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2.人魚姫

「記憶喪失ですか」

 部屋を出たWの白衣は、差し込む橙の夕日へ素直に身を任せている。それは、影に同化したBのジャケットが漆黒であるのと対称を成していた。この病院における、医師と聖職者の関係を表現するものとして。

「そこまで大袈裟なものじゃありません」

 くしゃりと顔を歪め、Wは屈託ない表情を作った。

「混乱しているだけでしょう」

「無理もない。あんな酷い目にあって」

 胸の十字架を押さえ、Bは眼を伏せた。

「まだ言葉を発してはいないのですね」

「こういうのは焦ってはいけないんです。頭の包帯自体は、2ヶ月もすれば取れるでしょうが。心の傷が身体の傷よりも治りが遅いということは、院長の方がよくご存知でしょう」

 Bがヘーゼル色の瞳に悲しみを浮かべていることに、Wは気付かない。見て見ぬふりをしているのかもしれない。そういえば、とBは十字架を握りなおし、息をついた。最初からこの男には、神の恩寵に対する感謝の念があまり感じられなかった。信仰とは正反対の立場にある職業柄、仕方のないことなのだろうが。

「そう……それが私たちの仕事ですから」

「いや、大変なお仕事ですよ」

 Wはまた頬に皺を作った。直射日光のような笑顔だった。患者に直接希望を与えることが出来るが、眩しすぎてその根本は見えない。

「ここは観光シーズンとは関係なくこの忙しさでしょう」

「誰をも平等に受け入れるのが神の御心ですから」

 静かに答えれば、唇の端が捲れ上がる。

「ごもっともです」

 これが本性なのだ。

「そういえば、最近告解においでになりませんね」

 湧き上がる憂いを表に出さぬよう少し俯き加減のまま、Bは口の中で呟いた。それでもWは悪びれた様子もなく、聴診器を首にかけなおすだけだった。

「最近忙しくて。それに、そう、何を告白すればいいのか……たくさんありすぎましてね」

 はっきりとした目鼻立ちと刻まれた皺に光が濃い陰影を形作り、笑顔を迫力のあるものに変える。白で装ったところでごまかされはしない。それは紛れもなく、毒された身だった。

「何でもいいのです。瞑想することに意味があるのですから」

「それでは、近いうちに」

 唇の先だけで言葉を返し、身をずらす。

「意識はあるようですが、ショックのせいか反応を示しません」

「わかりました」

 リノリウムにぶつかる革靴の音が去らないうちに、Bは分厚いドアを引いた。しこりはまた一つ残されたが、嘆くなどもってのほか。これは神が、自らに対して与えた試練なのだから。




 神学校を卒業してすぐこの教会病院の院長へ就任したBの人生経験には、ソマリアへの従軍も、インドのハンセン病患者に対する奉仕も含まれていない。だが、観光客のうろつくセント・ジェームス・プレイスから排除され、どん底をさ迷う人々に身を捧げるだけで、彼の信仰心は十分強まったし、そうあらねばならない。今の境遇を不満に思うことは、神の名にかけて出来ない。




 4人部屋の病室は、昨日虫垂炎の女性が退院して以来すっかり華やかさを失っている。生命の最後の炎を夢うつつの中で点す肝硬変の老女が一人、奥のベッドに寝ているものの、彼女に見舞い客が来ていたのを、Bは眼にしたことが無い。彼女の眠るベッドと、彼女達の家族が暮らす世界は、あまりにもかけ離れている。半分だけ開いたカーテンの向こうに見える茜色の空と、その下で直線を引くコンクリートの壁に遮断されているせいで、向こう側でさまよう失業者達の姿は、気配すらも感じられなかった。




 清潔だがよれ気味のカーテンが揺れ、無愛想な看護師が尿瓶を手に姿を現す。Bは見えない患者に一度視線を投げかけてから、乾いた瞳に眼を合わせた。

「彼女と話せるかな」

「もう終わりました」

 無感動に返すと、足音も高く部屋の外に出て行く。彼女は修道尼ではなかったかとため息をつくが、すぐさま思い返す。人間は誰しも、平等に悩みを抱えている。


 一番手前のカーテンを引くとすぐ、消毒薬の匂いが鼻をついた。意外と分厚い布地に遮られ、中は薄暗い。白いベッドに横たわる女の右腕には、点滴のチューブが二本と、抱えきれないほどの絶望がぶら下がっていた。弛緩していなければならないはずの指は宙を引っ掻くような形で凍り付いている。固まってどす黒く変色していた血は既に拭き清められていたが、首のギプスと、顔の左半分を残してしっかりと巻きつけられた包帯の白さのほうが、運び込まれてきた時よりも、その心の果敢無さを強調しているようで痛々しかった。

