Fを?」

 Gの口調に含まれたネガティブな感情は、かろうじてカーテンに阻まれ、あからさまにはこちら側へ届かなかった。

「12歳の頃、ホームレスの服に火をつけるしか遊びを知らなかった子供に、慈善の

意味が理解できると思うのか」

「ああ、くそっ。何でうちのガキ共は揃いも揃って」

 胸がむかつく。額を眼の前の壁に打ち付けたい衝動に駆られるが、奥歯を強く噛み締めることでかろうじて耐えた。少しずつ熱のこもり出したバスタブ内で、胃酸によるものではない渇きも酷くなる。奔流で視界にすだれの如く張り付いた前髪が視界を遮り、暗く燃える怒りをどんどん膨らませていく。実際、眼の前が真っ赤になるように感じたほど、弾ける前の癇癪は限界まで膨らんでいる。両手を壁につき、Lは俯いた。もう少しシャワーを強く出せば、血が出るほど打ち付けても気付かれないかもしれない。



「育て方を間違えたのか……それとも、なんだ、遺伝子のせいか」

 渦を巻き続ける憤激の中でも、いや、その中心に飲み込まれているからこそ、妻の顔は簡単に思い出すことが出来る。怪しげなリフレクソロジーの専門家に足を撫でさせる時の恍惚としたふやけ顔と、すぐに癇癪を起こしてコーヒーカップを割るヒステリーに支配されたこめかみの痙攣。息子達の表情と交換しても、何一つ違和感はない。

「俺の家系にあんなおかしな奴、一人もいないぞ」

 Gはもう、何も言わなかった。また走るだんまりも、今度は気分を持ち上げてはくれない。落胆し、いい加減水を止めようと手を伸ばすが、ふと首を持ち上げた先の光景に息を飲む。




 穴から飛び出す無数の水の粒一つ一つに、昼過ぎの光は平等の力を与える。薄い亜麻色の線となって続く水の軌跡を取り巻くよう、同じ色のきらきら輝く輪と、差し込む筋、それに絡むような波状の陽光。天窓からの恩恵が、バスルームを取り巻いている。いや、このシャワールームに窓など無かったはずだった。それなのに。この美しさはどうだ。気付けばLは、バスタブの中に腰を下ろしていた。

「それで、その女は今もずっと眠り続けてるそうだ。頭の傷の結果は良好らしくて、予定よりも早く包帯も取れそうだとか。だから女が目覚めないうちに、手を握ってる写真でも撮ってマスコミに流しておけばいいんだ」

「暴行」

 自らの口から零れた言葉が聞き取れないことを不思議に思いながら、Lはもう一度暴行、と唇に乗せた。

「そりゃ哀れな話だな」

 後頭部を浴槽の縁に乗せたまま、Lは少しずつぎらつきを増す光から目を離せないでいた。しっかりと形を保っていた輪郭はぶれ始め、天井全体が輝いているようにすら思えた。「見舞金でも送ってやれ」

「聞いてるのか」

 ビニールが揺れ、頬を掠める。

「ああ」

 海面に反射するような鋭さを以って目を刺すようになったきらめきにとうとう根を上げ、Lは斜め上から顔を叩く水を止めようと手を伸ばそうとした。痺れたように重く、腕は持ち上がらなかった。



 だが有能は広報部長は上司の意思を素直に見抜き、すばやく蛇口を捻った。不思議なことに、流れが消えても、光はまだ視界にまとわりついたままだった。それに被せられるようにGの大声が室内に反響することは、二日酔いの身体にとってあまりにも酷だった。



 目を閉じながら、Lはもう一度首を振ろうとした。やっぱり、シャワーを流してくれ。頭が燃えるように熱い。皆の言うとおり、もう若くないのだ。事実は認めなくてはならない。酸性のアルコールを分解するのはアルカリ性の食物が良いと聞いたことがある。今日の夕食は、コールスローだけにしておこう。それにしたって口にする気力があるかどうか分かったものではなかったが。それにしても、あの光は本当に綺麗だった。



 部屋を飛び出していくGの足音が消えてから、Lは誘惑にかられ、もう一度眼を開けた。ホテルのネオンよりも酷いオーロラ状の光に、すぐさま目を閉じる。だが今度は遮断した暗闇の中にまでついてきた光の波は、結局Lが意識を手放すまで、脳内から消えることがなかった。


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