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1.シンデレラ

 タンドリーチキンサンド、と思う。勃起、と思う。どちらも今あったら最高にクールだが、得るのは面倒くさい。それに、まだもう少し我慢できる。顔を跨いでいる女の尻を見ながら、Fは考えていた。パンティで覆われていても分かる。ほんの数インチの場所にある大陰唇が左右非対称で、通常よりもふっくらしている。重く垂れ下がった柔らかい肉に、舌を伸ばしたら届くかとも思ったが、幾らなんでも上過ぎる。女がもう少し腰を落としたら、彼の小さな鼻は巨大な尻に押しつぶされてしまうに違いない。




「ねえ、煙草どこ?」

「そこらにあるだろ」

灰色のローレグショーツなんか履きやがって、色気もクソもない。あれだけ身をくねらせて踊っていたってのに、ジンジャー・スパイスみたいに情熱的で、ぴったりとした赤いドレスに浮き出ていなかったのはどういうわけだ。

「ないわよ」

もっともクラブの照明はいつもどおり低いものだったから、ただ見逃していただけかもしれないが。鳥目のせいに違いない。ここのところ、栄養管理などというものと全く無縁の食生活を送っている。

「ハッパなら、小銭入れ」

 とにかく、もともとそれほど身を隠していなかったスカートを捲り上げ、エキサイトしたまま腰を掴んだら掌に感じたのがナイロンの無機質な手触りでは。幸い下落したボルテージは勢いに押し流され、一度も手は止まることなく、女も気付いていないはずだった。彼自身も、今まで忘れていたほどなのだから。こうも眼の前に突きつけられるまで、Fは射精後の気だるい空気を素直に感受していた。普段心のどこかに隠れている情緒が、この女と会話をさせる気まで起こさせていたほどだった。




 ふんと鼻を鳴らせば、耳朶に押し付けられた太腿が微かに震え、真上から発散されている女の匂いが益々濃くなった。

「なによ」

「なにも」

「変なの」

 膝を使ってずり下がり、最終的に女はFの腹に尻を落ち着けた。結構な衝撃に一瞬息を詰めれば、噂話に笑う事務員そのものの笑いが浴びせられた。相手の分まで取ってやろうという細やかさはないらしく、一人悠々と紙巻を銜え、手馴れた仕草でジッポーの火を近づける。その落差が悲しい。甘ったるい副流煙を嗅ぎながら、Fは濃い眉を顰めた。



「そんな顔しないでよ。こっちまで滅入っちゃう」

 ちょうど右手をついた場所で咆哮する狼とトライバルのタトゥを撫でながら、女は言った。

「あんたみたいに何でも揃ってる男に、悩みなんかあるの」

「うるせえな」

天井をにらみつけたまま腕を振る。闇雲に振り回して当たった先にあった膝に手を当てると、よく発達した内股が胴を締め付けた。

「おまえには分かんねえよ」

「だろうね」

 見上げた乳房はロケットのような形をしていた。ぴんと尖ったままの乳首はオルガスムスの名残だということは分かったが、本当に絶頂の波が引いたのはいつだったか、実際のところFはわかっていなかった。女はややこしい。男は突っ込んで出して、それで終わり。けれど眼の前にいる女は、身体を離してシャワーを浴びた後もまだ蕩けたような顔で、いとおしげにFのことを見つめている。見つめ返し、ムードに参加してやる気にはなれなかった。もともと人と視線を合わせるのは嫌いだった。今も、安っぽい照明よりは遥かに輝く真上の瞳の色さえ知らない。しぶしぶ顔を上げる。途端期待で緩められた表情にげんなりした。灰色の濃い蒼。今日の空の色よりは明るい。日暮れまでのあと数時間、どちらを眺めているほうがマシかと聞かれたら、とりあえずはこちらを選ぶ。第三の選択肢があれば、迷わずそれに飛びつくほどの忍耐でしかなかったが。




「お金あるんじゃないの」

「よく知ってるな」

「服とか見たら分かるよ」

 見ず知らずの女に指摘されるのは不愉快だったが、仕方がない。彼女はもう既に、ドルチェ&ガッバーナのジャケットを興奮の余り皺くちゃにしていた。

幻滅はテーブルクロスに零したコーヒーのように丸く広がる。もう二度とこの女の顔を見つめないと誓う。だから、相手が何を見ているかも分からないままでいい。顔か、金か、ステイタスかセックスか。女が知っているのは最初と最後だけのはずなのに、見透かされているように思えて怖かった。