 


 立てかけてあったパイプ椅子を引き寄せ、Bは初めて女の眼を見た。左目は包帯の下にあったものの、腫れぼったい右瞼の中からは、青灰色の瞳がちゃんと覗いていた。

「気分は?」

 声にも、拡散した瞳孔が動くことは無い。

「ここは教会病院です。何も心配はいりません」



 ベッドボードに貼り付けられた名札は空白のまま。暴行による脳挫傷。頭蓋骨にはヒビだけで済んだ。重量のある鈍器で殴られては居るが、広範囲を浅く抉るような傷跡から考えて、加害者の殺意は低かったか、薬物の摂取ないしは酩酊状態における犯行の可能性が考えられる。性交渉の形跡あり、ただし外性器に損傷は見られない。



 よくある観光客の失敗談の一つに過ぎないし、心の中で呟く。確かに御子は淫売も救うと請け負っているから、その教えに従うほか無いが。汝姦淫するなかれとはモーセだってはっきりと言っている。

 ここまで考えをまとめてから、Bはもう一度女のほうに向き直った。手をとりそうになったが、怯えるかもしれないと考え引っ込める。最初の接見は、尼僧に頼んだほうが良かったかもしれない。




 眼に入る範囲で動きを見せているのは落下する点滴の雫だけで、あとはカーテンの裾すら動かない。確かにWの言うことは正しいと、Bは渋々認めた。一介の聖職者は、奇跡を起こすことなど出来はしない。女の頭骨を接着し、青痣を消し、今すぐ目覚めさせることなど、とてもとても。人間は、ちっぽけな存在でしかない。

 だからこそ、大きな神に祈るのだ。Wの目尻の皺は、信仰の衝撃となってBの身を貫いた。軋みをあげる椅子を畳み、その場に膝をつく。縋るしかない。彼女に慈悲を。そして、つまらないことで身を焦がす自らに許しを。日に何度も襲われる衝動に誘われるまま、Bは深くこうべを垂れた。




 身じろぎすれば時おりへこむ床の上に佇んでいるとなると、薄いジャケットとローマンカラーでは少々肌寒い。そろそろ秋も近付き、観光客の姿も日に日に減り続けている。この時期、しかも週末にやってくるのは、バスが運行している地域の人間ばかりだった。飽きることなく賭け事に興じる彼らは、その虚しさに気付いていないのだろうか。いや、気付いているに違いない。だからこそ、自然と活気は無くなり、街の色は濁りを増す。



 目前の女も、おそらくニューヨークかワシントンDCあたりからやってきたのだろう。身に着けていた真っ赤なドレスの色を思い出し、ニューヨークの住人だろうと見当をつける。セント・ヨセフ神学校に在学していた頃、街を歩く女性達の服装は妙に高価で、学生達はその姿をいつも嘆きながら、同時に欲情していた。良すぎる縫製は、安っぽく華美なネオンを所狭しと飾りつけたアトランティックシティではひとりでに浮く。そうして、よからぬ輩のカモになる。



 この女もそうした人間の一人なのだろうかと、Bは諦めの境地の果てから、瞼の裏に横たわる肢体を見下ろしていた。なぜ人間は着飾り、虚勢を張るのだろう。神が創りたもうたままの姿が、一番美しいに決まっているのに。この女が何者かは知らないが、恐らく人目を引くような、綺麗な姿かたちだったのだろう。それが今は、見事に腫れあがった顔と、後遺症の可能性を抱えている。変化した現実を拒絶しようと、眠り続けている。



 自分を貶める権利など、誰にも無い。だからこれは、罰なのだ。

 そしてBには、神に仕える者として、彼女に手を差し伸べる義務がある。





 呻きに顔を上げる。耳の後ろから聞こえてきたのは明らかに女が発するものではない。

 カーテンの向こうで、老女が苦しそうに身を捩っていた。立ち上がり、枕元に駆け寄る。

「痛いですか?」

 老女は薄目を開け、Bを見た。歯の殆ど抜け落ちた口が大きく開く。耳を近づけたが、言葉らしい音は聞こえない。ただ獣じみた喉声が、狭い喉奥から漏れている。 

 今度こそBはシーツを掴む皺だらけの手を握りしめた。普段は乾ききった掌に脂汗が滲み、まるでBの大きな手が離れていくことを恐れているかのように、精一杯の力ですがり付いてくる。