「使う場所なんか限られてるからな」

「嫌味」

 ベッドが軋む。振り落とされないようにと、脚に乗せた指先へ無意識に意識を集中させた。そういえば、この太腿から下の肉付きが良かったから声をかけたのだ。先ほどから小骨のように喉へ引っかかっていた疑問が、落ちてシーツの間に消えた。リンキンパークのニューシングルに身を任せる女は黒いすべすべした子山羊のローカット・ブーツに包まれた足を殆ど動かすことなく、器用に膝をすり合わせ、肩を傾げていた。


 この季節に、しかもアトランティックシティのど真ん中でブーツだなんておかしな話だったが、その違和感が更に興味を煽った。

「それがこのざま」

「なに」

「なんでも」

「そればっかりね」

「他になに話せって?」

「なんでもいいけど」

「じゃあ、どこから来た」

 人差し指で女の肌に文字を綴りながら、Fは尋ねた。

「コネチカットとか?」

「ニューヨーク」

 ボードウォークの近くにあるバス停で群れているツアーのメンバーだろう。あんなしけた連中に仲間入りするにしては、少し若すぎるような気もしたが。

「その前はクリーブランド。8年前、高校を卒業して出てきたの」

「どこのクリーブランド」

「オハイオの」

 それほど年が変わらなかったという事実に驚く。若く見える。これは賞賛してもいい。

「で、どうしてこんなところにいる?」

「最初はみんなと一緒に、タージマハールでスロットしてたのよね」

 髪を掻きあげながら、女は真面目な顔で答えた。舞い散る灰を振り払いながら、Fはわざとらしいしかめ面を作った。

「ドナルド・トランプの手先か」

「知らないけど。でもすぐに飽きちゃって……そんなたくさんも、使ってられないでしょ? 買い物って気分でもなかったし」

 拡散した煙に鼻先を当てるだけでぼんやりとしてくる。今日は疲れているのかもしれない。人肌が恋しかったことは確かだ、あのクラブにいたときは。今はもう、いつもどおり全てが鬱陶しくなりつつある。ただぬくもりの名残は、離し難い。枕を当てなおす間も、反対の手でずっと女の膝に触り続ける。

「それで、何人かであのクラブに行ったの」

「友だちは?」

「置いてきちゃった」

 だってあなたみたいな、いい男がいたんだもの。

 胸の中で痺れるような腹立ちが膨らみ、それは深呼吸をした程度では到底収まるものではない。薄く口を開けたら、干上がった舌先が甘い白煙を探り当て、痛かった。



「今日帰るのか」

「ええ。8時半のバスで」

 お決まりのパターンだった。朝に来て、夜に帰る。この町はニューヨークから近すぎた。




 この町にあるベッドはいつも淋しい思いをしている。深夜一人ぼっちなのはもちろん、昼間だって、時々気まぐれな二人組が身を横たえるだけ。誰も彼もが、あのやかましい音を立てるスロットマシンの間を、紙コップ二つを持って――1つはトロピカルなジュース、もう1つには戦利品のコインを入れて――歩き回っている。彼らの姿は毎日のように見ているから、努力しなくとも頭に浮かんでくる。彼らは魚だった。そしてカジノの様子は、人気のない浅瀬に似ている。薄暗いけれど、時々はっとするようなどぎつい光が差し込んでくる。巌にぶつかる波がうるさく、しきりに水面が揺れている。そして魚は、もしかしたら干上がるかもしれないという普遍的な恐怖にだけ晒されている。まさか上から漁師の網が降ってくるなんて思いもよらない。丸々と肥え太っている。狭い岩礁の間を縫うように泳ぐ。 



 そんな場所を観光客は知らない。知っているのは、この街に住む人間だけだ。冬のボードウォークにある落とし穴のような場所。砂の上でしゃがみこんだFが、厳しい水の色を眺めていたことは、一度や二度ではなかった。



「あなたも?」

「ああ?」

「観光客なの?」

「ああ」

「よく来る?」

「ああ」

「眠いの?」

「質問ばっかりだな、おまえ」

「だって、気になるんだもの」

「俺の知ってる女は、殆ど喋らないからな」

「それ、人形だったんじゃないの」

 その通りだ、と妙に納得する。態度には出さなかったが。最近気心の知れた友人か、娼婦としか寝ていない。

「あなたはだぁれ」

 伸ばされた語尾が不愉快だったから答えなかった。けれど、女はもう一度同じ言葉を繰り返した。

「知ってどうするよ」

「なんとなく」

 丸く、年増女のように下品に開けられた赤い唇から、最後の煙が吐き出される。眼を瞬たかせ、Fは顔を背けた。

「王子さま」

 呟けば、女は心底愉快そうに笑った。どうすれば、こういった笑いを自然に発することが出来るのだろう。

「なにそれ」

 煙が薄まる余韻も与えずに、女はFの身体から、ベッドから降りた。不意にFは、身を上下させる固いスプリングが、無性に哀れに思えた。見捨てられた左手で、ぬくもりを残したままのシーツを撫でた。指の腹が、安っぽく毛玉さえ浮いているように思える白い布の上を滑る度に、胸の鼓動と一拍遅れるリズムで、不安が広がっては、萎む。




「もう一回、スロットに行ってこようかな」

 ベッドサイドの灰皿にマリファナを投げ捨て、女は丸まっていたブラジャーを拾った。肩までの金色の髪では覆い隠すことの出来ない、背中一杯のそばかすが、精神の均衡を更に崩す。分かっていながら、Fは後姿を凝視し続けていた。


 目を離したのは、すぐ近くに転がっていたズボンを探したときだけだった。

「穴場、知ってる?」

「穴場って?」

「よくコインが出る場所」

 身を起こしたとき見えた素足は、小さい踵と、小さな指をして、異様に平べったい。綺麗だと思った。ブーツで隠してしまうには、勿体無い。

「うちのホテル来るか?」

 ホックをとめ、笑みを貼り付ける。女は振り向いた。眼がガラスのように輝いていた。その途端、Fは確信した。眼の前で閃いた光に身を投げ入れた。息が出来なくなるほど胸が痛んだが、もう付随する感情は何もない。

「うちって?」

「俺の親父が経営してるホテル」

「どこにあるの?」

 今にも駆け寄ってきそうな身体の前に手を突き出し、声を低める。ただその反応のためだけにある苛立ちと興奮で、動悸が治まらない。

「服着ろよ」



 女がドレスを頭から被っている間に、Fはサイドボードに鎮座する、安くて重い、金メッキのはげかけたベッドランプを掴んだ。コードが抜けたとき、すぐ近くにラッキーストライクの箱が転がっているのが目に付いた。女の嘘に、決意は煽り立てられる。

「ねえ、なんて名前のホテル?」

「キングダム」

 首を出した女の頭を力いっぱい殴りつけても、乳白色の傘は割れなかった。安いから、分厚く出来ている。飛び散った血が染み付いただけで何の損傷もない。これだって、洗剤と布で簡単に落ちるだろう。

 額を割られて後ろへ仰け反るように尻餅をついた女は、何が起こったかわからなかったに違いない。流れる血で眼も潰れていたし、考える暇を与えることもなく、Fはもう一度左の側頭部と後頭部の間にランプを振り下ろした。一番力の掛かる場所に女の頭はなく、それでも傘の頂上についていた天使の飾りが傷口を抉り取るほどには良い心地で当たった。そのときやっと、女はぎゃっと悲鳴らしい悲鳴――ただし想像していたよりも野太かったが――をあげ、その場に転がった。



 助けてとしわがれた声で唸った女のドレスは肩のところで止まっており、下着が丸見えだった。ローレグショーツは今はもう、無視できた。確かに嫌いだが、今考えれば我慢できないほどのものではなかったように思える。

「行けよ」

 締まった太腿を蹴飛ばせば、女は見えない目と腕の力だけを頼りに、入り口へ向かって這って行った。芋虫のように身をよじる姿は、数時間前クラブで見たダンスとそれほど変わりないように思えたし、あの時と同じく無言だったことが、好感度を増した。

 また、絨毯を叩くようにして擦るが眼に入った。驚くことに、踵はひび割れていなかった。一体どれだけ垢すりをしているのだろう。見れば見るほど、綺麗だった。



 先回りして、ドアの数歩手前で立ちふさがる。女の手が、今はもう血で無茶苦茶に縺れて固まった金髪の頭がズボンへ触れそうになったので、少し身を引く。


 女が何か言おうとする前に、Fはその場へしゃがみこみ、まだ手の中で奈落の底へ引き落とすような重さを持っているランプを掲げた。

「行くんだろ、“王国”へ」

 ここからは不恰好なじゃがいものような頭しか見えなかったが、後でもう少し女の足を見ようと、Fは考えた。取立て気に入ったわけではない。ただ、素直に綺麗だと思った。こんな感情は久しぶりだった。


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