「医師を呼ぼう」

 言うと、老女は細い白髪を振り乱して拒否した。皺だらけの口元に絡みついた毛先を払ってやりながら、Bはもう一度同じ言葉を繰り返した。今度は、幾分喉元を震わせながら。

「苦しいでしょう。薬を貰ったら、少しは」

「いえ、ファーザー」

 ようやく、かすれた声が耳に届く。うごめかす事もままならない萎えた脚にシーツは絡みつくばかりだが、それでも老女はBから目を離そうとはしなかった。

「貴方に居て欲しいのです」



 全身を垂直に貫く歓喜に促され、気付けばBは勃起していた。



「まだ最後の時ではない」

 引き攣れた微笑を口元に浮かべ、握り締める手に力を込める。

「だが、貴女が望むのならば」

「ファーザー」

 飛び出した頬骨を一度枕へ打ち付け、老女は喘いだ。

「お聞きしたいのです」

「なにをだね」

「わたしは、つみ深い人間です」

 一つずつ切れ切れに言葉が発せられるたび、Bは頷いた。まさに沈まんとする夕日が背を照らす。あれほど疎ましかった橙色は今、神の御心を伝える情熱の炎となって、Bの心を燃えたたせた。

「告白を」

 上擦った声でBは命じた。

「今、貴女の魂は救いを求めている」

 何も知らず、老女はもう片方の掌もBの手の甲に重ねた。点滴の管が一本抜け、シーツに鮮血が流れる。

「夫は、女と出て行きました」

 半分近く閉じられ、皺やたるみと同化した彼女の瞼の奥にも、異様なきらめきが見える。

「30年前に」

「許すのだ」

 深く息を吸い込み、かさついた皮膚を慈しむように掌で触れる。

「それは神が与えたもうた試練なのだから」

「もう、憎くはありません」

 やにのこびりついた目尻に、涙が滲む。

「わたしも、つみを」

「赦しを請えば、神はお許しくださる」

「わたしも、夫が出て行く前に」

 息が詰まり、咳き込む。益々赤の円を広げていく血潮に臆することなく、Bは身を乗り出した。突っかかる身の痛みなど、気にもならなかった。

「さあ」

「つみをおかしました」

「相手は」

 吐き出される息に、木枯らしのような甲高い音が混じる。苦しみに、顔色は蒼白を帯びていく。もっと苦しめ。Bは手に力を込めた。どれほど重い荷を背負わされていたとしても、私はここにいる。

「いとこです、遊びにきた」

 荒い息の中から最後、搾り出すようにそう言うと、彼女はがっくりと枕に頭を静めてしまった。上下する胸は、待つしかない。最後の時間を。医師の助けを。そして何よりも。

「貴女の罪を赦します」

 全身の慈悲を舌先に込め、Bは宣言した。老女の眼から新たに透明な水が湧き出した。

 スラックスを突き破りかねない興奮の高まりは苦しかったが、洗われた心を前にしては、全てが鳴りを潜める。

「父に感謝を」

  もう一度、穏やかな口調で言ってから、Bは彼女の手を離した。この老女を見よと、Wを連れてきて見せ付けてやりたい気分だった。こんなにも穏やかな表情を、貴方は今まで眼にしたことがあるのか。





 ナースコールを鳴らし、駆けつけてきたWと看護師に笑顔を見せる頃には、興奮も収まり、本来の落ち着いた表情で接することが出来る。

「管が抜けたときは、すぐ連絡してくださらないと困りますな」

 自分よりも一回り以上年下のBに、Wは軽蔑とすら思える表情を向けた。だがBは、全く気にならなかった。

「彼女の告白を聞いていたのです」

「それも結構でしょうが、これが」

 針を刺しなおす看護師の手つきを確認しながら、Wは言った。

「途絶えると、彼女は物凄い激痛に晒されるのですよ」

 いつまで経ってもBが柔和な微笑を浮かべたままなので、諦めたらしい。それ以上は言わず、帰りがけにちらりと、カーテンで仕切られたベッドを覗き込む。

「まずいな、チアノーゼだ。泡を吹いてるぞ」

 乱雑に老女の腕を放り出した看護婦が後に続く。にわかに騒がしさを増した部屋に、夜の訪れを示す蛍光灯が光った。窓の向こうに眼をやれば、もう太陽は沈んでいた。




 駆けつけてくる医師たちを尻目に、Bは篭った息をついた。開かれることのないカーテンの内側では押し合いへし合い、もうしばらくはあの状態が続く。女の身体を弄繰り回し、ばらばらにしてから繕う。それに比べ、奥で横たわる老女のなんと清閑で神々しいことだろう。



 晴れた日の湖水のように静まり返った自らの心に浸りながら、Bは悠々とその場を後にした。


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